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「個人の意見って意見は大体そう」2023年5月30日の日記

相変わらず肩が痛い。

昨日投稿した淡路島徒歩旅の記事が割と多くの人に読まれている様子。結構長いけれど、ちゃんと読んでくれる人もいるんだ。ありがとうございます。


私の向かい側の家にはたまにピアノを弾く人が住んでいるのだけど、今日は久石譲の「summer」という曲を弾いていて、めちゃくちゃ良かった。雨上がりというシチュエーションも最高で、「毎日弾いてくれ〜」と思った。閉まっていた窓を開けて、しばらくその人のピアノを聴きながら過ごした。


今日は何もやる気が起きなかったので、ずっと弾き語りをしていたのだが、気まぐれで録音していたら1時間くらい歌っていた。気が向いたら音声として投稿します。ギター弾くのは楽しいが、まだ上手くないので、もっと上手くなりたい。ただ、練習方法がいまいち分からないというのがある。何か目標がないとな〜。


午後は2時間くらい寝てしまっていた。生活リズムはいまだに戻らない。明日には戻っていると信じて眠る。
眠ったらダメだったのかもしれないが。


夜に弟とアニメ「君は放課後インソムニア」を見た。相変わらず良い。
作画に違和感があって、作画監督とかを調べてみると、毎話全然違う体制でやっていて驚いた。アニメ制作とかには全然詳しくないのでよく分からないが、作画を担当している人も違うし、演出や絵コンテまで違う。さらには作画監督に作画監督補佐がついていたり、そうでなかったり、アクション担当みたいな役職があったりと、話ごとにかなり人も組織の形も変わっているようだ。
「君は放課後インソムニア」に関しては回によって割と作画の違いが明らかだったのだが、他のアニメとかもよく見たら違うのだろうか。いわゆる「作画が安定している」アニメはその辺りがわかりづらく作られているはずだが、よく見たら何か違いがあるのかもしれない。今度はその視点からアニメを見てみても面白いかも。


「意見を言うこと」について、考えている。
Twitterを見ていると、実に意見というものに溢れている。人はどれだけ意見を持ちたがるのだろうか。私は何か言いたい意見がたくさんある方ではないから、少し不思議に思う。

「何か言いたい意見がない」というのがなぜかを少し考えてみると、「意見できる自信がない」というのが大きな1つの要因としてある。意見するためには、その議題についてある程度の知識と造詣が求められるのではないか。そして、自分はまだその域には達していないのではないかと。
もう1つは、自分程度が何を言ったって無駄なんじゃないかという諦めがある。これは、自分でもとても良くない傾向だと思う。けれど、実際そうじゃん。小さい声を上げたって世界は変わらない。変わらない事例を多く見てきたからこそ心の奥底では理解している部分がある。それを分かっていながら、振り切って声を上げるというのが必要であることも分かっている。分かっていながら、やっぱり諦めというのは抜けない。分かっていながら、分かっていないことはたくさんある。

みんなハッピーなことだけ言っていようよ!というのは簡単であるが、そういう余裕があるのも、自分がたまたまある程度恵まれているからでしかない。ハッピーではない意見を言うことで保てるテリトリーもあるだろうし、そこに介入する気もない。それも「無駄」だと感じる。
そういう繰り返しによって、自分がいかに虚無的な人間であるかを思い知らされているようで、ちょっと嫌だなと思う。意見を持たない自分のことは決して好きではない。ただ、意見を言っている人たちを冷笑的に見てしまう自分の一面があることも自覚していて、それはひどく醜い私の一部分だと感じるけれど、治すのも無理だなと思う。
自分の嫌なところを、全てひっくるめて自分を愛するなんて到底無理で、嫌なところは嫌なところとして見つめて、その都度嫌な気分になるしかない。その諦めによってしか、心の平穏を保つことはできない。

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