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一方向コミュニケーションは悪なのか

<今回の参考文献>
内田麻理香; 原塑. 欠如モデル・一方向コミュニケーション・双方向コミュニケーション 科学技術コミュニケーションにおける中核概念の再配置. 科学技術社会論研究, 2020, 18: 208-220.

前回宿題とした、<弱いロボット>に関する論文はまだ読んでいる途中。今回は科学技術コミュニケーションに関する文献を紹介する。

科学技術コミュニケーションにおいて、しばしば科学への不信感がテーマとなる。急速に発展する科学技術や、それらの研究開発を担う科学者を信用しない、信用できないと思っている集団を想定しよう。(私もそういう時がたまにある)

その集団の人々が科学を信用しない・できないのは、科学についての知識が不足しているからだ、とするのが欠如モデルにおける考え方である。知識が欠如した人に知識を与え、啓蒙しようというわけだ。

科学技術コミュニケーションの歴史においては、こうした欠如モデルは失策として語られることが多い。知識を知らない人に知識を与えるだけでは問題は解決しない、必要なのは双方向のコミュニケーション、対話なのだとされる。

本文献で、著者はこうした見方の背景には、欠如モデルと一方向コミュニケーションの同一視があるのだと言う。確かにそうだ。知識を知らない人から知っている人へ、情報が一方向へ流れる。欠如モデルはそんなイメージを想起させ、一方向コミュニケーションであることが失策の根本的な原因と思わせる。

著者はそうした旧来の分類を解きほぐして、一方向か双方向か、欠如か非欠如かの4つで分類してみせる。一方向で欠如モデルに依拠するものは例えば、「反対派に対する理解増進活動」、双方向で欠如モデルに依拠するものもあり、それは「原子力政策推進のための対話集会」であるという。その有効性については、文献を参照。(私もまだ読んでいる途中です)

書籍によるコミュニケーションは、やはり一方向になりがちだ。読者が本を開く瞬間、そこに書き手はいない。いや、いるとも言えるのかもしれないが、物理的にはいないことがほとんどだ。そこにリアルタイムで直接的な対話は、物理的には発生しない。

だから書籍による科学技術コミュニケーションは無力と言えるだろうか。そうではないと私は思うのだ。一方向であることが悪と言うわけではない。考え方によって、分類の仕方によって、そのあたりの問題が少しクリアになりそうな気がする。

海外ではさまざまな分類が行われているそうで、それらも例示する。科学技術コミュニケーションの講座を受けると、おそらく多くの場合初期に学習することだが、それでさえ、当たり前のことではないのだ。勉強し続ける必要があるなと再認識した。

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