「正欲感想、続き」2024年3月22日の日記

今朝はあまりよく眠れなかった。それなりに良いホテルで、寮のベッドよりも広くて柔らかいベッドだというのに眠りは浅かった。朝は早かった。私の気持ちとは裏腹に、見事な晴天だった。


昨日の夜に『正欲』という映画を見て、まだその映画のことを考えている。入社式で話を聞きながら(聞いているフリをしながら)、ノートに漠然と思っていることを書き留めていた。皆さんは人の話をちゃんと聞きましょうね。

こんな感じで。にしても字が汚すぎる。基本的に人に見せないメモはめちゃくちゃ汚い字で書いていて、丁寧に書けば綺麗な方だ(と思う)。昔、手書きの日記をnoteに載せたこともあるので、そちらと見比べてもらえれば一目瞭然です。

多分読めないと思うので、軽く整理して書こうと思う。

今日一日を通して、最後の場面の理解は少し深まった。あれは、普通という壁に阻まれた、「普通の」人との壁は呆気なく存在していた、みたいなラストなのだけど、もっと言うと、小児愛という「分かりやすく普通じゃないもの」に括られたというラストなのだ。小児愛は「普通じゃないもの」としては比較的普遍的で(昨日書いてた「普通でないことの普遍性」に繋がる!)、水に欲情するというのは「普通じゃないもの」としても異質で、小児愛よりもさらに「普通じゃない」存在だ。「普通の」人間からは観測されてこなかった存在で、だからこそ検事は「ありえない」という言葉を発するのだ。そういう意味で言うと、小児愛者は「ありえない」存在ではない。

となると、映画内では水に欲情する「だけ」の社会的に無害な存在が、小児愛という社会的に害悪な存在と比較されることによって「ありえない」存在として消されていくというラストになる。普通じゃないと理解されないという残酷さではなくて、「ありえない」と一蹴されて、存在自体が認められない残酷さなのだ。描かれているのは、理解されないどころかいないものとして扱われる屈辱だ。

ラストの場面はかなり整理できてきたが、やはり小児愛者の描き方にはかなりの疑問が残る(描きかたというよりは、「描いていなさ」)。なんか、やっぱり小児愛で苦しんでいる人を無視しているような感じがしてしまった。映画内で、「隔離して欲しいという小児愛者もいる」というのが検事の人から語られていたような気がするけど、一応そこでバランスをとってはいるのか。まあ、この辺りの批判部分は昨日とほとんど同じだ。

色々と読んだ中で一番近かったのがこの方の感想かな。『万引き家族』との比較もちょっとだけしていて、私もノートの殴り書きに『万引き家族』との比較を軽くしている。

今日は入社式の後すぐに移動して住んでいる寮に戻ってきた形になるのだが、周りの人に比べて私はかなり元気かもしれない。最近は移動がかなり多いので慣れてきた感じはある。


寮では同期の人たちとずっと喋っていた。大体関西出身の人が多いのだが、一人石川県の人がいたので、ずっと方言の話をしていた。関西の中でも微妙に使う言葉が違ったりするので、二時間ぐらいずっと話していた。いつの時代も使う言葉の話は盛り上がる。

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