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『聴くことから始まるダンス』遊行編 vol.3 即興ダンスフィールドワークLOG :

京都芸術大学舞台芸術研究センター舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点 2024年度 研究リサーチプロジェクト
「聴くことから始まるダンス」~耳を澄まして悲喜交々に巡る、高解像度なドタバタ[High-resolution Slapstick] 
研究代表 垣尾優(大阪市在住 ダンサー)のフィールドワークLOGです。https://k-pac.org/openlab/12419/

これは、「聴く」「リアクション」をキーワードに、なぜか気になる場所や、なぜか気に入った場所を、記憶を思い出すように踊り巡る即興ダンスのフィールドワークです。また、道中、出会った人にもそんな場所を尋ね、それらを手がかりに、次へ辿るように歩き巡ります。
フィールドワーク同行者も募集しています。年齢性別ダンス経験不問。問い合わせなど kakioproject@gmail.com


13.「葉っぱが羽みたいになっとるでしょ、この三つくらいに分かれて、なっとる葉、これを根本から取るんよ、坊主でも見た目、悪うない、手袋せんと、手ぇがほーとなるでの、ほんで一週間ほど干して、わしは、風呂に入れるっ。」「これ、よもぎ?蓬風呂?」「ほうじゃ!(笑)」

大阪市民/談 補足: 蓬(よもぎ)はキク科の多年草、葉の裏が白く、高さは約1メートル。春の柔らかい若葉は草餅の材料、秋の生長した葉はお灸で使うもぐさになる。

つつじのもわっとした甘い匂い、電動キックボードで信号無視をして、警察官に怒られている青年、オープンテラスのカフェで、タイトデニムを履いた長い脚を組んで、かき氷のようなものを食べている若い女性、ピッチャーがボールを投げる動作を、片手だけで行いながら歩いている男性、自分達が掘った、道路のぽっかりした穴を覗き込む、道路工事の作業員たち。
蠢き出す虫、街の植木までも青々と。春だ。
5月18日、大阪は気温が30度近くまであがった、夏日と言える春だった。街を横切り、今日は毛馬橋西詰の北西方面に向かう。今この遊行フィールドワークは三つの道に分かれている。今日のルートはみつえさんが指し示したルート。これから、このルートをみつえルート、いや、ルートみつえ、
ルートMと呼ぶことにする。あとの二つ、プラージェ陶芸工房の先生が指し示してくれたルート、先日行った鶴見緑地公園のルートを、ルートPa、まだ行っていないThe farm universalに向かうルートをルートPbと名付ける。

ダンスメモ
このフィールドワークでは、このような時代に、街ゆく人に声をかけています。身体技術などを学んでおられる方などは特に、同意をもらえるかなと思いますが、正しく恐怖することってすごく難しいんです。コロナ禍でもそうでなくとも、素直に人と出会いたいと思います。また、声をかける際には、気をつけて肝に銘じていることが幾つかあって、まず勘を大事にする、勇気を持つが無理をしない、押しつけない、へりくだらない、コントロールしようとしない、惜しまない、目の前の人をちゃんと見てリスペクトを忘れない。ということです。理想は、向こうから声をかけられることです。
これらはそのまま私にとって、ダンスであり、ダンスメソッドです。
植物と目が合うけど、まだ喋れない、と以前言いましたが、わかったことがあります。まず自分からちょっと挨拶すれば良いんだ。挨拶は、すごい。
挨拶すれば、時は動き出す。

