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egg(26)

 
第十三章
 
 鶴川駅でオレこと高藤哲治はバイクで送ってくれた川上太一さんと別れた。自転車に乗り換えて自宅に戻ると、いつもより帰りが遅くなったせいで、お母さんが怒っていた。お母さんは怒ると態度がぐんと冷たくなる。今日はオレが帰ってきてもリビングでテレビを見て、オレの方を見向きもしない。「ただいま」と言っても無視するから、これ幸いと2階に上がろうとすると、テレビを凝視しながらお母さんが話しかけてきた。
「今日はいつもより随分遅かったわね。何をしていたの?」
「友達がケガしたから家まで送ってきた」
「塾のお友達?」
「違うよ。学校の友達にたまたま会っただけ」
「……もう深夜0時になるのよ」
ふうっと長い溜息をついたと思うと、お母さんがオレを見た。その目を見て、オレは背中にひやりとしたものが流れるのを感じた。お母さんが言う。
「帰りがあまりに遅いから、お母さん、塾に電話したのよ。石塚塾長はお前がいつも8時になるとすぐに塾を出ていくとおっしゃって、どうして帰っていないのかととても心配されていたわ」
ああ、バレたんだ、とオレは理解した。下を俯いてぎゅっと拳を握って動かないオレを見て、お母さんが冷たく言う。
「塾から家まで1時間しかかからないから、普通に帰ってくれば9時には家につくわよね? でもお前が帰ってくるのは毎日10時過ぎ。お前は一体毎日どこで何をしているの? そしてもう一つ……」
リビングのテーブルにどんとお母さんが貯金箱にしているクッキーの空き缶が置かれた。
「お母さんが買い物のお釣りをここに入れているのは知っているわよね?」
もうお母さんの目を見る勇気がないまま、オレは下を向いてかすかに頷いた。お母さんが続ける。
「最近お金が減っているの。それも100円玉ばかり」
お母さんが空き缶の中を探って100円玉を1枚取り出した。
「おかしいなと思ったから、昨日の夜、お金の数を全部数えて、ついでに100円玉を5枚入れておいたの。今朝、お前が出かけた後にお金を数え直したら、100円玉が4枚なくなっていたわ……。お母さんもお父さんも由美も、ここからお金を取り出していないのは確認済みよ。哲治、説明してくれる?」
「知らない」
「はあ? 知らないってどういうこと!?」
突然、お母さんの声が大きくなった。お母さんの剣幕にびくっとして顔を上げたら、お母さんの視線とオレの視線がぶつかった。怒りで真っ白になった顔面と、涙が溜まって真っ赤になった白眼とが、お母さんを鬼に変えていた。鬼はオレの頬をぱーんと平手打ちして怒りで体を震わせながら叫んだ。
「バカだバカだと思っていたけど、とうとう泥棒までするようになったなんて! しかもウソをついて誤魔化すワケ!? お父さんが言うように、あんたはおじいさんそっくり! 自分さえ良ければいいのよ! 犯罪にだって平気で手を染めるような畜生よ! ああ、もう限界! なんでこんな子になったんだろう! 産まれたときから全然可愛くなかったし、どれだけ頑張って育てても、期待は裏切られてばっかり! あんたなんか産まなきゃよかった! もうどっか行って! 顔も見たくない!!」
目の前に崩れ落ちて号泣する鬼を、オレはしびれた体で呆然と見つめた。鬼はオレのことは一切構わず、ただただ自分の悲しみにふけっている。気がつくとオレは玄関を出て自転車にまたがり、16メーター道路に向かって走り出していた。
 
夏休みももうすぐ終わる季節だからか、16メーター道路の辺り一帯のBGMは、カエルの鳴き声からコオロギの鳴き声に変わっていた。友達の川上直樹や唐沢隆とここで待ち合わせをしたのが、もう何千年も昔のようだった。
「哲治、遅せえよ!」
と文句を言いながらオレを迎えてくれた直樹のリーゼント頭も、
「おう哲治、やっと来たのかあ」
と大きな体を揺すって人懐っこく笑う唐沢のスポーツ刈りの頭も、今はない。
バリケードにぼんやりとしゃがみ込んでいると、遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。
オレは何も考えず、自転車のペダルを漕ぎ、鶴川街道を山に向かって走った。そして息を切らしながら急な山道を自転車で駆け上がり、一番急な下りカーブを抜けたところに広がる高台の畑に自転車を止めた。そこはバイクがスピードを上げて車体を傾けながら走り抜ける様子が一番よく見える場所で、オレ達のお気に入りスポットだった。
バイクの音が近づいてくる。自転車を畑に乗り捨てて、オレは鶴川街道に一人降り立った。
 
バウンバウンバウン! バイクのエンジン音が近くでこだまする。木と木の間からライトの白い光が見え隠れする。たった1台で猛スピードで走るそのバイクは、急カーブを攻めながら更にスピードを上げたようだった。
突然、目の前がバイクのライトで真っ白になった。
「うわああああ!」
バイクに乗っていた男が叫んでハンドルを切ろうとしたが、間に合わず、オレの体はきれいに上空を舞った。
世界がスローモーションで覆われた。足元にバイクとこっちを見上げているライダーのヘルメット越しの顔が見える。バイクのタンクには太い青色のペイントが入り、2つのメーターにも同じ色が使われている。ホンダエルシノアMT125。シルバー色の躯体がなぜか泣いているように見える。そしてライダーは……。
「太一さん……」
呟き終わるか終わらないかのタイミングでオレは激しく道路に激突した。背中を激しく打って呼吸ができない。バイクに当たった左足は火傷のような痛みで刺しぬかれたようだ。ヘルメットを投げ捨ててオレの元に駆け寄る太一さんを感じながら、オレは真っ暗闇の世界に吸い込まれていった。
 
 
第二部 完

 

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