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わがままな理由:最近難しいこと

最近、サイエンスライターやサイエンスコミュニケーターとしてお話しさせていただくことが比較的多くあった。嬉しいのだけど、少し窮屈に感じている自分がいる。(なんと贅沢なのか…!)今日はそのことを思いつくまま書いておく。

この数週間、少し自分にきいてみたのだが、改めて考えると私は、「サイエンスコミュニケーター」を目指しているわけではなく、「サイエンスライター」を目指しているわけでもない。自分が向かいたい方向に向かっているだけで、その目標地点の名前を既存の言葉から借りてしまうと、うまく自分の行動がコントロールできなくなってしまう。

サイエンスについて書いているから、外からその活動を見たら確かにサイエンスライターで、その肩書きをもたせてもらえることに誇りを感じている。確かに人はサイエンスについて書く人をサイエンスライターと呼ぶのだ。何も間違っちゃいない。間違っちゃいないのだけど自分では何かこう、服に着られているような、ランドセルに背負われている小学生のような気分になる。自分が理想とする実力に至っていないからか。そうかもしれない。

それに実は、いまだに自分の感覚からは「サイエンス」を遠く感じている。サイエンスというよりも、「私が理科として出会ったもの」「自然現象を探ろうとする営み」「社会現象を説明しようとする営み」という言葉の方がしっくりくる。いやそれを、人はサイエンスと呼ぶのだろうよ、とは思うのだけど。

私はただ科学と自分の距離が、科学と家族の距離が少し遠いことに興味がある。なぜ遠いのかに興味があって、そこを手がかりにすれば科学ともう少し仲良くというか、和解できるような気がして、そのために調べたり書いたりしている。わがままな理由で今の活動をしているのだ。

ただそのことが、偶然誰かの楽しみになったり、「私もそこが気になっていたんです」と何かこう…少し安心してもらえたり、「そうだったんだ」と驚きの元になったり、「もう少し『生きて』いようかな」と思えるきっかけになったりするような気がしている。私が「サイエンスライター」としての活動すると、社会にはそんな得があるようにしたい気がする。(損得だけで考えたくはないけど、損得のことを少し考えてもいいように思う)

現代は、科学技術をベースに動いている。今身の回りを見ても、そして自分自身を考えても、科学技術なしに生まれて、動いているものはほとんどないように思う。そんな世界で、科学技術がベースの世界で、科学技術を肯定できずに、あるいはそれをうまくこう…受け入れられずに、生活と遠いところに置いておくことが、私はそろそろ息苦しい。

いや、別に、縁遠いところで生きていたっていいのだ。でも私は目の前にあるものの矛盾が基本的にあまり許せないのだ。なんだって調和させたくなる。(自分自身が矛盾だらけなんだけれども。そこはしんどいところでもある)

なんだって調和させたい、何かのつながりを見出したいと思う、その先に、科学技術が自分の生活と調和することを願っているのだ、私は。かつ、そんなふうに考えているのは私だけじゃないのかもしれないと薄々思うのだ。なぜなら私はそれほど珍しい人間ではないからだ。

難しい。最近これが、難しいなあと思う。


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