この1ヶ月苦しんだ全ての私へ。




拝啓 ここ1ヶ月くらいの私へ

インターンをおやすみして、挫折して大っ嫌いになった自分と向き合って。
そんな中で、きっと気づいたことがたくさんあると思います。少しでも、未来の私が前向きに、自分の好きな自分でいられることを願って私はここ1ヶ月考えてきました。

それをまとめたもの(もはや日記)がここにあります。この先、「生きる」というある意味狂ってて、辛い道をいく私を応援したい。

こんなことは悩むことじゃ無いよ、自分のせいだよって泣いてた私。

みんな大丈夫じゃん、本当めんどくさいなって泣いてた私。

漫画や映画みたいに物語に隠れて、ぬるま湯につかってた私。

自分のふがいなさと、腐り具合に苦しんだ私。

そんなこの1ヶ月苦しんだ全ての私へ。

リモートワークでぶつかった自分の出来なさ具合


今年の3.4月は自粛宣言もあって、リモートワークへの以降が多くなったが、それは私の務めていたインターン先の企業も例外では無かった。春休みで大学が休みの間、11時(早い日は9時)から終電(23時)ごろまでずーっと居座っていたオフィスにサヨナラを告げることになった。そして、私の予想を反してオフィスと3ヶ月もサヨナラすることになる。

自分の部屋がなく、ありとあらゆる作業(受験勉強、学校の課題など)を外で行ってきた私にとってリモートワークはかなり難易度の高い作業様式だった。しばらくは、カフェで作業をしていたが、最寄りの飲食店が次々と休業していき、自宅作業を止む無く開始した。自宅作業に自分の部屋がないと言うのは、想像以上の苦痛で、自分がフィードバックを受けて落ち込んでいる時も、集中力のピークが来るといった時も、なんだかんだで邪魔がはいった。加えて、リモートワークでは「終電」という概念が消えたことが、私をさらに追い詰めた。いつまでも作業ができてしまい、夜中の3時までの作業を続けることもザラにあった。

そしてこの慣れないリモートワークにおいて、自分の出来なさ加減と向き合うこととなった。まず、タイムマネジメントができていないことに気づく。「求められる量を、求められる以上のクオリティーを担保して出す。」これが出来なかったのだ。オフィスに出社していた時も完璧ではなかったが、リモートワークになってこれが顕著になり、自分の作業で会社全体のスケジュールに支障をきたすようになった。(本当にごめんなさい)

リモートワークになり、タイムマネジメント問題が顕著になった理由として、私が報連相を疎かにしていたことが大きい。これが2つ目の課題。私は、「間に合いません。」「出来ません。」と言う言葉を言えなかった。決して上司の人が怖かったとかいう理由ではない。(後述するが私の上司の方は、この上なく良い人で、良い上司だった。)自分のプライドの高さから言えなかったこともあるし、「出来ません」と言ったところでやるしかないと言われると思い込んでいたこともある。報連相は最初に比べればましになったものの、「お昼食べるって言ったら、「仕事遅らせてるやつが呑気に食うなよ」とか思われるかな」とか、「こいつ仕事出来ないって思われてるんだろうなあ」という風にドンドン疑心暗鬼になっていった。


vs 自分の出来なさ具合

この「自分の出来なさ具合に1人で向き合い続ける」ということが本当に辛かった。し、病んだし、かなり心身ともに体調を崩した。

まず、4月の第2週あたりから、すぐ泣くようになった。とにかく情緒不安定だった。辛いし、自分では頑張っているつもりなのに、毎日注意ばかり受けて、周りのインターン生はどんどん先に進んでるように見えた。電話先で、「ごめんなさい、終わりませんでした」って毎日言っている自分が嫌だったし、夜遅くまで私に付き合って、巻き取ってくれる上司の人に申し訳なさがいっぱいだった。「なんでこんなにできないんだろう」「私を採用したことを後悔してるんだろうなあ」とか毎日思ってしまう。上司の人から電話をもらった時、きびしい注意を受けたとき、夜中まで作業して仕事が終わらない時。ひたすら涙が出た。もしかしたら、誰かに認めてほしくて泣いてたのかもしれないと今になって思う。「泣きながらでも作業してる私を褒めて、認めて」って言ってる気がしなくもない。

