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「劇場版ゆるキャン△と無人島の火事とゲームの課金の話」2023年2月28日

これを書いている今、0時を過ぎてしまっており、もう3月になってしまわれた。

午前中は就活のなんやかんやで、色々と話せるエピソードとかを用意しておこうということで日記とかを見てこれ聞かれたらこれ言おうかみたいなことを考えていた。果たしてこれでいいのかという疑問はずっとついてまわっている。


急に「全てが終わりだ〜!!!」という気持ちになったので、昼飯を食べて映画を見ることにした。


「ゆるキャン△」の映画だ。

結構前に映画化されていたのは知っていたのだけど、映画館では見ておらず、配信で見つけたタイミングでの視聴。

当時から色々と批判だったりはうっすら目にしていて、どんなもんなんだろうなと思ったのだが、私的にはまあこんなものだろうなという印象だった。

そもそもの話をすると、こういう日常系のゆっくりとしたスピードで物語が進行していく作品は映画化にはあんまり向いていないと思う。正直、この映画でも間延びしている部分はあったし。
結構流しながら見ちゃった部分もあるのだけど、その上での評価をするなら割と面白かったなという印象。

でも、そもそもこういう日常系の作品にそんなに過度な期待をしていなかったというか、「よし見るぞ!」って意気込んで見るものじゃないような気がするんですよね。日常系アニメの魅力って割とぼーっと何も考えずに見られるところだったり、可愛いキャラクターの掛け合いを楽しむことだったりするので。

ただ、「やりがい搾取」だの「非現実的」だのの意見はまあよく分かる。

社会人になった彼女たちという設定は、ある種社会から切り離されている学校世界というものの枠を超えて、よりリアルな形で我々の目に映ってしまう。
高校生というまだ何にでもなれる彼女たちの人生を完全に決定付けたということに不満がある人もいるかもしれない。私は成長した彼女たちを見ていると胸が苦しくなった。毎日一緒にいた人たちが、別々の仕事をして、別々の人生を歩んで、大人になっていく彼女たちを見ているのは、少し苦痛だった。
それを描くことに意義があったのかと言われると、正直よく分からない。途中の場面は本当に見れないくらい「くらって」しまっている自分もいた。
少なくとも私は彼女たちの口から「久しぶり〜!いつ以来だろう!」なんて言葉は聞きたく無かった。ずっとあの世界のまま、時が止まっていて欲しかった。

あれ、なんでこんなに熱くなっているんだろうな。

もしかしたら私は私が思っているよりも遥かにこの作品のことが好きなのかもしれない。いや、私は多分「人生」に弱いのだ。人生がある種決定づけられた彼女たちを見ていると無性に苦しくなってしまったし、作品の中でくらい、無限大の可能性を秘めてほしいと思ったのだ。

「その先」を描く意義みたいなものがあるとして、私自身は多分それを求めてはいなかったのだろうけど、それが良いという人もいるだろうし、結局は好みという部分に収束していくのかね。

無人島で火事があったらしく、無人島マニアの私としては悲しいニュースだ。実際、私が行ったことのある無人島でも行った日の少し前に火災があったらしく、島の4分の1くらいは燃え尽きて黒くなっていた。キャンパーによる火の不始末が原因だったらしい。

キャンプが流行し、話題になった一方で、知識のないキャンパーが増えたのも事実だ。分母が増えるということは、こういう事例も増えるということだ。
中には火を完全に消してから帰るとか、炭を放置せずに持って帰るとか基本的な知識も知らない人がいて、流石に調べろよとは思うが、なかなか難しいものだ。
実際、なぜ火事になってしまったのかは書かれていないが、35人もいて火事が起こるのってあんまりイメージできないんだけどな。火を見ていなかったのか、火を大きくし過ぎたのか。

この場合、賠償責任とかどうなるんだろうと思って軽く調べてみたのだけど、完全な過失じゃない場合や事故の場合、賠償責任は無いっぽい。
派手な火遊びとかをしてない限りは賠償責任無しということになるんだろうか。
島の所有者はちゃんとビジネスで無人島に呼び込んでいるようなので、自然が燃えちゃうとかなり痛手というか壊滅的になると思うのだけど、その辺はどうなるんだろう。補償とかあるのかな。何も分からない。

夜、母親と弟で軽くゲームの話になった。

買い切り型のゲームは会社が倒産したりして販売中止になっても遊び続けることができるが、課金型のスマホゲームだと、サービスが終了になったらそれまでの分が全て0になってしまうというリスクがあるという話をしたら、母親にあんまり理解して貰えず、母親は「サービス終了したらまあこれまで楽しかったねでいいやん」と言い出した。詳しく話を聞くと、周りができているのに自分ができていないなら不満だが、みんな一斉にできなくなるんだったら仕方ないという考えらしく、
これには私も弟も「いやいや」と理解できない姿勢を示した。

例えで「そのゲームに10万円課金してたら流石にサービス終了は残念に思うやろ?」と聞いてみると、それでも母親は思わないとのこと。
さらに話を聞くと、私たちが課金を「モノ」として捉えているのに対し、母親はその課金を「モノ」としては捉えておらず、旅行先で10万円を使うのと同じようなこととして捉えているらしいのだ。
旅行先で何か楽しい経験や美味しいものを食べた土地が旅行から帰ってきた後に無くなっても、その楽しかった経験が無くならないのと同じような感覚で、「体験」自体を重視しているということが分かってきた。
私と弟は課金した先の結果を重視しているようで、そう考えると私や弟の方が考え方が子供のような気がしてきた。
にしても母親は達観しすぎているような気もするが。

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