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「恋愛リアリティーショーが分からない」2023年9月20日の日記

恋愛リアリティーショーというものがあり、少し前に話題になっていたのをチラッと見た。恋愛がエンタメになるなんて凄い世の中だ。なんか、今はもう全部がエンタメになっているような気がする。結婚も不倫も喧嘩も全部エンタメ。

人が恋愛しているのを見て楽しむという感覚が全然分からないなと思う。昔からそうだ。
中学生くらいから「恋バナ」が一気に盛り上がっていたのだけど、全然興味が持てなかった。それなりに参加していたような気がするけど、あくまでコミュニケーションの1つだと思っていた。だから、恋愛リアリティーショーが流行っているのを見ると、人の恋愛を面白く見るという感覚は普遍的なんだなというのを思う。その普遍的な価値観が私にはよく分からない。

人の恋愛に興味がないという人も大勢いるとは思うが、私の場合は人の恋愛に興味がないというよりは、人に興味がないんだろうなと思う。人の進路とかも全然気にならない。薄情な人間だなと自分で感じる。
私は自分の「薄情さ」を気に入っているわけではないのだが、これってもう治すとかじゃなくね?というのも思う。「人に興味を持てるように頑張る」って文字にすると余計に滑稽だ。ロボットかいな。

私は人付き合いが上手い方ではないし、多分そんなに他者を必要としていない。これからも1人で生きていくんだろうなと思う。ただ、この1人で生きていくことに関して、「じゃあ生きてる意味ある?」というのを最近は真剣に考える。

今私が死んでいないのは、死んだら悲しむ人がいるからだ。まあ、痛みがあるとか恐怖を感じるからとか色々あるにせよ、私にとって「死んだら悲しむ人がいる」というのは死から遠ざかる上でかなり大きい要因の1つになっている。
今の生き方をしていると、「私が死んで悲しむ人間」は徐々に減っていくだろう。
そして、誰1人としていなくなって、改めて生きる意味を見出そうとした時、その意味がないということに気付いてしまうのではないかという恐怖感が今の段階から既にある。

なんか話が大きく逸れてしまったような気がするな。ただ恋愛リアリティーショーの面白さが分からないということを書こうとしていただけなのに。


文化人類学の本を読んでいる。
大学の授業で文化人類学はやったけど、当時は少ししか理解できていないところをもう少し詳しく知れた。
元々文化人類学という学問は国として強かった西洋で生まれたものであり、「多様な文化を認めてやろう」という強者の論理から生まれたものであるという部分が面白いところだ。多分そういうことってめちゃくちゃたくさんある。結局「力」によるものが大きい。


夜はまた散歩に出かけた。登山靴に慣らしておくためだ。今回はちょっとした山に登ってみることにした。
私の家から数十分歩いたところに小さな山があり、トレーニングも兼ねて登ることにした。

夜なのでかなり暗く、懐中電灯で道を照らしながら慎重に進む。歩いている時は全然怖くなかったが、撮った写真を見返すとかなり怖そうな道に見える。

20分ほど登ったら山頂。あっという間だ。
ここは夜景もかなり綺麗なんだよな。人もいないし落ち着く。しばらくベンチに寝転んでぼーっとし、家に帰った。

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