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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】(番外編)北朝鮮軍・中国軍墓地

初稿:2024.03.15
更新:2024.03.15

(この記事は8,782文字です)

(ここに書かれている内容は、2008年に韓国を旅行したときに、北朝鮮軍・中国軍墓地を訪ねた思い出です。その頃に作っていたホームページに掲載しようと文章にまとめました。しかし掲載しないまま、パソコンの中にしまっておきました。
 10年以上も前の情報なので、役に立つ部分はほとんどないように思います。鉄道については、時刻や駅の位置、駅の数など変わったものがあるかも知れないので、注意してください。また、案内板もそのときのものなので、現在は内容が変わっている部分もあるかも知れません。
 私はこんなふうに、のろのろと旅行をしているのだ、ということを知っていただこうと、公開することにします。
 今、当時を振り返ってみて、気づいたことや現在の状況について加筆した部分は、文頭に《注》と表記して、加筆した文章を〈〉で囲ってあります。)



北の墓

 朝鮮戦争で死んだ北朝鮮と中国の兵士の墓が韓国にある。そのことを知ったのは2007年の秋、 N H Kの朝のニュース番組を見ていてのことだった。
 その週は1週間にわたって韓国を特集するコーナーが設けられていた。その日、ソウル支局員が訪れていた場所には、白い角材でできた墓標が列をなして立っていた。その数は10や20ではなく、数百はあるように見えた。
 ここは、朝鮮戦争で戦死し、北朝鮮にも中国にも引き取られることがないまま埋葬された兵士の墓のあるところで、北朝鮮の方角が臨めるような位置につくられている。場所はソウルの北に位置するパジュ市(坡州市)。ただ詳細な位置については支局員から説明されなかった。
 その存在は、韓国の人々も多くは知らないと言うことだ。
 私はこの場所を訪ねてみたいと思った。
 私は「韓国のパジュ市には北朝鮮兵士の墓がある」とメモをしておいた。

 1950年6月25日に北朝鮮の侵攻により始まった朝鮮戦争では、特に最初の1年は、朝鮮半島の上をローラーをかけるように前線が何度も行ったり来たりした。そのため、軍人・民間人を合わせ、多くの犠牲者がでた。

墓の場所の情報

 パジュ市のだいたいの位置は知っていたが、墓地はパジュ市のどこにあるのだろうか。
 インターネットに何か手がかりはないものだろうかと検索をしてみると、 いくつかのヒントが見つかった。
 墓地を訪ねたことがある人たちのホームページやブログがあった。
 あるホームページには、墓地の位置のヒントとなる情報が書かれていた。
 「ジャンパからもう少し行くと、ジャジャンとタプコンに行く道があらわれ、その中間に道路で行けないで、舗装されていない道に入らなければならない。
 いわば“敵軍廟”と呼ばれていた“北韓軍・中国軍”墓地はパピョンミョンとチョクソンミョンの境界地点にある。」(オーマイ・ニュース・ブログ)
 また、別のホームページには、墓地に立てられている碑とともに
 「京畿道 パジュ市 パピョンミョン タプコン サン55番地」
 という住所が記してあった。
 パジュ市 パピョンミョン タプコンとは、どこにあるのだろうか。

韓国のサイトを検索してみたところ、情報はあるのだが場所がわからない

《注》〈すでにこの年には、地図検索サービスの naver map や daum map が始まっていたようだが、場所を特定できた記憶がない。私の情報検索能力が劣っていたのかも知れない。また、当時はこの墓地については、地図に掲載されていなかったのかも知れない〉

地図と時刻表で

 翌年2008年7月。韓国旅行の日が訪れた。
 ソウルに到着すると、その日のうちに、市内の大型書店で、最新の道路地図と時刻表を購入した。

『全国道路地図』(現代地図文化社)《注》〈すでに出版社は廃業〉

 『全国道路地図』(現代地図文化社)を開いてみる。目的地はソウルから北に50kmほど離れたところだ。地図には、京畿道パジュ市パピョンミョンという区域がある。この中に、ジャンパ(장파리)・タプコン(답곡리)・ジャンジャ(장자리)等の区域がある。横を臨津江(イムジンガン 임진강)が流れていて、この辺りだと臨津江から5kmほど離れて非武装地帯がある。

