合わなくなってきた。

合わなくなってきたなあ。

親しくなればなるほど、失礼を働いていいと認識してるタイプが苦手。
親しくどんどんなるけど、それとは無関係でずっと礼儀正しく優しく気遣ってくれる人は、実はいる。

もう2年以上付き合いのある友人が、だんだんとその姿勢を崩してきて残念に思っている。
モヤモヤっと心に来ることが多くなり、距離をとることに決めた。

こういう時に頭をよぎるのは、
大切な人たち。
今も大好きな数少ない友人たち。
いい見本があるから、私は揺ぎにくくて居られるんだろう。



未練がましく、すがった、あの頃。
あの子も、あの子も、あの子も、
私が我慢していい所を探して付き合い続ける義理は無かったのに。

何であんなに未練があったのか。
それが「幼さ」なのだと知る。
4歳の娘が、「これは好き」で、好きじゃないものは「嫌い」だからだ。むしろ、わざわざ「強烈に嫌い」になろうとしているかのように。嫌いな理由(筋違い)さえ嬉々として語る。聞いてもないのに。必要ないのに。
ほんのりその様子を見守りながら、
「好きでも嫌いでもないフラット」にしておいているその状態が苦手な訳ではなく、「好きをもっと持ち上げるために他を嫌いと言う」節もあるかなと見受ける。

若かりし頃は、「好き」一つ一つに全力を注ぐためにキャパオーバーになったその他のものは「嫌い」と締め出すことで、自分の知らないもっと楽しいことや嬉しいことに自分が気付いていない不安感や自分の小ささを、直視せずにすむ安心感を求めていたように思える。

大人になると単にこうだ。
『何かを否定するのはとっても難しい。僕には簡単じゃないことだよ』(椎名林檎)


林檎姉さんほどではないが、私も何かを否定しまくる気力がもう無くなった、めちゃくちゃ過ごしやすい。

好き以外が全部嫌いだったみたいな気がする。
今は、好き以外が全部、好きになる無限の可能性を秘めて開かれている。

好きなものや憧れは、手を出しちゃいけないものなのか。そう躾けられてきたのか、はたまた自分には相応しくないと諦めることで身を守ってきたのか、周囲の両手の範囲内にきたものは自分と同等に取り込んでしまって「卑下」する対象にしてしまう人間がいる。 貴女もそうだよね、私と同類だよね、と、私のことまで卑下し始める。

マウントに似たようなアゲ同調圧力もシンドイが、サゲ同調圧力もシンドイ。てか、同調圧力そのものがシンドイ。

「私は違う」と言ってほしい。
それないわー、思ったことないわ〜って、
ケロっと言ってくれそうな人たちだけが、
私の数少ない友人であり続けてくれている。
逆に私が「私は違う」と言ったとき、
「そうか!なぜだ、詳しく…!」とワクワクしてくれるであろう人たち。

未練がましく周囲にすがった幼い頃、
少しでも相手と違う部分があるだけで心を痛めたあの頃。

ピタリと同じ人間なんていない、わかってはいたはず。親でも、友人でも、夫婦でも。
なのに可能性に憧れていたのだろう。双子みたいにピタリと一緒の頭の中で自分を全て理解されたいという妄想に。


相手がいて、
その中に「同じ」があれば好き。わかる。
その中に「違う」があればシンドイ。わかる。

シンドイ違いも、ある。
そこは絶対無理っていう違いも、そりゃある。わかる。

ただ、その「絶対無理な違い」を
どんだけ少なく出来るか、これに尽きる気がする。
そんで本当に「絶対無理な」なんて、
よーくよく考えてみれば、命に関わるもの以外、案外本当になーんも無い。しらんけど。たぶん。

ただ、自分にとって「なんかよくわからんけど会うとちょっとだけテンション下がる」人っていうのに、ほんとコーヒーでも入れる気軽なテンションで「距離をとれる」ようになったことに、自分的に大人の最強さを感じている。
教室を抜け出して、「仲良くはしないけど最低限の礼節はする」関係で、誰からも怒られない。

選べるんやから。
またテンション上がるようになったら、ほんのり戻ったり。どうしても会わなきゃいかんときは、自分に素直にどっちでも良くて。またシンドイときは幾らでも方便はあるわけで。

選べるんやから。

幸せな人間関係て、若い頃思い描いていたものと随分違う。
自分はどこまでも一人の人間だ。
自分が満たされていることが、自分と自分の人間関係が、一番大事な人間関係なのだきっと。

私のために、たった一杯のコーヒーを入れる努力を惜しんでいる場合では無いぞ。自分。

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