ついには、全体MTGや1on1の時にも泣くようになった。部屋の暗闇でほぼバレてなかったと思うけど、多分誰かの前で思いっきし泣きたかったんだと思う。し、やっぱり「今辛いんです、もう限界なんです辞めたいです」って誰かにぶちまけたかった。でも、言ったらどう思われるかな、もう要らない人になっちゃうかなって思いもあって言えなかった。すごく優しい社員の人ばかりの職場で、いろんな人がリモートランチへのお誘いや励ましの言葉をくれたけど、やっぱり言えなかった。「もう向上心がないんです」「辞めたいです」って仕事で迷惑かけてる私が言っていい言葉じゃなかったし、そういう人はこの会社に要らないだろうと思っていた。そんなこんなで、その場では元気に振る舞えたし、実際リモートランチは楽しかった。


どうしても言えなくて

でも、やっぱりどうしても溜め込んだ「辛い」が襲ってくるのだ。だんだん「失敗していこう」「まだまだ行けるよ」「諦めないで」とかって言葉を聞くと、すごく苦しくなった。
「私、もうお腹いっぱいなんです」
「それって上に行く気がある人にしか刺さらないんだな」って想いがどうしても処理しきれなかったのだ。

ごめんなさい。(今でも思う。)あんなに良くしてくれたのに。本当にごめんなさい。私今会社の仕事辛いです。これ以上自分の出来なさ具合と向き合いたくないです。そんな気持ちを、aikoやヒゲダン、ミスチルの曲を聞きながら、「まだいけるって」と押し込めて、毎日泣きながら作業した。本当に泣いたし、こんなに涙って出るもんだなとも思った。


上司の方から「なんで前受けた注意が反映されていないのか」、「同じ指摘を2回もしたら意味がない。」という注意をかなりいただいた。今になって思えば、頭を使って真摯に仕事に向き合うことを前提としてる以上、その注意は言いたくなるし、言われて当たり前で、むしろわざわざ伝えてくださるのが本当にありがたいと思う。
ただ、当時の私を思えば、泣きながら作業してる時点で、言われた言葉そのもの以上のことができるはずがなかった。「甘えだ」「そこが踏ん張りどこじゃん」って思う人も多くいると思うし、正直私もそう思っていた気もする。

でも、やっぱりどうしてもあの時の私に、その注意を咀嚼して飲み込む気力も体力もなにもなかったのだ。冷静になって思えば、泣きながら作業してる時点で、言われたこと以上のことができるはずがなかった。なのに、必死にしがみついてそのくせ、仕事をきっちりやり遂げることもしない。はっきり言って最悪だと思う。最も悪い。ほんとうにごめんなさい。って今でも思います。


結局、なんとかならなかった

そんなこんなで4月を終え、5月は大学がはじまれど、やっぱりインターンが中心だった。4月に1つの仕事が区切りを迎え、「少し休みたいな」という私の気持ちは全く届かず、上司の方から、私が成長するためにはどうしたらいいかを詳しく分析したものをいただいた。ここで私は言えばよかったのだ。

「私、もうお腹いっぱいなんです」
「今かなり本当に辛いんです」

でも言えなかった。上司の人が、こんなに迷惑をかけたのにまだ私を育ててくれている有り難さや、「こんなに迷惑をかけて出来ませんなんて言えない」という想いが、頭の中を駆け巡りどーしても言えなかった。話してる最中に涙が溢れても、どうしても言えなかった。

こんな状態で仕事なんて続くはずもなく、ある日私は完璧に体調を崩してしまう。本当にやばいと思うも、休みたい、辞めます。ってどう言えば良いのだと一日中悩み、悩み、悩み抜いた挙句、「休ませてほしい」とメッセージを送った。

