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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】非武装地帯の「弓裔都城」・鉄原

初稿:2024.05.17
更新:2024.05.17

(この記事は 7,237文字です)


見ることができない場所

 【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】というシリーズで記事を書いている。
 今回は、〈非武装地帯の「弓裔都城」・鉄原〉という内容になる。「都城」という名前から、漢陽都城のような城を想像されるかも知れない。
 ところが、この記事を読んでも城の実際の姿を知ることはできない。その場所にあるのだろう、と想像することはできるが、実際に行くことはできない。
 なぜならそれは、北朝鮮との間の非武装地帯の中にあるからだ。

弓裔都城の存在を知る

 江原道の鉄原郡には2度行ったことがある。
 1度目は2004年で、2度目は2014年のことだ。
 2004年の旅の時、鉄原に行くために鉄道の京元線に乗った。終点が「新炭里駅」。そこで下車すると、駅前に安保観光を専門とする小さな旅行会社があって、その会社のマイクロバスに乗って、鉄原郡に残っている朝鮮戦争の戦跡や北朝鮮側を見ることができる場所を訪ねることができた。そういうツアーのことを「安保観光」とか「DMZ観光」と呼んでいる。DMZとは、demilitarized zone の略で「非武装地帯」を意味している。新炭里駅前の旅行会社は、その後、廃業しているので今はない。
 この1度目の旅の記録ノートを今回、この記事を書くにあたって見直したところ、ほとんど記録が書いてなかった。ただ、「弓裔都城」という言葉と都城の簡単な形だけはメモしてあった。都城を横切る軍事分界線も書き込まれている。ツアー中のどこかで、「弓裔都城」のことを知ったようだ。メモはされていないが、それはかつての都の跡だということも知った。

「弓裔都城」を見たい

 2014年に、もう一度、鉄原に行った。
 それには理由がある。
 京元線の終点だった「新炭里駅」(シンタルリヨク 신탄리역)の先、非武装地帯に近づく方に新しく「白馬高地駅」(ペンマゴジヨク 백마고지역)ができて、2012年11月に開業した。
 そのことを知って、「白馬高地駅」に行ってみたいと思ったのである。
 さらに情報をあつめてみると、「白馬高地駅」の前からDMZツアーのバスが出ているということがわかったので、そのツアーにも参加してみたいと思った。ツアーで、「弓裔都城」を見ることができないだろうか、ということも目的としてあった。

 「弓裔都城」(クンイェドソン 궁예도성)について簡単に説明しておきたい。
 「弓裔都城」の「弓裔」(クンイェ 궁예)とは、朝鮮半島における後三国時代、後高句麗を建国した人物である。
 統一新羅が混乱し衰える中、新羅の王子の一人であった弓裔は、反乱を起こし高句麗の復興を唱えて、901年に後高句麗を建国し、自らを王と称した。国家体制を整え、勢力を拡大し、領土は朝鮮の2/3を占めたときもあった。
 904年には国号を摩震(マジン 마진)に改め、911年には国号を泰封(テボン 태봉)に改めた。泰封に改めてから、自らを弥勒仏と称し神格化して、専制政治をおこなっていった。横暴をきわめる弓裔に対し、918年に部下たちは王建(ワンゴン 왕건)を王に推し、弓裔を王の座から追い出す。逃れた弓裔は、隠れていたところを民に殺される。
 「弓裔都城」は、弓裔が905年に都を鉄原に移してから、918年に王位を奪われるまで使われた都城である。

「白馬高地駅」をめざす

 2014年12月に3泊4日で韓国を訪ねることになったとき、旅行2日目の12月26日に「白馬高地駅」に行くことにした。
 (というわけで、ここに書いている内容は、2014年12月の時点での記録である。あれから10年が経ち、ようすは変わっていることだろう。そのことをご理解のうえ、お読みいただきたい)。
 地下鉄1号線で「東豆川駅」(トンドゥチョンニョク 동두천역)まで行き、そこから京元線(キョンウォンソン 경원선)に乗り換えるという経路になる。
 ホテルを出て最寄りの「鐘路3街駅」(チョンノサムガヨク 종로3가역)から午前7:53発の地下鉄に乗る。
 午前8:43、途中の「楊州駅(ヤンジュヨク 양주역)」を過ぎたあたりから日陰に積もった雪が目立つようになってきた。12月26日だ。何度か雪が降ったのだろう。
 終点の「東豆川駅」には午前8:57に着いた。
 「東豆川駅」では一旦、改札を出て、窓口に行く。「東豆川駅」から「白馬高地駅」までの「通勤列車」の切符を買う。
 「東豆川駅」午前9:30分発の列車に乗る。北に向かうほどに、車窓からは、うっすらと積もった雪と、いくつもの軍の施設が見える。
 かつての終点「新炭里駅」の次が、新しい終点「白馬高地駅」だ。「新炭里駅」につくと、次が「白馬高地駅」であることが表示されていた。

