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「内定式、コンビニ人間」2023年10月2日の日記

入社する企業の内定式があったので行ってきた。

どういう感じか全く分からずに行ったのだが、入学式みたいな感じだった。1人ずつ名前を呼ばれて、内定書を受け取りに行くだけの式。こういう無駄な(?)式をちゃんとやったの高校の卒業式ぶりだな。
私の入社する企業はそれなりに人も多いので、一人一人が内定書を受け取るだけでも結構な時間がかかった。その間ずっと座りっぱなしだったので疲れた。

その後に内定者同士での交流会があり、クイズ大会的なやつが開かれた。グループの中にはすでに見たことがある人もいた。

色々とお土産も貰って帰宅。

電車の中で村田沙耶香「コンビニ人間」を読んだ。確か高校生の時に一度読んで以来2回目となる。

「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

p20

この場面は、世界にうまく馴染めず、「普通」が分からなかった「私」が、コンビニとマニュアルを通して初めて世界とつながる瞬間だ。

コンビニを使う客は、基本的に店員のことを個人としては認識しない。そこには、レジ打ちをしてくれておつりを渡してくれる記号としての人間がいるだけである。「私」は、自身がコンビニ店員という記号に置き換わっている時にだけ「普通」でいられる。これは「私」からすれば革命的なことで、「私」にとっての「救い」の瞬間なのだ。前読んだ時はなんとなく読み過ごしていたが、今回はその「私」の「救い」に気がつけた。そして、それが「私」と同じように私にとっても衝撃的なことのように思えた。

「私」のコミュニケーションの手段は異質だ。2人の喋り方をトレースして混ぜ合わせ、人のポーチの中身をこっそりと見て、似たようなもので外見を作る。
1番最初にこの小説を読んだ時(高校生の時だったか)は、「私」のそのようなコミュニケーションの取り方が気持ち悪くて面白いと思っていたが、今読むと少し印象が変わって見えた。今では、自分が「普通」ではないことを自覚しながらもどうしていいか分からず、ひたむきに努力している姿に見える。その結果があの異質なコミュニケーションの取り方なのだと思えば、少し「私」のことを愛おしく感じてくる。

他の人から見たら、「私」は「普通」の人に見えているのだろう。読者だけが「私」の本当の(「異常な」)姿を覗き見ることができる。

 赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
 テーブルの上の、ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあと思った。妹は懸命に赤ん坊を抱きしめている。私はそれを見ながら、ケーキのクリームがついた唇を拭った。

p55

そういうことを考えてたら、こういう心理描写が差し込まれてゾワっとなる。

コンビニ店員という肩書きと、体が弱い、もしくは両親の介護が大変だという言い訳によって「私」は「普通」になることができているように思えた。しかし、実際はその認識が誤っていたことが1人だけ飲み会に誘われていない点で明らかになる。
読者だけが「私」のことを理解しているという認識がここで覆る。本当は、同じ店員仲間からも全然「普通」に思われていなかったのだ。この辺りの展開は一人称視点ならではの叙述トリックで面白い。

この話は結局ハッピーエンドなんだろうか。
昔から「普通」ではなく、そして自分が普通ではないと自覚していた「私」は、できるだけ喋らず、誰かの模倣をして、社会との接点を持たないように生きてきた。そんな「私」が、「この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた」と言っている。初めて自分の居場所を認識して、存在意義を見出した場面であるのに、どこか空虚感が漂っている。私には、最後の場面は、「異常」から脱するためにコンビニ店員になり、「異常」から脱するためにコンビニ店員をやめた「私」が「普通」であるために自分はコンビニ店員という記号になるしかないと思っている場面に感じられる。「普通」であるために考えた結果が、コンビニの装置として組み込まれること、記号になることなのだとしたら、こんなに救われないことはないだろう。

なんか美味しかった。ポテコに近い味だ。そういえば作ってる会社も同じだった。

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