この中のどこかに墓地はあるはずなのだが
(この地図の範囲外、南側にパサンソウォンという旧跡と郵便局がある)
(中央にある太い赤い点線の道路は、工事中とあるがすでに完成していた)

 タプコン(답곡리)という地名が見つかった。これで墓はここにあることまでは分かった。
 ソウルから行く方法を考えてみた。タプコン里にいちばん近い鉄道の駅は「汶山(ムンサン)」だ。近いと言っても駅からタプコン里までは10km以上離れてはいるのだが。
 『月刊観光交通時刻表』(鉄道旅行文化社)で路線を調べると、ソウル-汶山をつないでいるのは京義線だ。
 ソウル駅から京義線は午前5時50分を始発に、毎時50分に出ている。終電だけは午後10時45分に出ている。
 京義線に乗って「汶山」で降りる。そこから先は、次の手を探すしかない。

『月刊観光交通時刻表』《注》〈2012年7月以降、出版されていない〉
京義線の時刻

《注》〈当時は「ムンサン駅」の「ムンサン」は「汶山」という漢字表記だった。現在は漢字では「文山」と表記する。「斗山百科 doopedia」の説明によると、「汶山」という地名は西海の満ち潮が臨津江をさかのぼる時に泥水になるということに由来していたのだが、1990年代以後、大きな水害に遭った住民の要請により2014年6月に漢字地名を「文山」に変更した、とのことである。それに伴い、2022年に駅名も「文山駅」になった。〉

京義線に乗る

 2008年7月29日。
 朝8時50分、ソウル発の電車に乗った。

ソウル駅で電車に乗る

 「通勤」と呼ばれる電車で、座席指定なしで乗ることができる。ソウルをぬけでた電車は、京畿道高陽市に人る。
 ソウルの過密から、ソウルの衛星圏に住まいを求める人が増えている。高陽市はソウルより北にあり、北朝鮮に近づく位置になるが、近年人気が高いようだ。地下鉄 3号線が高陽市一山区まで入っていて交通の便も良い。
 途中、いくつかの駅では、駅舎の工事をしているところがあった。人ロ増加に伴い駅舎を大きくしょうとしているのか、将来にそなえて駅構内の線路を増やしているのか、と想像した。
《注》〈「電車」と書いたが、このときはディーゼル車が走っていたのではないかと思う。翌2009年にソウル駅~汶山駅間が電化されているようだ。工事は、電化のためでもあったかもしれない。〉
 ソウルを出発して1時間を過ぎると、「坡州」「汶山」「臨津江」というような、非武装地帯に近い駅が現れる。

汶山駅に着く

 10時過ぎ、電車は汶山駅に着いた。端のホームには軍用トラックを何台も載せた貨物列車が停まっていた。

汶山駅ホーム
汶山駅 駅舎

 駅の建物を出ると、駅前の道の向こうに町並みが広がっていた。
 汶山市内の高層アパートは、北側には小さな窓が設置されている。この窓の機能を、以前テレビの情報番組で見たことがある。それによると、北朝鮮と戦闘になった時、アパー卜の建物自体が北の侵入を防ぐ壁となると同時に、韓国兵が建物内から小さな窓で自分を守りながら発砲できるように作られているのだそうだ。
 駅前に観光案内図があったので、何かの役に立つかも知れないと思い写真に撮った。
 さて、どこに行ったらよいのか。
 駅から出て来た婦人に歩み寄って、私は地図を広げた。タプコン里を指で示しながら、
 「ここに行きたいのですが、どう行ったら良いですか?」
 と尋ねた。
 「そこに行くバスはないと思います。でも、その方面に行くバスはあります」
 と言って、婦人はバス・ターミナルのある方向を教えてくれた。私は礼を言って歩き始めた。町の中の通りを歩いているうちに、バス・ターミナルの方向を見失ったので、歩いていた少女に尋ねた。
 商店が連なるにぎやかな通りにバス・ターミナルはあった。奥にバスが待機していて、通りに面したところに数ヶ所の乗車場があった。

