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egg(54)

 
第二十八章
 
部屋に閉じこもって、もう何日になるんだろう。
 
そもそもはわたしこと高藤由美の部屋を、お母さんが勝手に漁って、しまっておいた通帳を無断で見たことがきっかけだった。学習机の引き出しの奥にあるファイルに通帳を忍ばせておいたのに、どうしてお母さんはありかがわかったんだろう?
ひょっとして、こっそりつけていた日記も、中学時代にもらった初めてのラブレターも、片思いしていた男の子の写真も、何もかも当たり前のように見られてきたのではないかと思うと、恥ずかしさと怒りで頬が紅潮する。そして何より、そうしたことがわかった後でも、嫌なことを嫌と言えない自分の弱さが辛かった。
 
そう。100万円をお母さんに渡した後でわたしがホームセンターに行ったのは、プライバシーを守るために、部屋に鍵をつけるつもりだったからだ。
だけど鍵をつけたところで、あの両親は強い態度でわたしに部屋の開放を迫って来る。そうなったらわたしは拒否できず、きっと自分から鍵を外してしまうに違いなかった。
 
それだけはどうしても嫌だ。親であっても嫌なものは嫌。これ以上、1秒だって我慢できない……。
 
だからわたしは部屋の外から中に入るルートを物理的に塞ぐために、大量の板と釘を買い込み、自宅までタクシーで運んだ。そして近所のコンビニに行って、常温で長持ちしそうな缶詰やレトルトやペットボトルをありったけ買い込み、トイレ替わりのふた付きの巨大なバケツを部屋に置いて、閉じこもる準備を整えたんだ。
そうして最後に、物置にあった工具と余って置いてあった板材を自分の部屋に持ち込むと、ドアと窓を板で覆い尽くした。
 
徹底的にやったおかげで、いくら扉を叩こうが叫ぼうが、お母さんは部屋の中に入ってこられなくなり、わたしの一挙手一投足を始終監視する視線が一切感じられなくなった。
そうしたら、想像していた以上に、自分の心が緩んでいくのを感じることができた。
「こんなに気が楽になるなら、もっと早く閉じこもるべきだったかも」
わたしはのびのびと手足を広げて床に転がった。本当に清々した気分だった。
 
そのうち、日の光さえ外部からのいらない刺激に思えてきたわたしは、紙や洋服を切り裂いて、光が射しこむ場所を一つ一つ丁寧に埋めていった。
努力の甲斐あって、部屋の中に光がまったく届かなくなり、自分の手のひらさえ見えなくなったとき、わたしは嬉しくなって、久しぶりにアラベスクのポーズを取った。
慣れた自分の部屋だ。大学受験に失敗するまで十数年続けてきたバレエをするのは、暗闇でも簡単なことだった。
「アン、ドゥ、トロワ……」
じゅうたんの感触を足の裏で感じながら、わたしは『白鳥の湖』を踊った。一番好きなのは、悪魔の呪いで白鳥になったオデットが、夜が来て人の姿に戻り、王子とパ・ド・ドゥを踊るシーンだ。
苦しい境遇にいる姫の元に、王子様が現れて愛を誓いあう。そんなことがいつかわたしにも起こるのではないか……。そんな甘い夢を見ることができたから。
 
ーだけど、もう違うんだよなー
バレエの一つ一つの動きを丁寧に掘り起こしながら、わたしは考えた。
―王子様なんて、現実にはどこにもいない。結局、わたしの人生はわたし次第なんだからー
親の期待に応えて従順でいれば、いい高校、いい大学、いい会社へとエスカレーター式に人生が進み、最後にはわたしを丸ごと認めてくれる、素敵な夫と出会って幸せな人生が送れる。
そんなのはただの夢物語だ、と、26歳にもなって、ようやくわたしは気がつき始めていた。
 
突然、ドアの下の方から、木材がきしむ音と共に一条の明るい光が射しこんできた。
お父さんとお母さんがドアをこじ開けようとしている!
暗闇になれたわたしにとって、眩しい光は目に刺さる毒だった。わたしは怒ってうなり声をあげると、隙間からのこぎりを突っ込んで二人を威嚇した。それから余っていた板を扉に当てると、釘をガンガンと打ちまくった。
 
また部屋に静けさが戻った。わたしは安堵してベッドに寝転がると、胎児のように丸くなり、温かい暗闇に守られながらすやすやと眠り始めた。

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