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私にとっての高校バレー

私はサッカーJ2ブラウブリッツ秋田の傘下にできた育成のためのバレーボールクラブの代表兼指導者をしています。

バレーの指導現場で気づいたや、自分がバレーで育って来て経験したことや、子育てしていて感じたことなどこのnoteに書き留めていこうと思っています。


大人たちに進学先を決められてもそれに対してなんの反論もしなかった私は、中学卒業後は親元を離れ、バレー強豪校である角館南高校に入学しました。

当時、春高バレーは3月に開催されていて、入学直前に先輩たちをテレビで観ていました。

全国ベスト8に入った先輩たちを身近で見た時の眩しさと言ったら…本当にキラキラしていました。

私はどちらかと言うと『カッコいいなぁ…』と、いつも人ごとのようにぼーっと見ていて、自分もこうなってやる!みたいな野心のようなものはあまりなかったかもしれません。

前回のお話で、親元を離れた私が自立できたのか⁈という問いで終わっていましたよね。


どうだったかというと…実は、親元を離れて生活してもちっとも自立なんてできませんでした!

もちろん下宿先で洗濯や掃除など身の回りのことは全て一通りやりましたが、心の中はいつもふわふわしていて、柱のようなものが全くと言って良いくらいできていなかったんです。

それってなんでなんだろうって思いますよね?

それに関しては私なりの解釈があるのですが、また別の機会に。
(長くなるので引っ張ります笑)

そして、中学生の頃から怒られ、殴られながらやってきたバレー。

自分の頭で考えながらプレーするなんてしたことがありませんでした。

うちの高校の先生はありがたいことにほとんど怒ったり殴ったりしない先生でした。
(まぁ、イヤミはよく言われていましたけど笑)

大人になって先生に会った時に「お前たちは中学で殴られながら育った選手ばかりだったから、自分たちで考える力が弱かったなぁ」と言われたことがありました。

先生にはバレていました笑

そして、忘れもしない春高バレーの予選。

当時は秋田県と山形県の2県で予選を戦う『西奥羽大会』でした。

決勝の相手はライバル由利高校と秋田県同士の戦いになりました。

それまでうちの高校は新人戦や秋田県予選でもいつも決勝で由利高校に敗れていました。

1対1で迎えた最終セット、当時はラリーポイントではなくサイドアウト制ででしたが、なんと、13対5で私たちのチームが大量リードしていたんです。

あと2点で「勝てる!」誰もがそう思っていたと思います。

ところがそこから全くと言って点数が入りません。

何度サイドアウトを取っても取り返され、私が渾身のスパイクも絶対に決まったと思って打ったのに相手のスーパーレシーブに拾われて切り返されてしまいました。

普段はほとんど感情を出さずベンチを見ない私が、初めてベンチを見ました。

“先生、私どうしたら良い?”

多分そういう顔で見ていたと思います。

じわじわと点差が縮まり、そして最後は逆転され、13対15で負けました。

東京体育館まであと一歩でした。

試合が終わってエンドラインに整列している時、「夢であってほしい」と思っていましたし、今からもう一度やり直したいとさえ思っていました。

記憶の中で視界がぼんやりしているのは涙のせいだったんでしょうか。
泣いた記憶もないんですけど。

結果的にあの大逆転負けは私の人生においてかなり大きな転機になる出来事になりました。

高校時代の話はまだまだありますが、今回はこの辺で…。


#バレーボール
#高校バレー
#親と子の関わり
#ブラウブリッツ秋田バレーボールクラブ

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