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「最終回と言いながら一生やって欲しい」2023年12月21日の日記

Spotifyで『お互いさまっす』というラジオ番組を聴いている。松岡茉優と伊藤沙莉の2人が視聴者から寄せられた悩みについて答えるという体で、割とただ話をしているだけのゆるい番組なのだが、2人とも元々仲が良いらしく、めちゃくちゃテンションが高い。
聴いていると、教室の後ろの席で話している、比較的カーストが上の人たちの会話を盗み聞きしているような感覚になる。休み時間に本を読んでいる時に、もしくは疲れ果てて机にうつ伏せになっている時に聴こえてくる、何気ない会話がふと聞こえてきて、ちょっと笑いを堪えているような、そういう時間を思い出す。


『男らしさの終焉』を読み終わった。
著者の経験や記憶が多く書かれていて、半分エッセイのような形で勉強にはならなかったなという印象。著者の言う「男性像」に私が含まれていないような気がして、ずっとフィットしていない感覚はあった。

本とはあんまり関係ないけど、技術の進歩によって人類が全て均一に近づいた時、差別は無くなるのか、みたいなことを考えた。
人類が均一になると書くとちょっと恐ろしいような気がしてくるけど、もうちょっと身近な例えを出すと、コンタクトレンズなんかは目の均一化と言っていいんじゃないだろうか。「目が悪い」という状態はそれだけで昔は差別に繋がっていたし、眼鏡をかけているせいでいじめられる、なんてこともある。けど、コンタクトレンズは一目見て誰がつけているかなんて分からないし、コンタクトレンズをつけているから差別されるなんてことはあまり聞いたことがない。
ほかにも、義足や義手だってもっと技術が進めば見分けがつかないくらいになる可能性は充分にある。そうなれば、義足や義手のせいで注目されるとか、好奇の目で見られるなんてことも無くなるだろう。
そういった様々な技術の進化があらゆる場面で進んだとして、すべての人間が同じ形や色に近づいたとして、差別は少なくなっていくのだろうか。


夜ご飯の時にお酒を飲んだらすぐに眠くなってしまって、ドラマが始まるまで寝ていた。


『いちばんすきな花』、最終回を見た。
序盤から4人の共同生活が描かれるのだが、なぜ彼ら彼女らの生活を見ているだけでこんなに感動してしまうんだろうね。

母親と見ていたのだが、キッチンにある水道のレバーを、濡れている手で触れないように肘で下げるのが好きだと言っていた。私は全然見てないところで、気にもしていないところだった。料理をする人の視点だな〜。

どの人も1話で悩んでいた問題について全然解決はしておらず、基本的にその人はその人のままで、ちょっとだけ成長していたり、周りがちょっとだけその人のことを分かっていたり、凄く無理のない範囲で変化している人たちが描かれていた。

ドラマ全体としては、「理解してくれる人、理解したいと思える人は必ずどこかにいる」という凄く優しくて真っ当なメッセージを感じた。

「男女の友情は成立するか?」という問いに対しては、「どっちでもいい」という結論が出された。
これに関しては、まあそうだよな、といった感じで、そもそもこの問い自体が間違っているというか、そりゃ人によって成立する場合もあれば成立しない場合もあるだろう。これは本当にどの問いに対しても言えることだけど、でも、そういう本来どっちでもいい問いに対して外から言う人があまりにも多すぎるんだよな。

子どもの話をする赤田にゆくえちゃんが「子どもできたの!?女の子?男の子?」と思い込んで言ってしまうシーンだったり、夜々がむらさきちゃんと再開した時に、「名前変わったんだよね」と決めつけてしまうシーンだったり、人によっては結構失礼になってしまうことを4人にも「させて」いる点でドラマとして凄く信頼できる。この主軸となる4人を美化して描かないというのは1話から共通している点で、ご都合主義的ではないところが良いなと思う。

最後の藤井風が出てくる演出もめちゃくちゃ良かったな〜。ドラマももちろんだけど、曲自体も凄く好きだから嬉しかったです。

毎週のように『いちばんすきな花』の感想を書いていたから、これからもう書くことがなくなるかもしれないと思うと少し寂しさがある。でも、自分の中で確実に残るコンテンツになったんじゃないかな。そのくらい好きなドラマだった。

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