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egg(37)

 
第十一章
 
五日後。日照大学の人事担当から電話が来て、面接の日程が告げられた。弘子おばさんのコネが効いたらしい。朝食を食べながらわたしこと高藤由美がその報告をすると、お父さんとお母さんは大喜びした。
「これで由美の就職も安心だな」
お父さんがコーヒーを片手に満足げな笑みを浮かべてお母さんに笑いかけた。お母さんもにっこり笑って言う。
「弘子さんにお礼をしないといけませんね。何かお送りしたいわ。デパートで探しておきますね」
嬉しそうな両親を見て、わたしは言った。
「うーん。面接はこれからだから、喜ぶのはまだ早くない?」
お父さんとお母さんが同時にわたしを見た。お父さんが笑って言う。
「大丈夫だよ。これはコネ入社なんだから。面接だって形式的なモノさ。もう入れることは決まっているんだから、就職先にご挨拶に行くと思っていていいんだよ」
「そうよ」
とお母さんも相槌を打つ。
「お父さんの言う通りにしておけば間違いないわ。由美は安心していなさいな」
手放しで喜ぶ両親の姿を見て、わたしは慎重に言葉を選びながら答えた。
「そうだね。ようやく安心できそうだよ。お父さん、お母さん、協力してくれてどうもありがとう。
無事に就職できそうだって、お兄ちゃんにも伝えられたらいいのに……」
途端に家の中の空気が少し冷え込んだ。お父さんが不機嫌になって言う。
「おいおい! いつもあいつの話はするなと言っているだろう!」
「そうよ!」
お母さんも眉をしかめて言った。
「家出してもう10年以上経つじゃない。『探さないでください』って書かれた手紙を残していなくなってしまって……。一度も連絡を寄越さないし、どこかで元気にやっているんだから、放っておけばいいのよ!」
「お母さんの言う通りだ」
お父さんが畳みかける。
「あのとき警察や探偵にも随分協力してもらったが、どうしても哲治を見つけることができなかった。あいつが自分の意志で姿を消してしまった以上、こちらはどうすることもできない。由美、この話はもう何度もしているだろう。大体、今さらどうして哲治なんだ?」
不審そうなお父さんに向かって、わたしはこの前弘子おばさんと話した内容を伝えた。二人ともびっくりしたが、決して喜びはしなかった。
「そうか、生きていたか……」
お父さんはちょっと安心したような顔をしたが、同時に怒ってもいた。
「どうして弘子が知っていて、僕たちが何も知らないんだ? 由美、弘子は誰からこの話を聞いたと言っていたんだ?」
「それが、教えてくれなくて……」
「きっと夜のお仕事で耳にしたんじゃないかしら?」
とお母さんが頬杖をついて考えながら言った。
「お姉さん、銀座でバーを経営しているでしょ? 顔も広いでしょうし、たまたま知ったから教えてくれたのよ」
「そうか、僕はてっきりおふくろがついに哲治を探し当てたのかと思ったよ」
お父さんが腕組みをして言った。お母さんが不思議そうに言う。
「たしかに行方不明になった哲治を探すとき、お義母さまは必死になっていましたけど。でも、1年経った頃には探偵を雇うのを止めてらっしゃいましたよ。今さら探し直すなんてこと、あるのかしら?」
「たしかにそうだな。ちょっと不自然か」
隆治が思い直したように話を続ける。
「いずれにせよ、哲治ももう28歳になるだろう。一人前の大人になっている年齢なんだから、今さら保護者に頼りたくないはずだ。連絡をしたがらないなら、そうっとしておくのが一番じゃないか?」
「そうよ。こちらから探し回るのはいいこととは思えないわ。だってまた昔みたいに家族でもめるかもしれないし……。お互いに離れて生きるのがちょうどいいんだと思うわ。由美、お前も弘子おばさんの話で驚いたのかもしれないけど、そんなことは気にしなくていいのよ。自分がやるべきことに集中しなさい!」
お母さんがしたり顔でわたしに話しかける。
 
そうか、これはつまりわたしへの命令だ。二人とも反抗的な態度ばかり取っていた息子が煙たくて、もう会いたくないんだ。片足になってしまった息子を恥ずかしいとも思っているし。このまま姿を見せないでいてくれた方が都合がいいと思っているんだろう。
わたしはコーヒーカップを手に取った。黒い液体の向こうに、自分の顔が揺らぎながら映っている。わたしは暗い気持ちで考えた。
そしてお父さんとお母さんにとって、わたしはいつまでも可愛いお人形なんだ。二人のいいなりになっているわたしを、二人は愛しているのだから。
・・・
かつてお兄ちゃんはわたしの引き立て役だった。わたしはしょっちゅうお兄ちゃんと比較された。お兄ちゃんはいつも両親にがっかりされて叱られた。逆にわたしはいつも両親から褒められた。だからあの頃はお兄ちゃんのこと、ちょっと馬鹿にしていたと思う。能力はわたしの方が上だって。わたしが面倒を見てあげないとお兄ちゃんは困っちゃうって。
でも、お兄ちゃんのことは嫌いにはならなかったし、むしろ好きだった。わたしが当時よく見ていた『未来少年コナン』を子供っぽいって文句言いながらも毎週一緒に見てくれたし、外で遊んでいるときに転んでケガをしたわたしを家までおんぶして連れ帰ってくれる力強くて優しいところもあった。その内お兄ちゃんがイライラするようになってあまり話さなくなったけど、それでもたった一人のお兄ちゃんだった。
だからバイクの事故の後、お兄ちゃんの意識が戻ったときは本当に嬉しかったのに、なぜか両親とお兄ちゃんの間には見えない冷たい壁ができていて、わたしにはどうすることもできなかった。
 