新炭里駅

 午前10:25、終点の「白馬高地駅」につく。ホームの北端には、表示板が立っていて、「철도중단점 철마는 달리고 싶다」(鉄道中断点 鉄馬は走りたい)と書かれている。実際、線路はそこで途切れている。

白馬高地駅「鉄道中断点 鉄馬は走りたい」

DMZツアー

 ホームで写真を撮っている間に他の客は真新しい駅舎を出てしまい、私は最後に出ることになった。

白馬高地駅

 駅前には「鉄原観光案内所」と看板が出ている建物があり、その近くにはバスが1台止まっていた。バスの近くには、男性運転手と女性添乗職員がいた。バスのツアーは午前10:40に出発する予定だ。

 建物のチケット売り場の窓口前には、すでに韓国人男性老人のグループ6人と男性欧米人(と思われる人)1人が来ていて、老人グループは窓口の女性職員と何やらもめている。

 案内板の説明を読むと、客が10人以上いない場合にはバスが出ない、ということだ。最少催行人数10人だ。午前10:40分のバスが出ないと、次は午後1:30のツアーになる。それまで待つわけにもいかない。客は男性老人グループ6人、男性欧米人(と思われる人)1人、そして私なので、合わせて8人しかいない。あと2人必要だ。
 老人グループの人たちは、困ったなぁ、というようなことを言いながら、人数を数えなおす。「お、まだ、客がいるじゃないか」
 「私はバスの運転手ですよ」
 また、数える。
 「お、娘さんも乗るんだろ?」
 「私は職員ですよ」と言って女性添乗職員が、「もう今の列車からは誰も降りて来ないし、困ったわね」と暗い表情をした。
 私も困った。2時間以上の時間を費やしてここまで来たら、予定していたバスが出ないというのだから。しかし、韓国は自己主張の国だ。きっと、老人グループの人たちは、自己主張をし、折り合いをつけ、どうにかするはずだ。それに、敬老精神のあふれた韓国では、老人は強い。何とかなるはずだ。
 あれこれ話が飛び交った末、解決策として、老人はバス賃は本来1人6000ウォンなのだが、2000ウォン上乗せして8000ウォン払うことでバスは出ることになった。私と男性欧米人(と思われる人)1人は本来の8000ウォンだ。やはり、どうにかなった。
 ツアーには、このほかにモノレール代が必要になる。
 もめていたためバスは10分遅れて10:50に出発した。
 バスの中では女性添乗職員が、途切れなくしゃべり続けて説明をしてくれた。私の韓国語の実力では、ほとんど理解ができなかった。

モノレールカーに乗って

 最初の見学地は「鉄原平和展望台」。
 到着すると、展望台行きのモノレールカーの乗り場がある。
 モノレールカーの中からは外がよく見えた。展望台に向かいながら北朝鮮の方も見ることができた。

モノレールカー乗り場
モノレールカーが降りてきた
大きな窓から外がよく見える

「鉄原平和展望台」

 モノレールカーを降りると、展望台の建物がある。

鉄原平和展望台

 2階の展望室から、北朝鮮側を見ることができる。
 この展望室から見える北朝鮮側の写真を撮ることは禁止されているため、写真はない。
 展望室内には、ここ一帯の状況を説明するためのジオラマがある。
 女性添乗職員が、抑揚たっぷりの韓国語で説明をしてくれるのだが、私の韓国語の実力では100%は理解ができない。
 ところどころ聞き取れる内容からすると、朝鮮戦争のこと、非武装地帯のこと、などいろいろな説明をしてくれているようである。
 少しは理解できた話の内容と、ジオラマの説明を見てわかったことは、非武装地帯の中に「弓裔都城」の遺跡が残っているということだ。(悲しいことに、理解できた内容があまりにも乏しい)。 

