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egg(50)

 
第二十四章
 
高藤恵美は娘の由美がこつこつ貯めてきた100万円の入った封筒を、ドトールの小さな机の上で夫の隆治に手渡した。
「はい、これ」
隆治はうやうやしく封筒を手に取った。
「本当に申し訳ない! これですべて終わらせられるよ!」
ふうっと大きなため息をついて恵美が言った。
「この前も話したけど、このお金は由美が貯金したものなのよ。戻ったら、ちゃんとお礼をしてくださいね」
「わかってる、わかってるよ……。本当にお前たちには迷惑をかけてばっかりで……」
隆治はこらえきれず涙をこぼした。ハンカチを渡そうとする恵美の手を押しとどめ、涙を腕でごしごしとこすって、テーブルに額を押し付ける勢いで隆治が深く頭を下げた。
「恵美、お前には苦労ばかりかけて、本当に申し訳なかった。これからは心を入れ替えてお前と由美のために働くから、どうか許してほしい!」
「……わかりました。でも二度と浮気はしないでください」
きっぱりとした口調で恵美が言った。
「次は離婚しますから」
「わかっている! もちろんだ! そんなことはあり得ないから安心してくれ!」
頭を下げっぱなしの隆治を見て、恵美はようやく安心した。この数カ月は、どこの馬の骨とも知れない、ぽっと出の女に夫を奪われそうで毎日気が気でなかったからだ。
結婚してから28年。もう隆治がいない生活なんて、恵美には考えられなかった。だから、女が恵美のもとにやってきて、妊娠したから離婚しろと迫ってきたときも、怒りの矛先は泥棒ネコにだけ向かい、隆治を憎むことはどうしてもできなかった。
それでも、裏切られたショックと、自分のものを奪おうとする敵への怒りは、行き場を見つけられず、恵美を苦しめ続けていた。そんなある日、恵美はついにある考えにたどり着く。それは、
ー隆治が私の元を去るのは、女としての魅力が減ったからに違いないー
という思いだった。
50歳になった恵美のウエスト周りには分厚い脂肪がたまっていて、あれほど忌み嫌っていたおばさん体形になっていることを、改めて恵美は自覚した。
ー痩せさえすれば、また隆治に振り向いてもらえる!ー
そう思った恵美は、これまで以上に熱心にダイエットの方法を模索し始め、3日間リンゴばかり食べたり、着ながら痩せられるコルセットを買ったりと、悪戦苦闘していたのである。
そして、ワンサイズ下のスカートが履けるようになった頃、隆治は相手と別れる決断をした。これは恵美にとってみれば、自分が美しくあることが、結婚生活を続けるうえで必要不可欠なことだ、と証明されたようなものだ。
だからこそ、恵美は鷹揚な気持ちで隆治の謝罪を受け入れることができたのである。
 
「うちにはいつ戻るの?」
恵美が尋ねると、隆治は封筒を背広の内ポケットにしまいながら、
「年内には帰るよ。また連絡する」
と言って席を立った。
恵美も一緒に席を立ち、おなかに力を入れて、ウエストを細く保った。
「じゃあ、年越しはできるのね。よかった」
店から出て向かい合ったとき、隆治が恵美の体を見てちょっと驚いた顔をした。
「お前……ちょっと痩せたか?」
恵美はふっと笑って冗談交じりに答える。
「ええ、あなたのせいで苦労しましたから」
「そうか……」
と言いながら隆治が頭をかいた。
「気苦労をかけて言うことじゃないが、きれいになったと思うぞ」
「じゃあな」と恥ずかしそうに手を振って立ち去る隆治の後ろ姿を見ながら、恵美は天にも昇る心地になった。
 
ーもう大丈夫。これで我が家はきっと元通りになって、何もかもうまくいくわ!ー
 
師走の街にジングルベルが鳴り響く。クリスマスの心弾む喧騒をBGMにしながら、恵美は有頂天になって自宅への道を歩いて行った。

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