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「演じるように家族をやる」2024年1月30日の日記

昨日ドロケイの話を書いて、それを読み返していて気づいたのだけど、ドロケイという遊びなのに逃げる側を泥棒じゃなくて「探偵」って呼んでた。この探偵表記は書き間違いとかじゃなくて、実際に分けるときに「探偵」って言っていたのだ。当時は全然思いもしなかったのだが、めちゃくちゃ変だ。「ドロケイ」という遊びなのだから、普通に「警察」と呼べばいいのに。「ドロタン」とか呼んでなかったし。

朝から近くの公園で軽くボールを蹴る約束をSとしていたので、いつもより少し早く起きて出かけた。

最近Sはバイトをたくさん入れているらしい。社会人になる前にある程度お金を持っておきたいとのこと。聞くと、今月は15万円も稼いだとのことで、よく頑張っている。
サッカーをするというのは会って話す口実みたいなものだったから、軽くボールを蹴りながら話して、そのままガストでご飯に行くことになった。

Sがnoteで日記を始めるらしく、アカウントを教えてもらえることになった。やった〜。私は、私の知っている人間の全員に日記を書いて欲しい(そして私に読ませて欲しい)と思っているので、読ませてくれるのは嬉しい限りだ。私のこの日記を教えるかはまだ不明。

最近風呂で洗顔をするようになったという話をSにしたら、これまでしていなかったということに軽く引かれた。あまり人には言わない方がいいとまで言われた。そんなに変なことですか。これまで肌の健康とかを全然意識してこなかった(何もしなくても割と肌が綺麗な方だったので)のだが、最近ようやく意識するようになったという話がしたかっただけなのに、これまでずっと汚かったやつみたいな扱いをされてしまったぞ?洗顔しない人もたくさんいると思いたいが、どうなんだろう。でも小学生の時とかって別にしないですよね?


夜ご飯の時はあまり家族の空気が良くなかった。というか、母親が不機嫌な様子。見ていなかったから何が起こったのか分からないが、おそらく父親に何か不満を持ったのだろう。割とよくある。

私の家族たちはもう皆成人して、ある程度自立していて、別に1人でも生きていける状態で、居場所がここじゃなくても良いような状態で、それでも家族であろうとするならば、家族を「やろう」としないといけない。ご飯を一緒に食べるとか、同じテレビ番組を見るとか、同じドラマを見るとか、小さなことかもしれないけれど、そういうことを意識的にしていかないと続かない。他の家庭の事情は全然知らないけど、少なくとも私の家族たちは。でも、そういうことを何も分かっていない人がいる。「それをすると一緒にいる必要ある?」と思うようなことを平気でしてしまう人がいる。多分無自覚なのだろうが、そういう人にかける言葉って何も無いなと思う。こちらがそれを求めるのもおかしな話で、ただただ沈黙する。

昔は別に当たり前のように、存在を確認するまでもなく「家族」というものがあった。両親がいなくなっても生きていける未来を想像することはできなかった。今は、多分違う。私は、両親がいなくなったとしても、生きていくことができる。生きていく未来を想像することは容易い。だから、ずっと私たちに当たり前のようにあった「家族」を維持していくためには、意識して「家族」をやらなければならない。そうしないと、この家族は簡単に瓦解していく。私はそれを望んではいない。望んではいないのだけれど、多分、私が意識的に行っていることの多くは私自身のためにやっていることではなくて、「可哀想」という母親に対する同情からくるものだ。変な感情だなと自分でも思う。母親に対して失礼だとも思う。けれど、これが私の正直な気持ちだ。

なかなか言葉にするのは難しくて、かなり複雑な部分もあるから普段は書かないことも多いと思うんだけど、家を出るとこうした思考を書くことは無くなるだろうし、日記の意義って多分こういう部分を書くことにあると思うから、できるだけ正直に書いた。このタイミングでしか書けないこともあるだろうと思って。

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