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「ラーゲリより愛を込めて、笑いの社会性」2023年12月26日の日記

朝起きるのが辛い季節にはってまいりました。私が寝ている部屋は日が当たらない場所なので特に寒く、なかなか布団から出られない。

昼の適当飯。冷蔵庫でしばらく眠っていたうどんと昨日の残りをレンジでチンしてマヨネーズをかけて食べた。美味い。


映画『ラーゲリより愛を込めて』を見た。
シベリア抑留の話は恥ずかしながらあまり詳しく知らなかったので、入りとしてはいい勉強になった。

捕虜を銃剣で刺す場面なんかは、大岡昇平「野火」や有馬頼義「分身」という小説を思い出した。戦争を描く作品は被害側を描きがちだから、加害した記憶を描くのは良かった。

犬が氷海を泳いで戻ってくる場面なんかは「ちょっとやり過ぎだな〜」と思った。
犬が戻ってくるのは実話らしいと後から分かったので、そこを描くのは良いとしても、「クロ(犬)が帰ってきた!山本さんの思いを乗せて帰ってきたんだ!」とそのまま言わせていたのにはかなり違和感があった。「継承」というのがおそらく作品のテーマにもなっているから、強調したかったのは分かるけど、そんなことは映画を見ていれば分かるし、セリフで説明しすぎると冷めてしまう。

最後の場面においても、泣かせようとする意図が見えてしまってちょっと冷めてしまった部分はあった。こういう、実際にあった戦争とモデルとなる人物がいるものを「泣ける良い話」にするのには私は否定的で、戦争の残酷さを薄めてしまっているように感じる。戦争を扱った作品で「はぁ〜、泣けた、良い映画だった」で終わらせて良いのか。どこかスッキリ感のある終わり方で、万人受けはすると思うけど、もっと嫌な終わり方にしても良かったんじゃないかと思う。死が綺麗なものになっている気がして、家族に会うことができずシベリアで死んだ無念さが描けていないんじゃないか。

あと、引き揚げ船についてももう少し触れて欲しかったな。引き揚げする際にも船の中で多くの人が亡くなっているということは忘れてはいけない。列車から降りずに船に乗れたとしても、無事に日本に辿り着けたのかは分からないのだ。


M-1があまりにも盛り上がっていて、逆にあんまり興味ないというフェイズに入ってしまった。私はかなり逆張り人間なので......。

M-1をはじめとして、「笑い」というものがかなり社会性を伴ってきた結果、だんだん楽しめなくなるんじゃないかという気はしている。笑いというのは本来個人的なものであるはずなのに、あまりにも権威を持ち過ぎているがために、社会性を求められるようになってきている。多分これからもっと表現の幅は狭くなるだろう。

私は「笑い」というのは基本的には個人的なものであって欲しいと思っているし、社会のことを気にして空気を読んでいる漫才なんて面白くないと思っている。だからこそ炎上とかを気にしないでやって欲しいし、面白いと思うことはどんどんやって欲しいと思っている。
けれど、今のM-1の盛り上がり方や「お笑い」の影響力の高さを見てるとそんなことは到底無理で、できることは少なくなっていくだろう。それは仕方ないことでもある。現に私も、昔の私だったら笑えているようなネタが笑えなくなってきている。私だって、敗者復活戦の「ニッポンの社長」のネタを見てゲラゲラと笑いたかった。昔だったら笑えていたものが笑えなくなるというのは悲しい。けれど、あのネタで笑っていた人も大勢いるわけで、私はその人を否定しようとも思わない。あのネタを否定する気持ちも別にない。ただ、楽しめなくなった自分に対して少しがっかりするというか、ただただ残念だなと思う。

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