バスに乗る

 タプコン里に行くには、どのバスに乗ったら良いのか。
 バスの待機場所の脇に運転手の休憩所があり、その前で3、4人の運転手が談笑していたので近寄って行った。
 「このタプコン里に行きたいのですが、どう行ったらいいですか」
 運転手たちは話をやめて、私の差し出した地図を眺め、タプコン里がどこであるか位置を確かめていた。
 「ここに行くバスはないな」
 私も漠然とタプコン里に行きたいと聞いているだけで、この1点という場所を指し示すことができない。
 地図を見ると、タプコン里の近くに、パサンソウォン(파산서원)という旧跡と郵便局がある。(上掲の地図ではスキャンした範囲外の南側にあるため載っていない)
 「このパサンソウォンというところに行くバスはありますか。ここでタクシーを拾いますから」
 「そこに行ってもタクシーはないよ」
 運転手たちは皆、否定的な話をした。
 「ジャンパ里だな。ジャンパ里にならバスは行くよ。ほら、あのバスだ。あれに乗りなさい」
 ちょうど乗車場に1台のバスが入って来ていた。私は礼を言って、バスのところまで走り、かけ込んだ。運転手に地図を見せ、
 「タプコン里というところに行きたいんですが、そこにいちばん近いところに着いたら教えてください」
 と頼んだ。
 「タプコン里なんてところ知らないな」
 「この近くでいいんです」
 私は地図を指で示した。
 バスは動き始めた。地図で見ると、汶山からタプコン里までは10kmはある。しばらくは時間がかかりそうだ。
 座席はすべて乗客でふさがっていた。私は連転手席の少し後ろの位置に立っていた。
 走り始めてすぐに、運転手は近くにいた婦人と話をしていて、その会話の中に「タプコン里」という言葉が何度も登場していることに気がついた。どうやらタプコン里の場所を婦人が知っているようだった。
 立って乗っていたので、窓の外の景色はよく見えなかったが、道路のところどころには敵の戦車の侵入を防ぐための仕組みがあるのが見えた。30分ほどバスに揺られていただろうか。
 運転手が突然、「おーい、こっちに来い」と手を挙げて振りながら大声で何度か叫んだ。私を呼んでいることにすぐ気づいた。
 私は運転手のところに近づいた。
 運転手はバスを停めた。バスは大きな交差点に入って右折したところに停まっていた。
 運転手は交差点の左方向を指差しながら、
 「あの道を進むとタプコン里だ。ここで降りなさい」
 と教えてくれた。ここは交差点を右折したばかりの場所で、まだ交差点内であり、停留所ではない。私のためにバスを停めてくれたようだった。
 私は礼を言って、バスを降りた。

バスを降りたジャンパサゴリ(장파사거리 ジャンパ交差点)

墓地はどこだ

 交差点には「장파사거리」(ジャンパサゴリ 「ジャンパ交差点」という意味)と表示があった。手元の地図と照らし合わせてみると、バスと同じ右折方向に進むとジャンパ里へ、直進方向にあたる広くて新しい道路はタプコン里へ、運転手が指差した左方向にのびる道は地方道324号線でタプコン里へ続いていることがわかる。さらに広くて新しい道路と324号線の間にも道があり、これもタプコン里に続いている。三つの道路がタプコン里に続いていて、違うのは経由地だけだ。
 「”北韓軍・中国軍”墓地はパピョン面とチョクソン面の境界地点にある」
 という記述、それから途中で道を尋ねる必要が出たときのためには少しでも家がある道に進んだ方がよいだろうという判断から、広い道と324号の間にのびる道を進んでみることにした。
《注》〈以下に掲載している地図は、kakao map を使用している。naver map、google map を確認したところ、このエリアの地図では kakao map がもっとも詳しかったため〉 

最初に歩いて行った道

 この道を進んだからと言って、この道路沿いに墓があるのかどうかわからないのだが。
 道沿いに家があると言っても、集落と呼べるように家があるのではなかった。農業用の倉庫のような建物が100m間隔に1ヶ所あるようなもので、ほとんど人家はない。道の右には水田が広がっていた。通りを歩いている人もいない。
 7月29日の昼に近い時刻だ。ザックにつけた小さな温度計は30度に近い温度をさしていた。初めて訪れた土地で、何の見当もないまま歩いていることは、ひよっとしたら全く無駄な結果に終わることかも知れなかった。
 1つのヒントは、インターネットのサイトからプリントアウトした記事中の写真だった。そこには黄色く色づいた稲穂の彼方にある小山が写っていて、その山肌に墓地が写っている。
 もしも今歩いている道で間違いなければ、右に広がる水田の彼方に小山があり、そこに墓地があることになる。
 目をこらして水田の彼方を見ながら歩いたが、同じ姿の小山は現れてこなかった。