14.「インドの詩聖タゴールは、神の存在を認識する者(人間)がいないことには、神は存在しないに等しい。と反論した。」

出典:『身体にやさしいインド』 伊藤武/著 講談社+α文庫

ルートM /
毛馬橋西詰の北西方面に向かう。みつえさんは確か、お地蔵さんみたいなものがあると言っていた。おおきなマンションを左手に、大川を右手に、トラックが出入りする脇をぬけ、隙間のような道路を進む。
川は境界である。境界付近はいろんなものがあやふやになる。
私の友人は里山学者になった(もう長いこと会ってないけれど)。若い頃は、なんで里山?と思ったが、彼は境界周辺の、あやふやでダイナミックな面白さを知っていたんだな。
大きな木々、煉瓦、そびえたつ巨大な碑、緑。の中に、
ブルーの旧毛馬閘門(きゅうけまこうもん)があった。旧毛馬閘門は水位の違う淀川と大川(旧淀川)、この二つの川をつなぎ、通行できるようにするための水門で、明治40年(1907)から昭和49年(1974)までのおよそ70年間、旧淀川に流れ込む水量を調節し、船運の便を図った。この、かつての水門が記念遺産として残されている。(このルートMは、大川(旧淀川)を上るように沿って進んできて、淀川との合流地点であるこの場所に至った。)旧毛馬閘門のすぐ傍、そこにお地蔵さんはいた。
「毛馬北向地蔵(けまきたむきじぞう)」である。ひんやりしたような空気の中、いくつかの残念石に囲まれるように、その祠はあった。
残念石ってなんだ?残念石とは、大坂城再築城の際、伏見から運ばれる途中で川に落ちた石、大阪城の石垣になれなかったことから残念な石、残念石、と名付けられた石だ。(このネーミングセンスは私の何かを一瞬クニャっと複雑にさせたが、最終的には、おおらかさを感じて、ちょっと笑ってしまった。史跡散策中と思われるご夫婦も、苦く笑っていた。)
この祠には三体の素朴なお地蔵様が祀られている。
この三体のお地蔵様たちはそれぞれ、川から偶然発見された、整地作業の際たまたま掘り出された、ある所にいつの間にかあった、という経緯を持つ。淀川大改修工事をきっかけに、三体が、集まるべくして集まるように、時間をずらしながらも集結し、この地に安置された。
案内板によれば、もともとこれらのお地蔵様は、聖徳太子が仏教を広めるために、六万体のお地蔵様をつくらせ全国にそれを安置させた、そのうちの三体であるという。ちなみに日本で最初にカレーを食べたのも聖徳太子といわれている。太子はカレーやインドに憧れを持っていた。
この三体のお地蔵様は名前の通り北を向いている。北向地蔵である。
皇帝や王侯は北を背にして南を、家臣は北を向く、と言う中国の様式「王者南面」の考え方から、王宮や仏像は通常、その様式に則って南に向けてつくられる。たとえば、京都の御所も、南向きにつくられ、京都では東が左京、西が右京と呼ばれる。
お地蔵さんも、ほかの仏像同様に南に向けて安置されていることが大半であるが、日本では、地蔵菩薩であるお地蔵さんは、民衆と同じ立場からの救済という立場をとる。そのため、民衆とともに下座にあるから、北向きが本来であるとか、また、忌むべき方向の北をおさえる為に北向きである(北向信仰)とか、民衆の中にいるからどっち向いてもいい、などの諸説がある。
ここのお地蔵様のように、民衆からの視点と言う筋通りに、北を向いているケースは少なく、北向地蔵は全国に400体ほど。みつえさんが本当にここを指していたかはわからないが、聴く、踊る。
お地蔵さんは北向き、(新)淀川を向いて立っている。

参照
毛馬北向地蔵は、珍しい3体セット | 大阪市の北区をグルグル巡るブログ
北向地蔵尊 | ウメシバ・芝田商店街
豊中市内にも北向地蔵がいくつかあるが、なぜ北向きと言われるのか | レファレンス協同データベース

ダンスメモ:方向は面白い。方向にはすでに動機がある。このお地蔵さんの前で踊ってたら、なんとなく地面に顔をつけたくなった。つけたら、ひんやりとしていた。

15.「川を治めるには、まず山を治めるべし」

ヨハニス・デ・レーケ(1842―1913)/談
補足:明治政府から治水港湾計画を依頼され来日したオランダ人技師。日本に30年間滞在。治水の恩人、近代砂防の祖と呼ばれた。

ルートM /
ヒップホッパーだろうか、ちひろさんは、「旧毛馬閘門(きゅうけまこうもん)をくぐって、河川敷に出るのいいスよ。」と教えてくれた。閘門に下りるとコンクリートの地面に水が溜まっていて、濃い緑の苔がびっしり繁殖していた。おどろおどろしくて良かったが、写真は撮らなかった。お地蔵さんを背に、ぬめる水溜りを爪先立ちで、水面に浮かぶような心持ちで渡った。
明治29年(1896)大規模な洪水が相次ぐ中、政府は淀川の大改修工事に着手した。ここ、毛馬から南の中之島に向け、大阪湾に注ぐ、”新”淀川を開削(16㎞)し、大川(旧淀川)と繋いだ。
その一環として、明治40年(1907)に建設されたのが、旧毛馬閘門である。また、この大改修工事の要請の要因のひとつには、当時、経済を引き付けていた天然の良港である神戸港の存在もあった。神戸港に対抗し、大阪が商都へ飛躍するためには、大型汽船の出入りが可能な、国際貿易のできる近代港湾の建設が必要だった。
私が住み、今、彷徨いている大阪、淀川水系は、流域面積は日本第7位であるが、流域内人口密度でみると日本一だそうである。淀川は、琵琶湖からの瀬田川・宇治川、京都からの桂川・鴨川、奈良県からの木津川が合流して大阪で淀川になる。
古代、王とは治水した者だった、と言う言葉があるが、川沿いをうろうろして体感したり名前や歴史を調べたりすると、街や人に対する川の影響力、つながりを改めて思い知らされる。日常とはいろんなところと繋がってできているものだという、日常の仕組みについて、を考えさせてくれる。この淀川流域の大改修に関わったヨハニス・デ・レーケは治水を流域の問題、有機的システムや運動として捉えた。