翌日の上司の方との面談で、たくさんありがたい言葉や私にはもったいないくらいの言葉をいただいた。何より、こんな迷惑をかけた私を引き止めてくださった事実がものすごく嬉しかった。いろいろ思ったことや、もうちょっと頑張ろうかなとも思ったのだけど、でもやっぱりおやすみをいただくことにした。人手が少ない職場だったのですごく申し訳なくも思ったのだけれど、一回自分自身と、自分の将来と、向き合うべきだと思ったのだ。そんなこんなで、自分と向き合い続けた日々が始まったのだ。


ぶっちゃけ、そんなすぐに自分と向き合えないって


インターンでおやすみをいただいて、すぐ「よし再考してみよう!」とはならない。正直な話、自分と向き合うってやばい。しんどい。辛い。そんな中で、心身極限の人間がそんなことに素直に向き合うわけがない。気力も体力も何もかもがカラッカラッなのだ。要するに私は逃げた。まず、寝た。これでもか!と思うくらい寝た。そして死ぬほど漫画や映画を見た。「物語」に身を隠してたのだ。あっという間に終わる1日を14回くらい繰り返した。

もちろん、なにもかもすっからかんに忘れて、怠惰な生活なんて送れんかったし、人生そんな甘くない。ふとした時に、職場のことや自分のダメさ加減を思い出しては、死にたくなるし、涙が出る夜もあった。そしてまた、そんな現実から逃げるために、物語や睡魔に逃げるのだ。

毎日ぐるぐるぐるぐる。ずーっと、「逃げた自分」に怯えてた。でもそろそろ向き合わなくちゃ。そう思いながら日々を消費した。


なんで私生きてるんだっけ

私はデザイナー職のインターンをしていた。単なる「自己嫌悪」から逃げたのではなく、「自分が本当にやりたいことはこれなのか」でも悩んでいたのだと思う。

いろんな壁にぶつかっても、「好き」「どうしてもこの目標を成し遂げたい」っていう強い気持ちや想いが負けないし、続けられると思ってた。だから、私がなんで向き合えないか考えて見る際に、「実はデザインが好きじゃないのかもしれない」、「私ってなんのためにデザインやってるんだっけ」という疑問に答えられなかった。そして、あれ、私何のために生きてるの、何が好きなの、何がしたいの、、と考えてくうちに気づいてしまう。

「私、別に生きたいわけじゃないわ、、」

やりたいことや好きなことのために生きてるわけでもなく、むしろ死を望んでいる自分に気づいた。そもそも、なんで生きなきゃいけないんだ。生きていくためには、自分でお金を稼いで、嫌なことも付き合って、そんな大変で辛くで、気が狂いそうなほどどうしようもないことと、向きあってまで、生きる意味ってあるのかな。

世界中で、生きたくても生きれない人がいるとか、本当その通りだと思う。でも、それって私が生きてなきゃいけない理由なの?

そう思いつつも、結局私は悠々と明日を迎えてるし、日々を消費している。どう言う心情であれ、私が「死なない」と言う選択をすれば、明日がくる。
明日を迎えた私には、共同体の中で義務があり、その義務を果たさなくてはならない。仕事を休みたかったら報告をするように、全ての義務から逃げたければ死を選択するしかない。

要するに、私が「自殺する場所がなかった」「度胸がなかった」「親の顔がよぎった」どう言う理由であれ、「死なない」と言う選択をしたならば、私には「明日を生きる」義務があるのだ。


「生きる」ために働く

生物学的に言えば、「生きる」というのは、心肺をはじめとする臓器や様々な身体機能が働くことで、生命活動が維持されることだ。もちろん世界中には様々な人がいるが、私にとってこの生きるは自分の意思に関係なく、何もせずとも達成できるものだ。

でも、より良い「生き方」を言う時の「生きる」は、決して身体機能のことだけじゃない。前者の生きるは、食料と寝床があれば何とかなるし、一日中ずーっと寝続ける生活を何年しようと達成できてしまう。

『なんのために生きてるの?』この問いに答えるには、私たちが共同体にどう貢献していくのか、どのように自分でお金を稼いで、自分の面倒を見るのかということが関わってくる。

