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egg(62)

 
第三十六章(最終話)
 
「ただいま……」
川上直樹が運転する車に送られて、高藤隆治とその妻の恵美、そして隆治の母のいちが自宅に戻ってきた。
鍵を開けて中に入ると、家の中はしんとしている。
隆治は不審げに呟いた。
「なんだ、あんなに大騒ぎしたっていうのに。哲治はもう帰ったのか」
恵美もきょろきょろと部屋を見回す。
「由美と話はできたのかしら? ちょっと様子を見てきますね」
突然、二階に上がった恵美が「きゃあああ!」と悲鳴を上げた。隆治といちは慌てて上に向かう。
「恵美、どうしたんだ?」
「あ……ああっ!」
隆治が階段を上がって二階の廊下を見ると、由美の部屋の入口を塞いでいた板が取り外され、扉が大きく開いている。
扉の向こうを凝視している恵美の横から部屋を覗き込んで、隆治ははっと息をのんだ。
 
部屋の中は無人だった。
打ち付けられた板に隙間なく詰め込まれていた紙や布の切れ端は、すっきりと取り払われ、板と板との隙間から差し込むオレンジ色の夕陽が、部屋のあちこちを照らしている。
タンスや机の引き出しは空っぽで、不要な荷物はまとめてゴミ袋に詰められている。
そして、学習机の上には封筒が一つ。
 
隆治が震える手で封筒を取り上げた。表には
「お父さん、お母さんへ」
と由美の字で宛先が書かれている。
隆治は糊のついていない封筒を開き、便箋を一瞥すると、その場で膝から崩れ落ちた。
 
書かれていたのは、
「探さないでください」
というたった一言。
それは12年前、兄の哲治が家出したときに残した手紙と、全く同じ内容だった。
 
 
空っぽになった由美の部屋は、ヒナが孵ったあとに残された卵の殻のようだった。
そして、子供に依存して、全く子離れできない隆治と恵美は、抜け殻に娘の残滓を求めて、いつまでもいつまでも嘆き合うに違いない。
なぜなら、彼らもまた、親との関係がうまくいかず、卵の中から生まれ出ることができなかった、哀れなヒナだからだ。
きっと死ぬまで彼らは、自分の心に巣くう苦しみから抜け出せず、卵の中で一生を終えていく。
だがそれも、彼らが「選択した」人生の一つの形でしかないのだ。
 
 
ショック状態の夫婦二人を家に残し、高藤いちはそっと外に出た。
 
今年もまもなく終わりねえ。
新しい年が、どうぞこの家族全員に、幸せをもたらしますように。
命尽きるときまで、私はこの家族を見守ってまいりますから。
どうか、どうか。何卒よろしくお願い申し上げます……。
 
空には一番星が輝いている。
 
                  完

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