参照
毛馬閘門 | 観光スポット・体験 | OSAKA-INFO
淀川のほとりで暮らして思う事 – 水資源・環境学会
一般社団法人 日本建設業連合
https://www.nikkenren.com/about/shibiru/c_36/11-14.pdf

ダンスメモ
例えば、虫が低く飛んでるな、こりゃ雨になるなとか、煙がまっすぐ上がるな、じゃあ晴れるなとか、こういうことと同じように、ダンスは、踊る自分自身や、それを見る人の、感性とか理性を延長させるものだと思います。これらが成り立っているのは、世界がバランスを取り続けて動いているから。いつもいつもそんなに動く必要はないし、やり過ぎると止まってしまう。

16.「Keep on Trippin」

『BACK TO THE WORLD』 by Curtis Mayfield, 1973 より

ルートM /
広く、スカッとしていることは、大変良いと思ったが暑かった。旧毛馬閘門をくぐり、辿り着いた河川敷は、だだっ広かった。
少年サッカーの集団、野球少年たちの行列、青年達がフリスビーをする催し、大家族バーベキューの集い、会社の慰安飲み会と思われる大宴会、氾濫するカップル、日焼けするおじさん、黒い綺麗なドレスを着て、華麗に釣り竿をたらしている女性、裸足で本を読む物静かな青年。それぞれが思い思いに過ごしても、まだ広い。私は、川岸まで歩いて、『冒険手帳』(谷口尚規/著・石川球太/絵)で学んだ、道具を使わず体だけで川幅を測る方法を試したら、もうすることがなくなった。しばらく右往左往したが、川に沿って西へ、新淀川を下るように行けるところまで歩くことにした。
炎天下と言っていい日差しの中を歩く。遠くの方に、大きなバリケードと椅子に座った人が見える。椅子に座っている人が、ビクッ、ビクッ、と何度か痙攣のような動きをしてるのは、なんとなく見えていてわかっていた。私は目が悪いこともあって、なんだろうとそのままだんだん近づいていった。
椅子に座っていた人は、警備員の男性だった。ビクッという動きは、男性が素早く両手を、顔の前でクロスしてるからで、こっちきたらダメ、行き止まり!ということを示すバツ印のジェスチャーであった。ハッと気づいて私も、無言でコクリと首を傾げて、振り向いて、来た道をいそいそ戻る。
暑く、疲れていた。しばらく歩いて、もうここでいいと立ち止まった、今、ここを聴こう。だだっ広い河川敷の道の真ん中で私は、立った。

ダンスメモ
聞いてみると聞こえることがある。都市にも自然はあるし、止まっているようでも動いているし、私の中に知らない自分がいたりもする。これは、よく聴くよく観るための研究実践です。