私たちは絶対お金が無いと生きていけないし、私は、私自身でそれを稼ぐ義務があると思う。私が、「死なない」と言う選択をしたならば、私には「明日を生きる」義務があり、自分を養う義務がある。やろうとしても、どんなに惨めでも簡単に野垂れ死なんて出来ないのだ。
どんなに嫌なことだらけであっても、どっかで妥協して私は社会に出ていく義務がある。そうやって、「生きる」ために「働く」のだ。私には未だ、仕事が生きがいなんて未来は、憧れこそすれ、来ないと思ってしまう。

でも、仕事に生きがいを見出せない人って可哀想なんだろうか。私はそうは思わない。そりゃ好きが仕事になって、やりがいになったら万々歳だし、最高だ。でも、お金のために、好きでも無い仕事をやって、働いてる人の方が、好きなことが無いから社会に出ない人より、よっぽどカッコイイと思う。


でも、好きって気持ちが私を頑張らせてくれる

好きを仕事にって気持ちは、ここからきてることも多いと思う。壁にぶつかっても、「好き」「どうしてもこの目標を成し遂げたい」っていう強い気持ちや想いがあれば、何とかやっていける。この根っこのところが大事。

でも、同時に思ってしまう。「好き」ってなに?私は「好き」なものがわからないのだ。「ハマってるもの」「マイブーム」「なんかちょっとできること」。でもどれも「好き」じゃない。そして「なんでも乗り越えられるほどの好き」なんかに出会える気がしないのだ。なんもない。でも時間もない。私は2年後には就職してるし、私のとりあえずを決めなきゃダメなのだ。


ここで私は「好き」を過大評価してることに気づく。

「好き」「どうしてもこの目標を成し遂げたい」っていう強い気持ちや想いがあれば、何とかやっていける。

そもそもこれって本当なのか?もちろんこの気持ちに救われることもたくさんあるはずだけど、この気持ちに囚われずに辞めたっていいはずだし、好きというより意地で続けてるひともいるはずだ。

惰性の好きで「辞めない」のと、「続ける」ことは違う。「辞めない」ことは簡単だし、手を抜いたりしながら登り続けることができる。「続ける」は、常に上を目指すことだと思う。今の自分より少しでも良く、上へ。それが「続ける」。私のデザインに対する「好き」は、きっと「辞めない」ことは出来るけれど、「続ける」ことはできなかったのだろうなと思う。


「好きって楽しいことをずっとやることじゃない」
これは、何回読んでもボロ泣きな「ブルーピリオド 」という漫画の主人公矢虎が言ってた言葉。

radwimpsの野田洋次郎さんも「嫌いになったことがないなんて本当の好きじゃないよ」って言ってる。


そうだよ。「好き」なことを続けるってやばいよ。楽しかった成長過程がいつの間にかノルマになって、責任感とか色んなしがらみから後に引けなくなって、それでもって「続ける」。これってほんとに辛い。どっかで、やっぱりこの分野好きなんだって気持ちをブリ返せるものがないと、やっていけないよ。

そして私は、思い返しても、自分のデザインが好きだって気持ちが振り返したことはなかったなと思ってしまう。そして、嫌いだって思ったこともない。だから、私の中でデザインの立ち位置は、「好きなもの」じゃなくて、「人よりちょっとできること」なんじゃないかな。


「人よりちょっとできること」

でもこの「人よりちょっとできること」がきっと私を導いてくれるとは思う。私の「人よりちょっとできること」が、私を新しい場所、人、モノと出逢わせてくれる。

その中に私の「好き」があったらいいなとも思うのだ。私はきっと、「好き」を仕事に、「好き」でいきていけるタイプじゃない。だから、「好き」じゃないけど「人よりちょっとできること」が私にもたらしてくれたもので生きていくしかないんじゃないかな。


「ちょっと」ってどのくらい?