ジオラマの「弓裔都城」部分

 このジオラマの写真の上に、若干の説明を書き込んでみると、下図のようになる。

 今いる場所が、「鉄原平和展望台」。
 中央で、太い赤線で四角く囲った中が、「弓裔都城」の跡だ。「弓裔都城」には、外と内2つの城壁が見えるが、外側の城壁が「外城がいじょう」、内側の城壁が「内城ないじょう」である。
 「南側哨所」というのは、韓国側の歩哨がいるところである。
 横に走っている細く赤い3本の線のうち、真ん中の線が「軍事分界線」で、南北を分けている境界である。残る2本の線は、「軍事分界線」から、南北それぞれに2km離れたところにある「南方限界線」と「北方限界線」。「南方限界線」と「北方限界線」にはさまれた、4kmの幅が「非武装地帯」である。さらに、この外側には、「民間人統制線(民統線)」という、民間人の出入りが制限されたエリアがある。
 今いる「鉄原平和展望台」は、南方限界線のぎりぎりに建てられていることがわかる。すぐ目の前が「非武装地帯」だ。
 このジオラマを見ると、「弓裔都城」は非武装地帯の中にあり、内城は北朝鮮側にあることがわかる。

あそこが「弓裔都城」なのか

 「鉄原平和展望台」の建物を出てから、北朝鮮側を見てみた。
 展望室内から北朝鮮側の写真を撮影することは禁じられている。建物の外からも北朝鮮側が見えるのだが、ここからの撮影が禁止されているという表示はなかった。
 しかし、韓国側の哨所が見えることもあり、撮影は控えた方がよさそうだ。
  北朝鮮側を眺めながら、近くにいた女性添乗職員に「弓裔都城」のことを聞いてみた。
 彼女の説明では、南側哨所のあるところが弓裔都城だが、建物は戦争のためになくなってしまっていて、土塁だけが残っている、ということだった。
 ジオラマを参考にすると、「南側哨所」のすぐ向こうに「弓裔都城」の内城があることになる。
 森林と草原で覆われた場所であり、哨所のほかに目立つ人工物は見出すことはできない。
 弓裔が後高句麗を建国し、905年から918年の間、過ごした都城は、人が近づくことができない場所に、その跡を残している。
 目の前の風景を見ながら、頭の中で「弓裔都城」を想像してみるだけである。

第2トンネルへ

 「鉄原平和展望台」を後にしたバスは、「第2トンネル」に向かう。
 第2トンネルは、北朝鮮が韓国に侵攻するために掘削したトンネルで、1975年に発見された。
 全長は3.5kmで、軍事分界線から北朝鮮側には2.4km、韓国側には1.1kmの長さになる。見学できるのは韓国側の500mの区間だ。もちろん軍事分界線の位置まで行くことはできない。
 このようなトンネルはいくつも発見されていて、「南侵(用)トンネル」と呼ばれている。
 「第2トンネル」は、哨兵が地中からの爆発音を聞き、トンネルを掘削している音とではないかと判断し、ボーリング調査が開始され、発見された。北朝鮮は韓国側の探査を遅らせるためにトンネル内に遮断壁を設置し、そこに爆弾を仕かけて撤収する。遮断壁を撤去する作業をしているときに、仕掛けられていた爆弾が爆発し、韓国軍将兵8人が爆死した。

貸与されたヘルメットをかぶり、トンネル内を進む
トンネルを発見するためのボーリングの穴の跡
北朝鮮が設置した遮断壁のあったところ
トンネルが発見されたことにより北朝鮮が掘削を中断した分岐坑

 このほかトンネル内には、掘削作業をおこなった北朝鮮の作業員が食事や睡眠をとった広場も残っている。
 第2トンネル併設の展示館では、トンネル掘削に使用された道具や、北朝鮮兵士の武器などが展示されている。

使用された道具

月井里駅

 次に訪れたところは「月井里駅」(ウォルジョンニヨク 월정리역)。
 月井里駅は京元線の駅であったが、朝鮮戦争により廃駅となった。非武装地帯の中にあったため、現在の位置に移築復元したものである。同じく非武装地帯に残されていた列車も保存されている。

月井里駅
看板には「鉄馬は走りたい!」と書かれている
列車の残骸

 「月井里駅」の周辺は、警備や監視が特に厳しい印象を受けた。
 「月井里駅」のすぐ横には銃を持った兵士が2人いて、観光客(主に家族旅行)が北にカメラを向けて撮ろうとすると、その都度、注意をしていた。

保存されている戦争遺跡

 鉄原一帯は「鉄の三角地帯」と呼ばれる戦略上の重要地帯であり、朝鮮戦争のときに激戦が続いた場所でもある。
 戦争によって廃墟となった建物が、いくつも点在している。
 今回のツアーでは、車窓から眺める見学になった。そのため、建物の場所によってはバスがすぐに通り過ぎてしまう。建物のすぐ脇から丁寧に見ることはできなかった。車窓から撮った2つの建物の写真だけ紹介する。
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 「鉄原 第2金融組合」(チョルウォン チェイグムンジョハプ 철원 제2금융조합)の建物の残骸。

