見出し画像

「予感はずっとあった」2024年1月29日の日記

5歳児を撫でる夢を見た。私は、歯磨きをしている5歳児の隣で一緒に歯磨きをしようとしていた。その5歳児と私は同じ色の歯ブラシを使っており、柄の部分に名前を書いて区別できるようにしていたのだが、5歳児は寝ぼけていたのか、自分と私の歯ブラシを間違えて使っていた。私が指摘すると、歯ブラシを一度口から取り出して名前を確認して、「うぇ〜」と言っていた。

夢から覚めて、「誰だったの、あの子」と思った。もう2度と会うことのない5歳児。


本を返すために大学に行った。
パソコンのある部室で作業を進めつつ、過去の自分の日記を読み返しつつ過ごした。


そういえば、昨日車の中で母親としていた会話で思い出したことがあるので書いておく。

私の家では、私が小さい頃に下の階に住む祖母が犬や猫やウサギを飼っていた。
猫は私が物心つく前に亡くなっているので、猫と暮らした記憶は全くないのだが、犬やウサギは私が小学3年生の時くらいまでは生きていたので、一緒に暮らした記憶はある。一緒に暮らした記憶はあるのだけど、私に犬やウサギを撫でた記憶はない。母親曰く、ウサギの方は凶暴でずっとゲージで飼っていたらしい。ゲージで飼っていたら撫でていなかったのは頷ける。ただ、犬に関しては非常におとなしかったと記憶しているし、祖母の田舎に車で帰る時に一緒に車に乗っていたりもしたから、その犬とはそれなりに長い時間を過ごしていたはずなのだ。けれど、私にその犬を撫でた記憶はない。愛でた記憶すらない。今の私ならば相当に可愛がり、毎日のように撫でるのだろうけれど、当時の私は興味がなかったようで、ただ「いる」という状態だったんだろう。本当に「いた」記憶しかないのが残念でならない。もう3匹とも死んでしまったから、もう会うことはできない。ただ「いた」だけの動物たちを、今の私ならば存分に愛してあげることができるというのに。


2時半くらいに大学の中にあるコンビニに立ち寄ったのだが、欲しいものが特に思い当たらず、何も買わずにコンビニを出た。そのまま図書館へ。中村文則『列』を借りて帰る。また読んだら感想を書きます。


大学を出たのが4時半くらいだったのだが、昼を何も食べていなかったので、帰る途中でパン屋に寄った。

海老カツバーガーを購入。大学の最寄駅の近くで食べる。ここのパン屋はパンの生地がもちもちしていて美味しい。


最寄駅から家に歩いて帰る途中、買った2個目のパンを食べるために公園に寄った。公園にはドロケイをしている子どもたちがいて、泥棒か警察かを分ける掛け声をしていた。「いろはにほへと.....」ってやつ。聞き耳を立てていると、途中で全然聞いたことのない掛け声をしていたので驚いた。地域差があるというのは聞いたことがあるけど、時代差とかもあるんだろうか。100年後に期待。そこまで生きているのか、私。

ちなみに、私の住んでいた地域では、全員が輪になって片方の足を出し、掛け声とともに靴を触って決めていた。掛け声は「いろはにほへと、ちりぬるを、いろわかよ」で、「よ」の次に靴を触られた人が探偵になる、みたいな感じだったはず。

書いてみて思ったけど、掛け声は覚えてるのにどうやって分けていたのかを全然覚えていない。この後の泥棒ってどうやって決まってたっけ。「を」の後の人が泥棒になっていたような気もしてきた。良かったらみなさんの決め方も教えてください。


家に帰ってXを見て、1番最初に出てきた内容に動揺する。そこから、しばらくそのことを考え続けていた。

私はかなりの「実写化アンチ」で、実写化された作品を何度も見てきては何度もその作品を汚されたような気持ちになってきたので、最近は実写化されたものは一切見ないようにしている。評判の良いものもあるけれど、私の精神衛生上できるだけ目にしないようにしてきた。製作者にその作品への愛がないことが分かるくらいの酷い出来で、自分の好きな作品が軽く扱われる気持ちは私にだって分かる。それが作った側だと思うと傷は相当なものだろうし、この一連の事件は、起こるべくして起こった感もある。「死」が生きている人にとってあまりにも強烈なものだから特に話題になっているけれど、少なくとも今回だけではないと思うよ。問題はずっとあった。

少し話はズレるけど、この1年くらいで、大きな組織による横暴や権力の良くない使い方がどんどん明るみになってきている。良くないことが世間に周知されて、それがちゃんと良くないこととして扱われているのを見ると、基本的には良い方向に向かっているんじゃないかと思う。隠されていたこと、知らなかったことの嫌さはもちろんあるけど。
これまで許されてきた(隠されてきた)横暴が明るみになって、その中には自分の好きだったものもあって、だからそういう世の中を「面白くない」と言う人もいるだろう。けれど、誰かの犠牲のもとで成り立つ「面白いもの」なんてなくていいし、そんなものがなくたって、他にも面白いことはたくさんある。

1人の人間が大勢の人間に影響を与えることができるようになってから、いわゆる「告発」というのは随分としやすくなった。昔は大きな力で抑えられてきたものが、大勢の人に見られることによって問題を顕在化させることができる。それはとっても良いことのように思える。
しかし、問題そのものを見ずに済ませることができて、知らずに楽しむことができていた時代の方が、身近にある綺麗なものだけを見ることができていた日々の方が、私にはどうしても美しく思えてしまうのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?