ここまで考えた私が、次に考えたことが「ちょっと」の度合いである。
「人よりちょっとできること」の「ちょっと」はどのくらいであるべきなのか。「ちょっと」の度合いが高ければ、たくさんの世界が見れるし、私の選択肢は広い。

でも、「好き」じゃないけど「人よりちょっとできること」を頑張るのはすごく難しい。だって、根っこの「好き」が無いのだ。辛いことはひたすら辛いし、感じられるのは「楽しみ」じゃなくて、他者評価からくる「自己肯定感」だ。この状況で、「人よりちょっとできること」を頑張れる人を本気で尊敬する。すごい。

もしかしたら、「人よりちょっとできること」が「好き」になるかもしれないけど、ならないかもしれない。そもそも「好き」が見つかる保証もないのに、「ちょっとできること」を放置して、大量の中途半端を作り出すのか。それを恐れるくせに、辛くて、大変な「好き」じゃないけど「人よりちょっとできること」を続ける覚悟もない。


どうしたらいいんだろう。


何者かになりたくて

「何者かになりたくて」というフレーズをカツセマサヒコさんの小説で見つけた。まさしくその通りだなと思う。


「何者かになりたくて」好きやちょっとできることを探すのだ。


「何者かになりたくて」悪いか。やっぱり自分が何者かになれないと不安で、自分の価値が無いように思える。でも、どこまでの何があれば何者かに慣れるんだろう。

自分が何者かになれない不安がある今が、辛い。この不安がなくなるくらい今が充実していればと思う。思わず将来の不安に、何者でもない自分に失望してしまう時は、きっと自分の存在や今の自分が好きじゃない。

今の自分が好きじゃないから、何者かになりたくて、何者かになれば自分を好きになれるかな、何か変わるかなと思っているのだ。

カツセマサヒコさんの小説の中で、ある登場人物は「バッターボックスにたたなくちゃ」とも言っている。

どんなに、漫画を読んでも小説を読んでも、現実の私は変わらない。「死ぬ」選択をする以外は、大っ嫌いな自分に向き合って、何者かになれば自分を好きになれるかな、何か変わるかなと思って、どっかに踏み出さなくちゃいけない。


覚悟はなくとも

辛くて、大変な「好き」じゃないけど「人よりちょっとできること」を続ける覚悟もない。ある種当たり前だと思う。

でも、この「人よりちょっとできること」を続けることが、思わず将来の不安に、何者でもない自分に失望してしまう自分を、変えてくれるかもと思えるものならいいなと思う。

そして、今の不安を吹き飛ばすくらい、自分の変化を期待させてくれる、その「好き」じゃないけど「人よりちょっとできること」は、素晴らしいモノだと思う。


人生で、将来を考えずに何かに熱中できることって実はそうそうない気もしてる。でも、夢中になれない今に怯えて辛い「人よりちょっとできること」を頑張れる気もしない。きっと、熱中できることには、意味やこれをやり切った、取り組んだ後に、自分が変われるかもっていう期待がなくちゃダメなんだろうな。


今の自分には、前あった根拠ない自信や、私の中にあった自己肯定感は無いし、なんなら覚悟もない。でも、「続ける」ことは難しくて、大変なことだけど、「辞めない」は、こんな私でもできる。

私は、プライドが高くて、本音がぜんぜん話せないくせに自爆して、変に容量が良くて平均点ちょい上をなんとなくとれちゃうから全然本気になれないクソッタレだけど、やっぱり「何者か」になりたいっていうプライドが、私を「人よりちょっとできること」にしがみつかせていて、それで今の私がいる。

今の大っ嫌いな私だけど、今まで必死にしがみついてた「人よりちょっとできること」を辞めないで、「何者か」になりたいって思って、次のバッターボックスに立ってみようと思う。次のバッターボックスに立った時は、あらゆることがぶっとぶくらい熱中できる時間ものと出会えることを願って。
それでも、見つからなかったときは、きっと今まで必死にしがみついてた「人よりちょっとできること」が私を導いてくれる気がしてる。

だから、自分に言いたい。「好き」なものがなくて、なんにも本気になれないし、自分が生きる意味とかわからないけど、なんとかなるよ。大丈夫。

今はぜんぜん思えないし、このあとの人生辛いことばっかなはずだけど、あん時死んでたら良かった〜とは思わないから。

私はきっと、悩んだフリしてぬるま湯につかり続けている今から、いやいやながら腰あげて、「何者か」になりたいって思って、バッターボックスに立った私のこと、今よりちょっとだけ好きになれるし、期待してる。





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