墓地への遠い道

 他にヒントはないかと、写真をよく見た。小山に生えている木に特徴があった。小山の上に特に大きく目立つ木が生えていた。
 木の姿を目印に水田の彼方を見ながら歩いた。木の枝や葉の茂り方も成長とともに変わるので、同じものがあるのかどうか。
 あそこに見えている木は、ちょっと大きいようにも見えるが……、そんな感想の木があった。それを見ながらさらに歩いていくと、白い碑のようなものも小さく見えてきた。墓標の白い角棒も林立しているのが小さく見える。
 あった。見つかった。

墓地らしいものがあった
小山に注意しながら歩いた
白い碑のようなものがあり、墓標の白い角棒が林立している

私はうろつくあやしい男

 私は先ず、今いる場所から写真を撮った。
 水田の中をその小山に向かって、ちょうど軽トラックが一台走れるほどの幅の道が続いている。私は小山の方に進んだ。石碑や墓標が大きく見えてくる。

墓地は歩いている道よりも高い位置にある

 道を進んで行き、小山に登れると思っていたら、水田と小山の間には川が流れていて渡ることができない。川のどちらが上流でどちらが下流かもわからないほど、草が茂っている。土手を歩いて上流か下流のどちらかに行けば橋がかかっているのではないかと歩いたが、生い茂る草のため土手を歩くことができない。
 もう1本となりの道ならば行けるのではないかと、一旦もとの道に戻り、北上して、次の道を小山に向かって歩いていったが、やはり小山に行くことができない。
 行けないようにしてあるのだろうか、と不安になった。
 さらに遠回りをすれば、きっと小山にたどりつけるのではないか。私はさらに北側の道を小山の方に向かって歩いた。その道はゆるやかにカーブをして、広い道路に合流した。
《注》〈のちにわかることだが、この墓地の入り口は、下の地図でいうと、墓地の下=南に隣接する黄土色の広い道路側にある。ところが、私は北側にあると思い込んでいたため、一旦、広い道路に入りながら、墓地の入り口より手前で広い道路を外れていくのである。〉
 もしも田の中の道を進んでいて橋がかかっていたら渡って着いたであろう場所に、反対側から回り込もうと考えたのである。ところが広い道路から降りていく道がない。
 私は広い道路の端にあつまる雨水を流し落とすセギ脇を歩いて降りた。
 目的地に迫っている感覚があった。案の定、川を渡った側にたどり着いた。土手を歩いて墓地の方へ迫ったが、やがてひどい藪に行く手をさえぎられた。
 藪をかきわけて畑に入り込み、畑の中を歩いたが、墓地の方向に進もうとすると、また藪で前に進めない。鋸か鉈か鎌で藪を刈らないと、藪の中の地表がどうなっているのかも分からず、迂闊に足を踏み入れられない。
 あきらめて畑の中をもとに戻った。前日までの雨の影響か、畑の中はところどころひどく糠っていて、靴にたくさん泥が付いた。

ついに墓地に着いた

 もし遠くから私を見ている人がいたら、さぞかし怪しい人間に見えていることであろう。ディパックを背負い、田の中の道を行ったり来たりした上、川の土手を歩けるところまで行っては引き返し、畑の中も歩き回り、さらに広い道路からはセギ伝いに降りたりと。
 再び私はセギ伝いに登って、広い道に戻った。
 残る可能性は、この広い道から案外墓地に行く道路があるかも知れないということだ。道を探してみることにした。
 道路脇を歩いて行くと、墓地の裏側に相当する辺りに、墓地に入って行けるような方向に伸びている道を発見した。乗用車が一台通れるくらいの幅だ。
 そのまま入って行くと、目の前に墓標の上の部分が見えた。今、墓地の入り口なのだ。
 さらに進んで行くと、墓地の前に出た。
 ついに着いた。
《注》〈デジタル・カメラの写真データの撮影情報で確認すると、遠くに墓地を見つけたのが11:30ころ。そのあと墓地にたどりつくために、あの道この道、上り下り、行ったり来たりで1時間が費やされていた。〉

ところが

 墓地に入ると目に前に看板が立っていて、次のように書かれていた。

 「警告文
 この地域は軍事施設保護区域であるので、無断出入および写真撮影を禁ずる。
 違反時、軍事施設保護法によって処罰されるので、業務上の出入・必要時、事前に協調を願います。
 連絡処:(〇〇〇)〇〇〇—〇〇〇〇
      陸軍第〇〇〇〇部隊長」

