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5 かける言葉もみつかりません。赤塚さんへ

赤塚さん
 梅雨が明けたあと、暑い日が続いたけど、今は雨がずっと降って、煮え切らない空だななんて、勝手なことを口に出している自分がいます。今日も赤塚さんは、北海道や沖縄やあちこちへ旅をされているのでしょうね。

赤塚さんが昭恵さんに、電話もメールもラインも……手紙も、出せずにおられること。
そして、「悲しみに寄り添うどころか、想像することさえ困難な心情に届けられる言葉なんかないよ」と書いておられること、そんな中で、旅を続けているのですね。そして、そんな赤塚さんに、私はかける言葉もみつからないのです。

安倍さんが亡くなられる少し前に宮ぷーが亡くなったとき、昭恵さんの悲しみとは比べるものでも、比べられるものでも、その必要もないけれど、ずいぶんわあわあ泣きました。
そんなとき、お友達のかんちゃんから、たぶん心配してくださって何度も電話があって、そのたびに、私がわからないようにしていたとしても、泣き声をしていたからでしょうか? 
赤塚さん、かんちゃんたらね、「三日間続けて泣くと目玉が融けて、流れ出てくると聞いたよ。それって本当らしい」なんて恐ろしい声で言ったんだよ。
おそらくは、なぐさめる言葉がみつからなくて、それでも心配をしてくれて言ったのだと思います。
私がこんなに悲しんでいるのに、かんちゃんはなんてヘンテコなことを言うのだろうと本当は思ったのです。
 それなのにね、他の方がすごく心配してくださって「亡くなったらきっと宮ぷーはかっこちゃんのそばにいるね」という言葉や「宮ぷーは自由になって喜んでいるよ」とみなさんがどんなに言ってくださっても、ぼおっとしてしまって、何か心が動くことができなかったのに、かんちゃんのヘンテコな不思議なことばに、そして、本当に目が痛くなってきて、少し目が融けたかもと思って、これ以上泣いて目が液体になってだらっと出てきちゃったら困ると思って、泣くのは、少しにしようと思ったのを覚えています。
 赤塚さん、あまりに悲しいとき、届ける言葉がないように、受け取ることも難しくなるものなのでしょうか?

赤塚さん、本当に、赤塚さんにもかける言葉がみつからないけれど、昭恵さんがまた可愛く笑ってくださるようにと心から願っています。そして、赤塚さんがお二人をこの今の一瞬も思われていることを、きっと昭恵さんもそして、安倍さんも当たり前のこととして、感じておられるのではないかなあと思えてなりません。
本当に生きていると、言葉にできないほどの悲しいこともおきますね。そんなとき、悲しみや心の痛みはなくなることはないかもしれないけれど、でも、いつかたとえば、宮ぷーが倒れたときみたいに、すごく長い時間のあと、倒れたことが日常になって、そのことで、ずっと心配し続けることが少しずつなくなっていくような……悲しみはそこにあっても、少しずつ少しずつ、笑える日が増えてきたらいいなあと思うのです。

赤塚さん、赤塚さんが書いておられたこと……「僕は、昭恵さんが怒りや憎しみを表されていないことに、本当に敬意を表する。素晴らしい人間だと改めて心から尊敬する……
私も心から尊敬します。誰もができることではなく、そのことを思うと、いっそう胸がふさがれるような気持ちになります。なんて素晴らしい方でしょう。
そして一方で、怒りや憎しみからは、何も生まれず、そして、そこからはなかなか抜け出せないことも、私は知っているような気がしています。
交通事故や、医療事故や、作業中の事故などで、障がいを持たれた方、そのご家族とたくさんお会いしてきました。どんなにお苦しいことかと思うのです。けれど、怒りや憎しみの中で、前へすすめず、ずっと苦しみの中におられる方と、でも片方で怒りを口にしない方が自分の未来を輝かせ、そして、他の人に大きな力を与えておられるお姿にもずいぶん出会ってきました。