17.「だが、さっきは何故跳ね上がったのだろう」

出典:『老人と海』 ヘミングウェイ/著 福田恒存/訳 新潮社

ルートM / 喉がカラカラだった。もう河川敷を離れようと、淀川に背を向け、堤防を越え南側の街の方に降りた。降りてすぐにあった、歪んだような自動販売機で、ミラクルボディという飲み物を買い、傍に座り込んだ。向こうから男性がやって来て、彼も自動販売機の前に立つ。
天気や天候の不確定さとリアルさは誰もが話したくなる話題だ。暑いですね、そうですね、これから釣りですか?いつも行く場所があるんだよ。というわけで、男性の釣りに同行することにした。宮崎県出身のこの男性は大阪で定年退職を迎え、今は毎日のように釣りに行くという。雨の日は行かんけど、とのこと。
パッチワークの布のカバーで包まれた小さな水筒、小さなカバンに縮めた小さな釣り竿、普通のスニーカーにスラックス、薄いベージュの薄いベストに、日に焼けたcap帽、ちょっとそこまでという軽装の男性だったが、彼の釣りポイントまで、30分は歩くことになる。彼の後に続いて、私は再び堤防に戻り、超え、河川敷沿いの道を今度は東に向かって二人で歩く。
彼が歩くと雀が集まり、手にとまる。 あれは、椋鳥(ムクドリ)、あの声はヒヨドリ、たまにカワセミもいる、このあたりで海水と淡水が混じる、工事中のここは、万博に向けて造られている船着場、しかし工事は遅れている、あの男はあのベンチに365日居る、釣り仲間が四人いたが、今は二人になってしまった。餌のミミズは、その辺掘れば獲れる、餌買うて釣りする気にはならん、釣れるのは、ほとんどブルーギル。たまにバス、ヘラブナ、鯉、ボラ。 この辺りが出身という与謝蕪村の碑を通りすぎ、やっと川岸の方に降りて、さらにしばらく小径を抜けた、あわいなスポット。 ここが彼のお気に入りの場所だ。
彼が座ると、体長1メートルほどの青鷺(アオサギ)がすぐにやってきた。釣れるブルーギルという魚は特定外来種で駆除の対象である、リリースは推奨されていない、魚が釣れると彼はいつも青鷺にあげるのだそうだ。青鷺は彼を覚えていて、いつもこうやって後ろで彼の釣果を待っているという。
青鷺、雀、鳩、椋鳥、ヒヨドリ、ホトトギス、1980年ごろから盛んに輸入されたミシシッピアカミミガメの子供であるミドリガメ、毛皮目的で明治時代に輸入された南アメリカ原産ヌートリア、とんぼの中でも一番早く出現し春を告げるシオヤトンボ、久しぶりにモンシロチョウ、モンキチョウを同時に見た、巣を作り始めているのだろうアシナガバチ、ごく普通のアリ、赤いタカラダニ、私、などが見守る中、 彼、フクちゃんは、ブルーギルを二匹も釣った。バスはデカすぎて獲り逃してしまった。

ダンスメモ:
1時間半位でしょうか、一緒にただ、浮き、を見てました。「結構、楽しめるやろ?うっしっし。」と、フクちゃん。待つ。去る。知らぬ間に、別れ難く、去り難く。

18.「道の辺に 清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ち止まりつれ」

西行法師 『新古今和歌集』 

ルートM /
後ろ髪引かれる、とはよく言ったものだ。確か、能楽師の安田登さんの本に、人間が、感情を心の状態と考えるようになったのは、”心”という文字が発明されてからで、古代中国で甲骨文字が最初に発明されてから、”心”という文字が発明されるまで300年かかった、というようなことが書いてあった。釣り場を離れてすぐ、こんな記憶が、この本を読んだ図書館の状況とともに、ぼんやり浮かんだ。フクちゃんが指し示してくれたのは、さらに東の方、城北(しろきた)地区方面である。河川敷の道を東に歩く途中、中洲に続く、深い薮の小径を散策した。
込み入った藪がさらに藪と繋がって広範囲で広がっている。ところどころで、足を踏み入れてはいけないような雰囲気に、体毛が逆立つ(特に海外の都市などで、ストリートが一本違うと途端にヤバい雰囲気になるところがあるが、この薮では、見えない境界を、今、超えた。そんな感じで一瞬で一気に不穏な空気になる。)、途中とんでもないところに人の気配がしたり、急に猫と目があったり、しかしここはフィンランド?と思うような景色があったり。ひとしきり彷徨き、また飛び出すように藪を出て、河川敷の道に戻り、さらに東にずんずん進んで、城北公園、城北菖蒲園あたりから街のほうへ降りた。
午後の間の急激な環境の変化に、カルチャーショックを受けてしまった。街を歩く人が、清潔だからだろうか、テカって見える。城北地区は大阪市旭区となる、このルートMは、大阪市北区から都島区と来て、今、旭区に入った。頬かぶり、マスク、サングラス、上着、ズボン、身につけるほとんどの柄が花柄の女性が、「千林大宮(せんばやしおおみや)の方へ行ってみたら?」と。「おかあさん、千林大宮でおすすめの場所ある?」と尋ねると、「そりゃあ、人それぞれやがな。」と。そりゃそうだなと思いながら、指してくれた道(城北公園通り)をまた、東に向かって歩き、この途中にあった、太子橋今市(たいしばしいまいち)という地下鉄の駅で、今日5/18のフィールドワークを区切った。
次回、ルートMは、大阪メトロ「太子橋今市」駅から始める。

vol.4へ続く→


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