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egg(49)

 
第二十三章
 
「おろしてもらうことになったのよ」
コンビニから深夜に帰宅したわたしこと高藤由美に、お母さんの恵美が顔を輝かせて報告してきた。
「おろす? お金を?」
言っていることがよくわからなくて、わたしが首をかしげると、お母さんは少女のように首をぶんぶんと横に振ると、勢いよく私の両手を取った。
「そうじゃないの! あの女とお父さんが別れることになってね、中絶することになったのよお!!」
びっくりしているわたしの肩をゆさゆさ揺すってお母さんが続ける。
「退院するまでは責任を持って向こうにいるんだけど、終わったらうちに帰ってくるわ!   ああ、耐えた甲斐があったわねえ!」
お父さんの隆治が家に戻って、借金の整理をきちんと進めてくれたら、わたしも春から安心して就職できる。
ほっとして、「よかったね」と言おうとしたところで、お母さんが突如わたしに命令をしてきた。
「それでね、手切れ金が100万円になったの。お前、貯金があるでしょ? お父さんに渡してあげて!」
「へ?」
予想外の言葉に驚きを通り越して呆然としたわたしに、お母さんが当然でしょ、といわんばかりの顔で説明を続けた。
「お父さんは借金の返済と中絶費用の負担で、手切れ金が出せないの! さっきお前の部屋で通帳を見たら、もう100万円以上貯まってるじゃない。あと3か月したら就職できるんだし、なんてことないでしょ?」
「わたしの通帳を勝手に見たの!?」
思わず声を荒げたわたしに、お母さんがむっとする。
「なによ、親子なんだから当然でしょ? 生活費や借金の支払いを手伝ってくれていたけど、まだまだ余裕があったんだって、私びっくりしたの。さすが由美はしっかり者よ! 本当に助かるわ!!」
心臓が痛いほどドキドキと高鳴る。頭がくらくらしてきたが、必死にこらえてわたしは言った。
「それは、社会人になるにも色々準備が必要だからよ! お母さん知ってる? 就職しても最初の1か月は働いてないから給料が出ないの! スーツや鞄や靴も買わないといけないし、お昼ご飯や通勤の電車代だってある。それにサークルで卒業旅行に行くことになっているのに……」
言いながら泣きたくなってくる。でも、お母さんはそんなこと聞いちゃいなかった。
「細かいこと言わないで! 家族なんだから困ったときは助け合うのが当たり前でしょ? それに全部使おうってわけじゃないわ。余ったお金でぎりぎりやっていけるわよ!」
そのとき、リビングのテーブルに置かれた包みが目に入った。この前通販で買ったコルセットが届いたらしい。わたしは怒りで震える指で、それを指した。
「じゃあ、お母さんも買い物をもっと我慢してよ!」
途端にお母さんの目がつり上がった。
「我慢してるわよ! 毎日毎日借金の返済をし続けて、食べるものも着るものもディスカウント商品ばっかり! この前だって、お前に言われてリンゴダイエットに切り替えたじゃない! 1か月に1回くらい、自分のためのものを買って、何が悪いっていうのよ! お前だって自分のものを買ってるじゃない! 私にばっかり負担を押し付けないで!」
「押し付けるって、そんなつもりは……」
お母さんのあまりの剣幕に言いよどんだわたしに、お母さんがさらに畳みかけた。
「大体、ここでお前がお金を出さなかったら、お父さんは家に帰ってこられなくなるのよ! お前はそんなに冷たい人間なわけ!?」
 
結局、翌朝わたしはお母さんと連れ立って郵便局に行き、お金をおろすことになった。
「はい、これ」
100万円の入った封筒をお母さんに手渡した。たった1センチほどの厚みに、どれだけの思いがこもっているか。子供の頃からコツコツ貯めてきたお小遣いと、大学生になってコンビニで働いて稼いだお金がここに凝縮されている。軽いはずなのに、ずっしりと重い封筒を、お母さんはひょいと取り上げ、ハンドバックにしまった。
「ありがとう、助かったわ。お父さんに渡してくる」
さっさと歩き去るお母さんの後ろ姿を見送りながら、わたしはため息をついて通帳を開いた。
「残り18万か」
給料が出ない最初の1か月の生活費は、定期券を買うお金と毎日の食事代くらい。家に月5万お金を入れるとして、10万あればいいだろう。残りのお金とあと3か月のアルバイト代で、サークルの同期で行く卒業旅行や飲み会代、就職するときの服や小物も新調しよう。
たしかにお母さんの言う通り、何とかなる状態ではある。でも、お母さんに一方的に決められて、お金を巻き上げられたのはショックだった。
今までわたしは親から大事にされていると信じていたし、お父さんの会社がおかしくなるまでは、お母さんだってもっと思いやりのある人だった。どうしてこんなことになってしまったんだろう……。
 
ホームセンターとコンビニに立ち寄ってから自宅に戻ると、わたしは自分の部屋のベッドにうつ伏せになった。とたんにそわそわと落ち着かなくなる。お母さんがわたしの部屋を勝手に物色していることに改めて気がついたからだ。成人している娘の部屋を探って通帳を探しあてるなんて、わたしのプライバシーはこの家のどこにもないと言われているようなものだ。
これでお父さんが帰ってきたら、どうなるんだろう? 二人ともわたしにプライバシーがあるなんて思いもしないんじゃないか。何をされてもわたしに拒否権はない。ただ言いなりになるだけだ。
ああ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!
 
ベッドからがばっと起き上がり、わたしは庭にむかった。シュヴァルツ2世がしっぽを振ってわたしを出迎えてくれる。お皿に餌を入れてあげてから、わたしは物置の扉を開き、トンカチと大量の板を取り出した。

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