命の誕生は絶対嬉しいもんでは全然ない


命の誕生は「絶対に嬉しいもん」では全然ない

というのは単なる事実だ。

場合によっては「歓迎されない」ことがあり得る、それを想像できない人のほうが少ないだろう。

しかし「誕生を喜ばれない命がある」ことを認めてしまうのは、精神的にクるものがある。
無意識のうちに強い抵抗を感じてしまう。
喜ばれない命なんて…あまりにも悲しいからだろうか。(そんな鬱陶しい思想で、なのか?)

頭では理解しているのに、日々を生きるメンタルの中では認めていない、認めたくない。
そんな事象だ。

「生まれる」ことがどうかはともかく、
「生きる」ということは、
これはめちゃくちゃ嬉しいもんだと、歓迎されるもんだと、私は信じている。生きて、時間を過ごす、これはめちゃくちゃ尊い。

一方で、
「生きる」ということが、ツラい人だっていることも、想像できない人のほうが少ないだろう。生きることから「逃げる」「止める」人がいたって、私は、いつだってその決断を責めることはできない。心の中でだって。1mmも。

「生きる」ことが「歓迎されない」「嬉しくない」と考えている人を見る目と、
「生まれる」ことが「歓迎されない」「嬉しくない」と考えている人を見る目に、
私の、中で、何故か、齟齬が生じる。

なんなんだろう。


先日、スーパーで買い物中に娘が見知らぬ女性に声をかけられた。

身なりのキチンとした着物でグレーヘアの女性で、その人は笑顔で5才の娘にこう言っていた。

「もうすぐお姉ちゃんになるのねー」
「嬉しい?赤ちゃん」
「男の子かな?女の子かな?」
「ねえ、お姉ちゃんになるの、嬉しい?」
「お姉ちゃんになったら、しっかり面倒みてね」
「もうお姉ちゃんだからできるよね」
「お姉ちゃん、お母さんのお手伝いちゃんとしなきゃね」

ご婦人は「でしょ?」と、言わんばかりの目つきで私のほうを見た、私の大きなお腹を。

私は娘を、見つめている。
押し黙った娘。
「ねぇ、お姉ちゃん」「ねぇ、お姉ちゃん」と言葉を重ねられるたびに、肩に力を入れて硬らせた娘の表情。

いま、確実に、お腹の子の命は、目の前の我が子から「歓迎されない」命。なのだ。

(もちろん、親は歓迎しているけど。)

ただ、この娘の「歓迎しない」感情を、いったい誰が責められるだろう。

「まだ、…」
と私は言う。娘を見つめながら。
「まだ、心づもりが難しいようなんです…」
「赤ちゃんが生まれたら、私のこと、忘れちゃうんでしょ?…て、言います」

そこまで言って、初めて女性が言葉を重ねるのをやめて黙った。

最後に一言
「でも、そうやって言うのも可愛いですね」
と笑顔を一つ私にくれて、その女性は去って行った。

私は娘を見つめていた。

その女性は、娘を可愛いと言って去った。
たぶん、それだけの気持ちで声をかけただけだと思う。可愛いお嬢ちゃんですね、ただ、それだけの意図しか無かったと思う。娘が「うん!」と誇らしげに喜ぶ顔が見たかっただけかもしれないし、「楽しみですね」を娘と、もしくは私と、そのほんの少しの気持ちをちょっとだけ共有したいとか、励ましたいと思ってくれただけかもしれない。

その心は、「生まれることを歓迎されない」と言うことを含んでいない。大きな「命の誕生は喜び」というふんわりとした前提にのっとっている。大きな大きな、ふんわりとした大前提に。私の心にもあるのと同じ大前提にだ。

娘を見つめながら、私は揺れた。

「生まれる」「命の誕生」に対する自身の認識が、あまりにもお粗末である事を思う。

親になるのは、親のエゴだ。目の前の子が「お姉ちゃん」になるのもまた、我ら親のエゴなのだ。歓迎しなくて当然だ。私は娘を責められない。1mmも。

なぜ私はいつのまにか、「生きる」ことの事の大きさからか、跳躍した発想をもって「生まれる」ことが「必ずや歓迎されてほしいもの」などとぼやけた発想に陥っていたのだろう。

生まれることが歓迎されないことを心のどこかで拒否したいと感じてしまう自分の心は、なんと思い上がっていたか思い知らされる。

あのグレーヘアの女性は、私だ。

私は今まで、何と不躾なことに、ご兄弟の上のお子さんに「いいねぇ」「楽しみだねぇ」などと声をかけた事だろう。彼らがそれを望んだかどうかなど気にもとめずに。
彼らは確固たる「ひとりっ子」だったのだ。つい、ほんの少し前まで。それを彼らが嫌がったから兄弟が増えた訳でもないのに、私はなぜ一方的に「おめでとう」と接してきたのか。

(だってもう誕生するもんは仕方ないし、親をせめて励ましたいと言う気持ちは、前向きだから、後向きな声かけよりマシかという消去法発想だったのかもしれない。でも余りにもその命のすぐ側にある、あるいはすぐ目の前にある別の命の心を軽んじてきた。と言うよりも、気付きもしなかった。意見の違う存在に。意見が違うかも知れない存在に。思い至らなかったのは、あまりにも浅はかすぎた。)


命の誕生は絶対嬉しいもんでは全然ない

「立場」「時期」「気分」「知識」「年齢」「経験」…生きる、生きている中で変化していくものが、一つのある命の誕生に対する評価だろう。

命誕生そのものは、「歓迎する/しない」に依らない、因果関係のない、それ以前のものなんだろう。

分かっていたはずだ、歓迎するから命がくる、歓迎しないから来ない、などという単純な問題では無いのだということは。それが命なのだと言うことは。なのに、私はなんと矛盾してるか。
嬉しいとか、歓迎だとか、それ以前にあるものなのに、そこに勝手に早まって「命の誕生」という不可侵な領域に「意義がある」とか「尊い」とか、いつのまにか当てはめてしまっていた自分の頭を見つめ直してしまった。

肩を硬らせた、娘を見つめながら。
この子は何も、何も、間違っていない。

背中をそーっとさすった。
娘は目を合わせない。何か言いたくて、私は娘に好きだと言った。本心だ。そして今後幾度と無く彼女に降りかかるであろう「お姉ちゃん」という言葉を思った。

私は今後彼女を「お姉ちゃん」と呼ぶのだろうか。たくさんの大人が、たくさん勝手に呼ぶだろう。せめて私は、呼びたくないと思った。
…いや、私はそんな出来た人間じゃない、きっと出来ない。それでも、今は呼びたくないと思った。

生きることはできることをやるだけだ。私は私のベターを手の届く範囲でのんびりと追い求めるしかない。この新しい命が今後歓迎されるように努力はするが、それを最終的に決めるのは私じゃない。押しつけるもんでもない。

今後、命の誕生そのものの段階で、誰にとっても嬉しいとか腑抜けた発想からは目を覚ましていよう、そうでなければ、知らずに誰かを傷つけてしまう。今まで私がそうだった。そうだった。

目の前で不意に押し黙った娘を見て、自分の頭の芯がゾッと冷えた経験だけは、ずっと大事にしておきたいと思った。

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