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私がバレーを始めたきっかけ
私はサッカーJ2ブラウブリッツ秋田の傘下にできた育成のためのバレーボールクラブの代表兼指導者をしています。
バレーの指導現場で気づいたや、自分がバレーで育って来て経験したことや、子育てしていて感じたことなどこのnoteに書き留めていこうと思っています。
私は秋田の男鹿市というところで生まれました。5歳の頃に父が八郎潟干拓地にできたモデル農村の農家として入植し、大潟村で育ちました。
幼少期の私はどちらかというと体が弱く、消極的でいつも人の輪に入れず、あまり体を動かさないで遊んでいる子どもでした。
そしてそもそも『体育が大の苦手』でした!
中学生に上がる頃、父に真剣な顔で「中学生の3年間だけでいいからスポーツをやりなさい。それも団体競技に限る。」
そんな風に言われました。
父にしてみれば、娘の将来を案じての提案だったのでしょうが、体育系の部活に入る気がさらさらなかった私にしてみれば青天の霹靂です。
日頃からあまり私に対してとやかく言う人ではありませんでしたが、たまに発言すると有無も言わさないというところが父にはありました。
入学早々バレー部に入ったものの、練習について行けずすぐに体調を崩して入院、約半年休部状態になってしまいました。
それでも、憧れの先輩がいたり、ちょっと面白そうという理由で、またバレー部の練習に舞い戻り、下手ではあったのですが、敵味方が入り乱れないという競技の特性が私にはあっていたようで、少しずつ上達していき、そして身長はぐんぐん伸びていきました笑
(ただし、中2の秋にスタメンに入るようになると毎日のように怒られ殴られ、バレーが好きだと思えなくなっていて、いやいや練習をしていた日々でした)
そして、高校進学を決めるという頃には「中学生の3年間だけでいいから」という父との約束はあっさり反故にされ、気が付いたら県内のバレー強豪高校に進学することが大人の中だけで決まっていました。
今では考えられないかもしれませんが、時代だったのでしょうね。
それに対して自分の意見が言えない私は、全く反論することもなくあっさり従っていました。
高校は自宅から車で約2時間半から3時間かかる場所にあり、下宿をすることになりました。
中学を卒業したばかりの娘を手放すことを母はとても心配していたようです。
そりゃ、幼少期からの私のことを考えると心配もしますよね。
はたして、親元を離れた私は自立できるようになったと思いますか⁈
その答えは次回に続きます。
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