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「環境問題」とどう向き合うか 2

前回、環境問題について書いてから4ヶ月が経過しました。いろいろと調べていく中でまた考えることもあり、メモしておきたいと思います。(長文注意…!)

前回の記事はこちら▽


「環境にやさしく」が資料に出てこない

前回のnoteでは「環境問題に関するコミュニケーションや広報活動には『地球がかわいそうだから環境を守らなくてはいけない』というメッセージにあふれていた」と書いていたのだが、最近の資料をあたっていると、こうしたメッセージや考え方はほぼ出てこない。むしろ否定されていることが多い。

環境を保全するのは純粋に地球や環境のためではなく、人間を中心とした都合なのだということを認識するべきだ、という考え方がどうやら一般的になってきている。気候変動が起こることで困るのはまずもって、人間である。気候変動は「変動」にすぎず、正の側面も負の側面も見出せる。

一方で、ここ数十年間の変動は明らかに人間のせいで起きているもので、こうした人間の痕跡がある地層年代を「人新世」(アントロポセン)と呼ぼうという流れも顕著になった。気候変動も人間の行動によって起きている部分があることがほぼ確実、というのが世界的に科学的な定説となった。

こうした状況で環境問題には、人間が起こした(主に人間への)負の影響をどうにかしたいという人間中心的な側面がどうしてもある。これを認識した上でそれでも「我々人類は滅びるわけにはいかない」「他の動物や環境を維持したい」というのが、今の取り組みのメインストリームのようだ。

世界は環境の上に積み重なっている

環境というのはつまり、生き物を取り囲む物理的な条件や周囲の生き物との関係性である。これはつまり素朴に考えれば物理的な世界そのもの、丸ごとである。その中では科学だけではなく、文化や経済、政治が展開されている。環境問題が多くの問題との隣接領域になる背景にはこれがあると思う。

また、環境は世界で均一ではなく、そこに住む人のやり方も均一ではない。一つの方向性だけであっという間に解決策が出せるものではなく、その土地土地の事情に合わせた対処法が必要になる。現に欧米とアジアでは地理的な条件が全く異なるため、農業政策の方向性も異なっていた。

さらに農業でいうと、農業のあり方というのは単に環境を守れるかどうかということだけではなく、その地域の慣習や文化、コミュニティ形成、生き方にも深く結びつく。宮澤賢治は科学の観点をもつ人でありながら、農村における文化やその醸成、農業者の生き方にも思いを至らせ行動していた。

環境問題は科学的に考えることはできるのだが、地理的、文化的な違いなどによって、ほとんどの場合、世界のどこでも通用する画一的な一般解があるわけではないことに注意が必要になる。その解がもたらす新たな作用や現象があるかもしれず、また解自体がその地域では維持できないかもしれない。

サイエンスライターとして書く上では、科学的な知見や観点を重視する。しかしその内容が科学的に正しくても、常にどこでも「正しく」、必ず全ての問題を解決するとは限らないことに注意が必要になる。科学は知見であり、万能な解決者ではない。

最近の社会動向から…

気候変動についての意識は多くの人に共有されているように見える

今年の7月は、観測史上最も暑い月として記録に残る猛暑となった。ニュースでも連日最高気温が報じられ、北海道では一部小学校の授業を短縮する動きも出た(個人的な体感としても「酷暑」だった…)。

この原因として地球温暖化、気候変動を想起した人も少なくないと思われる。環境問題や気候変動というワードは、環境に関する活動をする人だけのものではなく、今まさに起きていること、起きようとしていることという認識が今年広がったのではないかと感じている。

環境について調べていく中で、実を言うと最初のネックは「環境について考えているなんて言うと浮いてしまうのではないか」というような危惧だった。しかしそんなことを言ってられないということが、今年誰にでも体感できる形になったと思う。

環境問題に関するコミュニケーションと信頼関係

これは私には現状解決できる問題ではないのだけれど、メモとして書いておく。コミュニケーションを行う人同士に損得の関係がなければ、コミュニケーションは結局のところ互いへの信頼関係に帰結するところが大きいと思う。それは環境問題に関するコミュニケーションもおそらく同じである。

環境についてのデータは広範で大規模なものになることが多く、日本でのデータ源を辿ると政府や各省庁による統計、国際機関のまとめたレポートにたどり着く。こうしたデータを出している組織をどのくらい信頼できるかどうかが、データの受け取り方に大きく影響するように思う。

組織を信頼していなくても、科学を、科学を担う人を信頼できれば何かが少し変わるかもしれない。組織を丸ごと信頼するのは難しく、むしろ批判的な観点があった方が健全だと思う。最終的には科学に対する信頼が最後の砦になるのではないだろうか。

ただ、科学に対する信頼が、科学に対する妄信になってしまってはそれはもはや科学リテラシーと言えるのか少しあやしい。科学リテラシーは「科学的な知識をもっていること」とされる場面も多いけれど、それだけではリテラシーとは言えないのではないか。最近はそんなことも思う。

そのまま飲み込むのではなく、理解することが軸になる。しかしどうしても、一般市民としては専門家の塩梅に頼らざるを得ないところも出てくるという感覚がある。実際のところ、生活していると専門家の判断に完全に頼ることが自分で考えるよりも賢明なのではと思うこともたまにある…。

サイエンスに関する文章を書くならば、自分もまた科学から学ぶ者として、科学に関する知見を科学的に検討するリテラシーが必要だと最近思う。確定している知識をそのまま横流しするのではなく、自分なりに理解することを忘れないようにしたい。

(ある意味、生活する人が考える部分を代わりに考えて、生活に即した形でかみ砕き、提示するのが、サイエンスライターの役割の一つなのかもしれない)

目標達成度としては68点くらい

前の記事で「環境のように、自分が生きる基本となることについて考えるのは正直辛い」と書いたのだが、これについてはあまり変わっていない。今自分が生きている世界にこれだけ課題があり、それに少なからずおそらく自分の生活が関連しているということがもうすでに辛い。

一方で、気候変動自体もだいぶ辛い。シンプルに、暑すぎる。生命維持が困難になるかと思うくらい暑い。環境に関する科学について調べることはむしろ、建設的に社会の描像を得ようとする試みとなっていて、その点では救いでもある…。

今見ているデータは主に日本の省庁による統計データと各白書、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)のデータ、他に地理的な情報がわかる世界各国の地図的データだ。もう少し各国の状況を俯瞰できるものがほしい。それにできればやはり、メッセージ性が少ないものがいい。

情報の到達度、まとめ具合を評価すると全体としては68点くらいかなと思う。あとの32点はデータ源を増やすことと、それを系統立てて整理すること、理想的には元論文などまで辿って自分なりの結論を得ることかなと思う…。

環境問題の他にも、今本当に多くの問題が世界中で起きている。人権や文化、心身の健康の問題も多くあり、深刻であると感じる。全てを解決することは私にはできない。ただ自分よりも若い世代のことを思うと、少しでもその人の意思に従って生きられるように、道を整備しておきたいとも思う。

また考えながら活動をじわじわと続けてみる。

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