鉄原第2金融組合の建物の跡

 日本の植民地時代の建物で、当時の建築材料や建築技法がわかる点から、「国家登録文化財」に指定されている。
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 「鉄原農産物検査所」(チョルウォン ノンサンムルゴムサソ 철원 농산물검사소)。この建物も、日本植民地時代のもので、「国家登録文化財」に指定されている。

鉄原農産物検査所

 1945年8月15日以降は、共産党の検察庁の建物として使用され、反共思想をもった者の捜索、逮捕などが行われた。

労働党舎

 バスで回っているここ一帯は田園地帯だ。そのため、地上3階建ての「労働党舎」(ノドンダンサ 노동당사)の廃墟は、周りの風景の中で、異様なものに感じられた。

鉄原労働党舎

建物の脇には、説明板が建てられている。

「鉄原労働党舎
登録文化財第22号
 この建物は、1945年8月15日の解放後、北朝鮮が共産独裁政権の強化と住民統制を目的に建設し、6.25戦争前まで使用された北韓労働党鉄原郡党舎として悪名をとどろかせた場所だ。
 北韓はこの建物を建てる時、寄付金という口実で1里当たり米200俵ずつ搾取し、人材と装備を強制動員する一方、建物の内部作業の時は秘密維持のために共産党員以外には動員しなかったという。
 セメントとレンガ積みだけで建てられた無鉄筋3階建ての建物で、当時この建物一帯は人口3万人が暮らしていた鉄原邑の市街地だったが、6.25戦争で全て破壊され、唯一労働党舎の建物だけが残っている。 あちこちに砲弾の跡とやせた骨組みだけが残っている労働党舎は、6.25戦争の痛みと悲劇を最もよく表している代表的な建物だ。鉄原がどれほど熾烈な激戦地だったのか見当がつく。
 共産治下5年(1945~1950)の間、北韓はここで鉄原、金華、平岡、抱川一帯を管掌しながら良民収奪と愛国人士を逮捕し、拷問と虐殺など身の毛がよだつ蛮行を数えきれないほど、やりたいままに行い、ここに一度引きずられて入ると死体になったり瀕死の状態になって出てくるほど無慈悲な殺戮を犯したところだ。
 この建物の裏の防空壕では、多くの人骨とともに蛮行に使われた数多くの実弾や針金などが発見された。
 2002年5月27日、近代文化遺産登録文化財第22号に指定し、管理している。」

労働党舎の説明板

 今回のバス・ツアーでは、労働党舎の見学も車窓からのものだった。
 そのため、説明板の内容については、インターネットより入手している。
 2004年に鉄原のDMZツアーに参加したときには、労働党舎の前でマイクロバスを降り、与えられた時間の間、建物に自由に近づいて見ることができた。
 以下の4枚の写真は、2004年7月に撮影したものである。フィルムカメラで撮影し印画したものなので、やや色あせている。

労働党舎(2004年)
労働党舎(2004年)
労働党舎(2004年)
労働党舎の内部(2004年)

 バスがふたたび「白馬高地駅」前にもどってきたときは、13:10頃。
 「白馬高地」発のソウル方面に向かう列車は、13:30だった。駅前には食堂のようなものがなかったので、昼食をとらないままソウルに戻った。

 「白馬高地駅」「鉄原」は、ソウル中心部からだと片道2時間から2時間半ほどかかるが、日帰りで行ってくることが可能だ。
 「弓裔都城」の実際の遺跡は見ることはできないが、あそこにある、ということを知ることができる。
 非武装地帯のようす、南侵トンネル、残骸となった建物や列車、労働党舎など、朝鮮戦争や南北対立に関係した多くのものを見ることができる。


 見学先が「民間人統制線(民統線)」内にあるため、個人で自由に訪ねることはできない。日本人が個人で行く場合には、DMZツアーに参加することがよい方法だろう。
 鉄原のDMZツアーは、インターネットで検索すると、日本国内のいくつかの旅行会社で取り扱っているようである。
 また、鉄原郡庁の文化観光ホームページ(「철원군청 문화관광」 で検索)にも、紹介がある。 
 ここでは、どこかのツアーを推薦することはできないので、十分に情報を集めて鉄原を訪ねていただきたい。


地図(naver mapへのリンク)

・白馬高地駅

・鉄原平和展望台

・弓裔都城跡

・第2トンネル(鉄原)

・月井里駅

・労働党舎




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