特にお母さんはわたしを味方につけておきたがった。だから病院にお兄ちゃんをお見舞いに行くときは、必ずお母さんの調子に合わせて、必要な荷物を交換すると、雑談もせずすぐに帰った。
時折用事があって、お母さんがお兄ちゃんに対するときは二人とも異様によそよそしくて、まるで赤の他人と話しているかのように、敬語を使って感情のない声で話していた。検査で保護者が同席する必要があったときも。
「検査の説明があるので、明後日私も同行します。10時に診察室に参りますので」
と、お母さんがメモ帳を見ながら機械的に話しかけると、
「わかりました」
と、お兄ちゃんが答える。でも、そういうとき二人ともお互いの顔を見ないままじっとして無表情のままだ。そばで見ていると明らかに奇妙な雰囲気だった。
 
痛みで辛そうなお兄ちゃんに、わたしがつい声をかけてしまったこともあった。そんなときは、あとで必ずお母さんに文句を言われた。
「由美は哲治と違って、聞き分けのいい子よね? お兄ちゃんは事故のショックで家族と話すのを嫌がってふさぎ込んでいるんだから、あまり構わず、見守ってあげるのが一番いいのよ。もう勝手に話しかけちゃダメ。わかったわね!」
 
そんな調子だから、事故から半年たってお兄ちゃんが家に戻ってからも、家族との関係はぎくしゃくしていた。お兄ちゃんは左足がひざ下からなくて義足になっていたけど、両親もわたしも、腫れ物を触るようになっていて、お兄ちゃんをあまり助けなかったと思う。お兄ちゃんはお兄ちゃんで、家族と一緒にいることを徹底的に避けていた。
そして事故のせいで高校受験も受けられなかったお兄ちゃんは、中卒で家以外にいられる場所もなかった。だから友達の川上さんたちが迎えに来ると、いそいそと松葉杖をつきながら外出して、数日帰宅しないこともしばしばだった。
両親は事故の後はお兄ちゃんに注意することを止めてしまっていたから、お互いに何を考えているかもわからないまま、家族は3人と1人に完全に分かれていってしまったんだと思う。
 
事故から1年半経った、桜が満開になった3月のある日、一通の書き置きを残してお兄ちゃんが突然いなくなった。
「探さないでください」
と、たった一言だけ書かれた書き置きが、お兄ちゃんの部屋の学習机に残されていた。がらんとした人気のない部屋を見て、わたしはもう二度とお兄ちゃんがここに帰ってこないんだ、という事実に打ちのめされた。両親は厄介払いができたと安心していたけれど、わたしは決してそんなお気楽な気持ちにはなれなかった。でも、そんな話を両親にしたらわたしが叱られる。
この時以来、わたしはお兄ちゃんが不在になったことでできた空白をずっと胸に閉じ込めたまま、両親に嫌われないように気を付けて生きてきた。いつかお兄ちゃんに再会して、これまでの酷い仕打ちを謝りたいと思いながら。
・・・
10年も経った今になって、お兄ちゃんに会いたいとわたしが願ったところで、この家庭でわたしの気持ちが優先されることは絶対にない。わかってはいたけど、ここまであからさまに両親から説得されるとさすがに悲しくなった。
胸を切り裂くような痛みが体の内側に盛り上がりかけて、わたしは湧きあがった悲しさに慌てて蓋をした。
だって、わたしにはまだ両親が必要だし、いい子でいれば愛してくれるのだから。彼らを裏切る気持ちにはどうしてもなれない。そこでわたしは両親にこう答えた。
「そうだね。お兄ちゃんから会いたいと言ってくれるまで、待った方がいいね。もうこの話はしない」
二人がほっとしたのがわかる。わたしはこんな風に親の顔色ばかり見て、自分を素直に表現できない自分自身を感じて、我が身が小さく縮んでいくような心細い気持ちになった。
 
席を立ったわたしを見て、お母さんが尋ねる。
「あら、もうごちそうさま?」
「うん。弘子おばさんにお礼状を改めて出したいから部屋に戻るね」
お父さんが満足げに頷く。
「そうだな。弘子にこまめに報告しておけば、面接でもさらに配慮してもらえるだろう。出しておきなさい」
わたしはこくりと頷くとキッチンを出た。
 
部屋に戻り、学習机に向かう。はがきに文例通りのお礼の言葉を書きながら、わたしは腕から気力が抜け落ちていくのを感じた。腕が重くなってもう一つも文字を書くことができない。
しばらくボールペンを握りしめていたせいだろうか。吹き出した手の汗で、はがきの上の文字がにじんで汚れてしまった。
わたしはボールペンを放り出し、ベッドにうつぶせに倒れ込んだ。なぜだか涙が止まらない。何か透明な膜のようなものが自分を覆うのを感じながら、わたしはただ静かに涙を流し続けた。
 

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