 私はびっくりした。
 無断で出入りをする気持ちは、これっぽっちもないのである。ただ墓を見てみたいという気持ちだけでここまで来たのである。
 来てしまったら、無断出入りをすることを禁ずるとかかれてあっても、すでに手遅れである。
 こっそり墓地の中に足を踏み入れ、写真を撮りたいという気持ちがわいたが、安易に法をおかすことはできない。
 我慢してその場を去った。
 すでに私がこの一帯でしていた行為はじゅうぶんに怪しく、目撃者がいたら通報され、尋問をされてもおかしくないくらいだ。
 私は今度はせぎ沿いや草むらの中ではなく、ふつうの道を通って広い道をはなれ、もと来た道にもどった。
 田んぼの彼方に墓地が見えていた。
 反対の方向、山々の遠くからは、何か砲を撃つドーンという音が聞こえていた。”北”に近いところで、軍事訓練が行われているのだろうか。

もっとも簡単な道

 行ったり来たりしてやっとたどりついた墓地。
 とぼしい情報をもとに、何とか見つかった。
 もっとも簡単な道は、ジャンパサゴリから、広い道を歩いて行けば、左側に墓地がある、ということが分かった。

田んぼの中の道から望遠レンズで撮影

バス停はジャンパサゴリの近くに

 再びジャンパサゴリ(ジャンパ交差点)まで戻った。
 東に進むと家が軒を連ねていて、店もある。
 店に入ってアイスクリームを買い、バスの停留所がどこにあるかを尋ねた。
 「あそこだよ」
 ジャンパ1洞という停留所があった。《注》〈現在はジャンパ1里〉
 バスを待っていたおばさんに、汶山のバス・夕—ミナル行きのバスが来るのか聞いたら、おばさんもそこに行くと言う。
 バスに座ることができたので、窓から外がよく見えた。
 臨津江に沿ってバスは汶山に向かい走っていく。
 川沿いに鉄条網がのびていた。

追記

・朝鮮戦争の死者数は、資料によって違いがあるが、Web の コトバンクで、『日本大百科全書(ニッポニカ) 』の「朝鮮戦争」の項を見ると、
「この戦争での交戦双方の被害は甚大で、国連・韓国軍側の戦死者は韓国軍約42万人、米軍約5万人、その他の国連軍約3000人、ほかに韓国民間人106万余人といわれ、朝・中側は軍要員の死傷者だけで200万人以上と推定される。」と説明がある。
・最近の墓地のようすをインターネットで調べてみた。NAVER で「북한군묘지」(北韓軍墓地)と入力し、イメージ(이미지)を見ると、最近のようすがわかる。
 それを見ると、最近の墓地のようすは、私が訪ねた2008年のときとは違い、整備されていて、木製の墓標は石のものに変わっている。また、入り口には案内図や説明板が設置されている。説明板には、次のように書かれている。

北韓軍墓地
 ここは6.25戦争 1950.6.25.~1953.7.27. に戦死した北韓軍と中国軍の遺体、6.25戦争以後に収拾された北韓軍の遺体を埋葬した墓地である。
 大韓民国政府はジュネーブ協約と人道主義精神により1996年6月に墓地を造成し、総面積は6,099㎡で1墓域と2墓域に区分されている。
 2墓域に埋葬されていた中国軍遺骨541体は、計3回にわたり 2014.3.28.~2016.3.31. に本国に送還された。

北韓軍墓地の説明板

 案内図や説明板があるところを見ると、「無断出入りを禁ず」ということではなくなったようにも思える。詳細は、次に韓国を訪ねたときに、実際に行って確かめたい。


 北朝鮮は、兵士の遺体の引き取りを拒否しているという話を聞いたことがある。戦死して、引き取られることもなく土の中に眠り、家族のもとにも帰ることができない兵士の亡骸。その魂は、何を思っているのだろうか。


地図(naver mapへのリンク)

・北韓軍墓地(北朝鮮軍墓地)「북한군묘지」

naver map で「북한군묘지」(北韓軍墓地)までのルートを検索すると、バス停留所では「장파1리」(ジャンパ1リ)が最寄りの停留所になる。


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