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「エビフライ食べられた母親」2023年10月13日の日記

寝てた!


朝から大学の友人3人とカラオケに行っていた。フリータイムで夕方の5時までずっとカラオケにいたため、記録がない。
ジャンカラで一部の店舗が無料でソフトクリーム食べ放題を実施しているらしく、今回行った店がその店舗だった。
ソフトクリームが食べ放題なのは個人的にかなり嬉しい。これがあるだけで一気にお得感が出る。あと、コーヒーフロートとかメロンソーダフロートとかにできるのが嬉しい。甘いものが好きだから。

久しぶりにこっちのアカウントで更新した。長らく作っていなかったが、短歌的なやつをまた考えていこうかな。私のやつは短歌と呼べるのか怪しいやつばかりだけど。

赤いリンゴが普通の世界で、例外の緑色をしたリンゴは青リンゴの呼ばれるが、わざわざ赤リンゴと呼んでみるのも面白いんじゃないかという思いつき。
これと似たような感じで、「あんぱん」とだけ書かれたパンがこしあんだったら嬉しいというのがある。粒あんなのが普通の世界で、こしあんなのにこしあんと書かれていないやつ。



「母親が頼んだ料理を母親が席を外している間に食べ切って母親を悲しませてしまった」というpostがバズっているのを見かけた。その後には、無意識のうちに母親を軽視してしまっていた罪悪感も同時に書かれていた。

家族として生きていると、どうしても母親に体重がかかってしまうなという実感がある。生まれた時から家事は母親がやっていたし、ある程度自分でできるようになってからも、基本的には家事は母親がするものになってしまっていた。

今でもその染みついた習慣は抜けなくて、気付いた時には、全員が少しずつ預けていた体重が母親に全部のしかかかっている、みたいなことがよくある。そして、他の人たちは全然それに気がつけていない、みたいなことも。
一方で、家事をすることが母親のアイデンティティーというか、存在意義みたいになっているのも肌で感じている。言葉にすると残酷だけれど、私が1人で全部やっていく姿を見る母親の目は、確実に寂しそうにしていた。
大人として変化していく必要がある一方で、まだどこかで子供を「やらないと」いけない。そういう構造がドロドロに溶け合ってぐちゃぐちゃになっている。そういった常にある問題が、何かの拍子にバランスを崩した瞬間、母親のヒステリックという形で型にはめられてしまう。そして、そういう家は多いとも思う。そういう家が多いということは、人が悪いというより構造の方に問題があるんじゃないか。意識しなければ負担が母親に集まる構造になっていて、解決するにはそれを意識するしかないんだけど、ほとんどの人がその構造に気づけていないと感じる。だからこそ「お母さんヒス構文」のようなものが一般ウケするのだ。私はラランドが好きだけれど、あれだけは本当に笑えない。私にとっては現実のことのように思えるから。
「母親のヒステリック」が、その人自身にあるのではなく、構造の問題が生み出した犠牲者であるのなら、それをネタにして笑うこと自体がめちゃくちゃ残酷だ。「お母さんヒス構文」の笑いの中には、間違いなく嘲笑が含まれている。「母親のヒステリック」をあるあるネタとして笑いにしてしまう視点は天才的だと思うけれど、私には悪意の方を強く感じてしまう。



.....なんか書いていてわけわかんなくなっちゃったな。見切り発車で書き始めるからこういうことになる。

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