でもそんなお話も、やはり、今、言葉にすると何か違和感を感じてしまいます。

赤塚さん、この前、東京へ行きました。いつも講演会のときにお世話くださる小林さんとではなくて、『リト』の朗読をしてくださっているすずちゃんと一緒でした。すずちゃんがこんなふうにフェイスブックに書いてくださっていて、とってもうれしかったです。なぜうれしかったかというと、私は小さい時から、知らない間に体が動いて、知らない間に、何かをしてしまうことがあって、その止められない自分があまり好きではありませんでした。そんな私を、それでいいよとそれがいいよとすずちゃんが言ってくださった気がして、それがすごくうれしかったのです。その中に、イエス様のことも入れてくださっていたので、ここに載せさせていただきますね。
すずちゃんのFacebookから
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昨日 かっこちゃんと『生命尊重の日』の集いに行ったときの、
危うい東京二人旅に もう一つ書いておきたいことがありました。
それは 会場AP市ヶ谷に向かう羽田から京急に乗るときのこと。
かっこちゃんは小林さんから 「浅草橋で停まる電車に乗ってください」って
メールが来ているから 二人で次の次の電車だね。ってドキドキして掲示板を見てから フトとなりを見ると 一瞬で かっこちゃんは居なくなっていました。
えーっかっこちゃん!ホームから落ちちゃった?
ってビックリして かっこちゃんを探すと。
遠く向こうで女性の駅員さんが、車いすの女性を電車に載せようと 
必死で頑張っているよこに かっこちゃんは一緒に車イスを引っ張っていました。
すごく遠いのに かっこちゃんは一瞬で!ワープしたように!移動していました。
私は 慌ててモタモタ走って行って もう1人電車の中の方が 手伝って
ようやく その方は電車に乗り込めました。
そしてすぐに いつものかっこちゃんに戻っていました。
私は かっこちゃんが話してくれるイエスの話を 思い出しました。
なぜ『イエスは、十字架にかけられことを知りながら、エルサレムに向かった理由』です。
 最近 かっこちゃんはこのことについて 衝動に駆られたから。
と仰っています。
 以前、かっこちゃんは電車の中で 極道さんがひとりの男性に怒鳴り声をあげている時、 かっこちゃんは後ろから極道さん(あとでご自分が名乗られた)を抱きしめて、『大丈夫大丈夫怖くないよ』と話したら、極道さんがビックリして
落ち着かれた。と言う話しを思い出しました。
 かっこちゃんの中の衝動が、車イスを電車に載せよう。とか
怒鳴っている極道さんを 怖がらなくていいよ。とか。
動かしているんだなぁって。
 これは 難しい理由じゃなく 
かっこちゃんの衝動が動かしていると思いました。
 そして、もし 安倍さんを撃った男性のとなりに
もしも あの時 かっこちゃんが居たなら、間違いなく男性を
かっこちゃんなら大丈夫大丈夫って 抱きしめていたと思って。
そうしたら 安倍さんは 死ななくて済んで 彼は罪を犯さなくて済んで。
と考えていたら。
電車の中で 泣きそうになってしまいました。
どんないのちも 大切ないのちなのです。
いのちには 無駄ないのちや 要らないいのちなんて 絶対に絶対に
ないのです。
 私が かっこちゃんを大好きな理由の 一つでした。
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赤塚さん、もちろん、私は何もできないです。すずちゃんが言ってくださるようなことは決してできない。何もできない。それでも、やっぱり自分が好きになれない部分、どうしても止められない自分が好きになれないのに、それでいいよと言ってくださったように感じたことがうれしかったです。
すずちゃんが、衝動という言葉でイエス様のことを書いておられました。
私は、電車を待っていて、車椅子の方のところへ行ったのは、あまり覚えていないので衝動といえばそうかもしれないけれど、私は、結果がどうなるかというよりも、今は、止められない湧き上がる思いがあるのだろうかと考えています。
今回のイスラエルの旅でも、私は、どうしてイエス様は、「磔になるために、エルサレムに行かれた」のかを考えていました。
前に『宇宙の約束』(三五館)の本の中では、イエスさは宇宙とつながることがとても上手で、イエス様が磔になることで、未来の人たちがたくさん救われるのを知っていたから、エルサレムに向かったのだろうと書きました。でも今は、それは違うかもしれないなあと思うようになりました。

今日は宮ぷーのことばかり書いてしまいます。
赤塚さん、宮ぷーが亡くなったときに、宮ぷーが出ている『僕のうしろに道はできる』の映画を監督さんやハートオブミラクルさんのご好意で無料でズームで配信してくださったのです。
五百人が定員だったのに、あっという間にいっぱいになって、8時始まりだったのに、そのときはとおに締め切りになって、ずいぶんたくさんの方が入れなかったそうです。そして、その後、驚いたことに、何百というメールをいただいたのです。その多くが宮ぷーのおかげで、回復を信じられた、回復できたというご本人やご家族からの宮ぷーに対する感謝のメールがほとんどでした。こんなに多くの方が応援をしてくださって、そして、宮ぷーに「ありがとう」と言ってくださることに、すごく驚きました。

宮ぷーが倒れたときに、私といえば、ただ無性に湧き上がるように、毎日リハビリに行こうと決めてしまって、止めることができませんでした。でも、それがいつか誰かの勇気やエネルギーにつながるなんて、考えもしませんでした。それは結果なのだと思います。
赤塚さんが、来年はイスラエルへ行こうねと私を誘うだけのために前の年にバリ島に来てくださったことがありました。あのとき、こんなふうに『宇宙の約束』という映画や本ができたり、それからいろんなことが起きて行くなんてきっと赤塚さんも思ってはおられなかったはず。私ももちろんそうです。でも、不思議なことに赤塚さんは誘いに来てくださいました。そして、私も湧き上がるようにイスラエルに行きたいと思えたのです。

もしかしたら、イエス様もそうではないか、ただ、大好きな神様の言われる通りに磔になろうと、結果を知ってそうしたのではなく、ただ無性に湧き上がるように神様の言われるようにしたいと思ったのかなと考えたのです。
そう思ったらね、赤塚さん。やっぱり、過去や現在や未来は、いつもここにあるものですね。
CDを聞いている時に、二曲目を聞いていたら、一曲目は過去で、十曲目は未来。でも、全部すでにCDの中にある。そんなふうに、過去も今も未来もみんなここにあって、神様はみんなご存知だけど、私たちは湧き上がる思いで導かれるように生きていればいいということでしょうか?

赤塚さん、蝶々が花が受精するために、そして実を実らせるために蜜を吸うわけではなく、ただ湧き上がるように蜜を吸っているみたいに、私たちも、きっと、宇宙に愛されているからこそ、湧き上がるように動いているのかなあと、そう思ったのです。
今日はどんなお話も、赤塚さんのお心に、負担になってしまわないかと思ったりします。赤塚さん、でもどうか少しずつ元気を出してくださいね。

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この記事は、「魔法の文通」(モナ森出版)の続きです。

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