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egg(42)

 
第十六章
 
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
しばらくすると、再びチャイムが鳴る。それでも誰も出ないことがわかると、玄関の扉をバンバンバン!と荒っぽく叩く音が響いて、若い男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「高藤さん、いないんですかあ? 返済の日時はとっくに過ぎてるんすけどねえ!」
 
今日もサラ金の取り立てが来ている。わたしこと高藤由美は、自分しかいない家の中で音を立てないようにじっとしていた。庭では飼い犬のシュヴァルツ2世が狂ったように吠えている。
しばらく我慢していると、取り立て屋がいなくなった。わたしはほっとして自分の部屋のカーテンを開けた。
今は12月。吐く息は白く、手がかじかむ。街のいちょう並木は葉をすっかり落としてしまい、寒々とした枝だけが天に向かって伸びている。
 
8月にお父さんの隆治が道端で倒れて入院して以来、我が家では大変なことが立て続けに起こった。
バブル崩壊の影響はお父さんの事業を直撃した。主要な取引先だったあかね銀行を始め、お父さんがつくる雑誌を定期購読してくれていた全銀行から取引中止の要請があったのだ。
大口の取引先を失って資金が枯渇したお父さんはその場しのぎにサラ金からお金を借りた。
だが、29%という法外な利率でお父さんは借金返済に追われるようになってしまった。
お母さんの恵美は絵の学校だけでは食べていけないからと、都心の百貨店でレジ打ちの仕事を始めた。近所のスーパーだと対面が悪いから、という理由だったが、久々に都心に行くようになったお母さんは洋服や化粧品、健康食品やサプリなどにお金を使うようになった。そんなこともあってか、わたしもコンビニで一日中働きづめになっているにもかかわらず、我が家の経済状況は全く良くならなかった。
しばらくすると、お父さんがサラ金で借りたお金を別のサラ金から借りたお金で返すようになった。11月になると、返済金額は雪だるま式に膨らんでしまい、我が家の郵便受けは督促状だらけ、聞いたこともない会社から資金返済を催促する電話がひっきりなしにかかってくるようになった。さらには柄の悪そうな若い男性が家の周りをうろうろしたり、家のチャイムを鳴らして返済を迫るようになってきた。
 
サラ金の追及から逃げようと自宅に寄り付かなくなったお父さんに、愛人がいることがわかったのもこの頃だ。愛人はお父さんの編集部で受付嬢をしていた30代の女性だった。ある日、仕事から帰ってくる途中だったお母さんの前にその女性がふらりと現れて、
「隆治さんの子供を身籠りました。どうか隆治さんと別れてください!」
と詰め寄ってきたのだ。
その夜、たまたま家に帰ってきたお父さんに、お母さんは陶器製のお皿を投げつけた。そして、
「裏切り者!」
と泣き叫び、お父さんを激しく責めたてた。ところがお父さんは謝るどころか、腹を立ててお母さんを罵倒すると、
「僕がこんな風になったのはお前のせいだ!」と開き直ってしまったのだ。
 
それ以来、お父さんは自宅に一切帰ってこなくなり、お母さんは高そうな洋服や化粧品や健康食品を毎日のように買って帰るようになった。そして深夜のコンビニバイトから帰ってきたわたしを見てはこう言った。
「あと少しで、由美もちゃんとしたお勤め先で働けるようになるわね。お父さんはもう頼りにならないわ。まったく我が家の男なんて、都合が悪くなると逃げ出す腰抜けばかりよ! 
でも由美は違うわよね? お母さんの言うことをしっかり聞ける『いい子』だもの。由美が就職して毎月きちんと給料が出るようになれば、サラ金だってすぐに返せるようになるわ……」
 
だけどわたしだってバカじゃない。お父さんとお母さんが返済に回す金額は、徐々に減り始めているのだ。思うように稼げない状況ももちろんあるのだろうが、それ以上に「わたし」をあてにしているに違いない。
このままだと、愛人と住むことを決めたお父さんと、買い物中毒になっているお母さんの面倒をわたしがみることになる。二人とも借金から目をそらして逃げ出して、今まで「いい子」でいた娘に助けてもらおうと甘えているのだ。
 
おなかがぐるぐると鳴りだした。また下痢をしているみたいだ。わたしはトイレに駆け込むと、便座に腰を下ろして痛みに耐えた。
「おなかで『の』の字を書くといいのよ」
と言うお母さんの声が頭に響く。「の」の字を書こうとおなかを触ったが、ふと激しい怒りがこみあげてきて手が止まった。
 
30分以上こもっていたトイレから出ると、わたしはハサミを持って、洗面所の鏡の前に立った。
「お兄ちゃんに会いたいなあ……」
家族を捨てた哲治お兄ちゃんは、宮城で自力で生活している。今のわたしたちの姿を見たら、何と言うのだろう。ざまあみろと笑うだろうか。
わたしは鏡の中の自分を見た。20代後半の目の下に隈ができた疲れた女性がそこにいた。髪は腰まで伸びた茶色のストレート。お母さんにそっくりで、まるで姉妹みたいだと褒められるのが嬉しくてたまらなかったっけ。
 
ため息をつくと、わたしは長い髪を半分手に取り束にした。そしてその束を耳の下から一気に切り落とした。

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