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egg(55)

 
第二十九章
 
十二月二十八日。娘の高藤由美が自分の部屋に閉じこもって、一週間になった。年末で仕事納めをした夫の隆治と妻の恵美は、キッチンで昼食を食べ終わりお茶をすすって一服していた。
「今日はバレエをしないわね」
と、天井を見ながら恵美が呟いた。ここ一週間、キッチンの真上の部屋にいる由美は、気が向くとバレエをしているようで、軽やかなステップの音が天井から時折響いてきたのだ。だが、今日は朝から一度もそんな音さえ聞こえてこなかった。
「何をやっているんだろうな。いい加減、出てきてもよさそうなもんじゃないか。よし、もう一度話してくるか!」
しびれを切らして立ち上がる隆治を恵美が止めた。
「やめてよ! 昨日の夜、あなたが怒鳴ってから何の音もしなくなっちゃったのよ。これ以上刺激しないで!」
「じゃあ、どうしろって言うんだ!」
とイライラした声で隆治が叫んだ。
「どっちにしろ、このままでいられるわけがないんだ! いい加減ドアを壊さないと、あの子がどうなるかわからんだろ!」
「そんなのわかってるわよ!」
恵美がヒステリックに叫び返す。
「だけどっ! いくら声をかけても、あの子は私たちの話を聞こうとしないじゃない! これで無理やりドアをこじ開けて、自殺でもされたら……私、もうどうしたらいいかあ!」
恵美がぽろぽろと涙をこぼして泣き始めた。隆治は吐き出せない苛立ちを拳に込めると、壁を力任せにぶん殴った。ボコッと大きな音がして、壁が丸くめり込んでしまう。その様子を見て、恵美が今度はわあわあと泣き始めた。
 
今、二人の心にあるのは、一寸先も見通せない漆黒の闇だ。
目の前にある手さえ見えない真っ暗闇の中で、実際に閉じこもる娘の由美の方ではなく、日の当たる場所にいる夫婦の方が、先に心理的な闇に取り込まれたというのは、何とも皮肉な話だった。
 
チャイムが鳴った。
泣いている恵美の代わりに、隆治が玄関の扉を開けると、目の前に松本に住んでいる母のいちが立っていた。
「お、おふくろ? なんでここに……」
 

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