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「通夜」2023年9月1日の日記

夜に通夜があるということで、午前中に祖母を連れて必要なものを買いに行った。祖母は急遽広島から来たので何も持っていないし、私も弟も黒のネクタイを持っていない。
この辺りの形式に関しては個人的には無くなればいい(もしくはもっと緩くなればいい)と思っているが、必要だというのも少し分かる。
形式が全てちゃんとあれば、考えなくても良いという利点があるからだ。選択の余地があると、考えなければならない。大切な人を亡くした人に、何かさらに考えることを増やすよりも、形式に沿って進めた方が楽という側面はあるだろう。
母親はそういうマナーのせいで逆に悲しめないと言っていたが。


服屋には喪服コーナーのような場所があったのだが、どれも値段が高くて驚いた。違う場所で見つけた安いものに比べて10倍くらい違った。
安いものも見た目はたいして変わりが無かったので少し悩んでいると、店員が話しかけてきた。その店員はさりげなく高い方を買わせようとしてきたり、頼んでもないのに違うものを紹介してきたりして辟易した。挙げ句の果てには、「どなたが亡くなったんですか?おじいちゃんですか?」と聞いてきて、流石にキレそうになった。こいつ不謹慎すぎる。
その質問で紹介する服が変わるわけでもないだろうに。


祖母は高い方を望んでいそうだったが、母親も私も弟も絶対に安い方で良いという決断をし、安い方を買った。
近くのスーパーでお昼ご飯を買って帰宅。

スーパーでとうもろこしときな粉もちのアイスを買った。どちらもかなり美味しかった。
とうもろこし味は確かガリガリ君でも出ていて、昔食べた時には私以外の全員が悪い反応をしていた。
今回は弟と母親が食べたのだが、まあ不味くはないけど美味しくもないかなといった感じで、ガリガリ君よりはマシという評価だった。
ガリガリ君はシャーベット系のアイスだったが、こっちは結構クリーミーで、コーンスープ的なまろやかさがあった。とうもろこしの粒も中に入っており、歯に挟まりまくった。


兄や姉も帰ってきて、通夜をするために家を出た。ここ数日は私が祖母の移動を全て担当していて、とうとう私の膝が限界を迎えてきたので、弟に頼んだ。


車でしばらく移動し、会場に到着。
突然の死だったこともあって、式は親族の間だけで小さくやるということだった。


通夜が始まる前に、また叔母の顔を見た。
昨日とは違い、化粧がしてあった。唇も肌も綺麗で、余計に死んでいるとは思えなかった。やっぱり、ちゃんと見ることができなかった。現実を直視することができない。

通夜では、まず読経が行われ、それぞれが焼香をし、その後に食べ物を囲んで思い出話をするという流れだったが、私は全然切り替えることが出来なかった。
さっきまで泣いていた人たちが、徐々に話をし出して、笑顔を見せていって、叔母はこういう人で、こういうことをしたね、と言い合っている。
みんなが元気に話せば話すほど、何か置いていかれているような気もした。かと言って、無理に元気に振る舞う気持ちも湧いてこなくて、ただ端の方で黙々と寿司を口に入れた。

きっと私よりも、叔母の夫や私の母親の方が悲しみは大きいはずなのに、私よりも明るく振る舞っていて、私は全然駄目だなと思った。
叔母の夫にも気を遣わせてしまって、もっと明るく振る舞えたら良かったのだけれど、それもできず、そういう自分が1番嫌だと思いながらも何もできず、じっと時間が流れるのを待った。消えてしまえれば楽だったけれど、そうすることもできない。息を殺して、できるだけ誰にも見つからないように過ごした。一瞬だけ、高校の文化祭の準備時間を思い出した。クラスに友達がおらず、ただ誰にも見つからないように過ごしていたあの時間。


帰りの車、高速で流れていくビル群の光を眺めながら、情けない、という思いだけが募った。
しばらくして、同乗していた兄と姉がお互いの恋人の話や結婚の話をし始めた。どうしようもなく2人は大人で、時間は流れ続けていた。私だけずっと時間が止まっている感覚が数年前からある。私は寝たフリをして、目を瞑って過ごした。


私たちは、生まれた瞬間から死ぬことが決まっている。だから、言ってしまえばそれが早いか遅いかの差でしかないが、そうなると私たちの最後はバッドエンドしかないのだろうか。
大往生と言ってもそれは死んだ後に生きた人によって決められるだけだし、長く生きたから満足、というわけでもないだろう。
かと言って、死に方やそのタイミングによってその人のそれまでの人生全てが悪くなるわけでもない。ただ単に、繋がっていた糸が途切れるような、そんな感じだ。


今日は酷く疲れてしまった。明日は葬式があるらしい。ちゃんとしなければいけないことは分かっているけれど、私はもう悲しみたくない。弱い。

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