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「家庭は牢獄ではありません。家庭こそ自由の国です」

 「一家総動員」という言葉を聞くと、何やら物々しい感じを受けますが、今から90年ほど前の時代を生きた羽仁もと子は、憧れの言葉だと語っています。
 要は、家族みんながそれぞれの仕事や役割を持って、家庭生活を営むということでしょう。みなさんの家庭では、いかがでしょうか?
 「自分を他人ひとを道具扱いにすることから、この人生のありとあらゆる不幸や悲しみが出ています」と、羽仁もと子が言うように、親を家族の面倒を見る道具のように見てしまったり、自分の夢を子どもに託すと称して、子どもを道具扱いしてしまうなど、家族であるからこそ生まれてしまう悲劇もあります。
 「一家総動員」のできる家庭は、同じ夢や目標を持つ同志、仲間とも言えるでしょう。理想的で健全な家庭運営について、著作の中でもと子は以下のように記しています。

一家総動員
 家中の人がみんな朝早く起きる。そして一緒に働いて一緒に食事をする。する仕事は違っても、同じこころざしを持って、外に出るもの家の中にのこるもの、共にそれぞれの仕事につく。仕事が済んでまた集まる時には、各々親しい同志の前に、本気な報告の出来ることを楽しみ、平和な家に、よき祈りよきいこいの夜を与えられ、共にまた希望の朝々を迎え得ることを、本当の一家総動員というのでしょう。こういう家にあっては、幼児もまた一人の立派な人格であり同志であります。弱者、手足まとい、可愛いおもちゃなどでなく、ひとり彼らの将来ばかりでなく、今日現在その家に、大いなる特色ある立場を与えられている同志であります。
 こういう風にお互いに信頼と尊敬をもって深く結びついている家庭生活を、だれが欲しくないという人があるでしょう。不必要だと思う人があるでしょう。しかし実際完全にそう出来上がっている家はないばかりでなく、それに似寄った状態にまで行っている家も少ないのかもしれません。そうしてかえって家庭桎梏しっこくの声が高くなってゆくのを、どうしたらよいでしょう。
 今まで世の中を過ごして来た私の狭い視野の中でも、いろいろの人が家が興ったり倒れたりしました。それでこのごろ私にも少しずつ、人というもの人の家というものが分かりかけて来たような気がしています。
 人格というような漠然たるものは認められるの認められないのといったりします。しかし、人と人の世を深く見れば見るほど、自他の「人格」と称すべき争われないものの厳然たる存在の前に、自然に頭の下がる気がします。
 そこまで人間を見ないでいると、知らずしらず他人ひとをも自分をも重宝な道具のように使いたくなるのですけれど、そういうことをしたら、決してその「人格」が承知しません。自分がそれでよいつもりでも、「人格」が承知しないのです。罪というのは、自分を他人ひとを道具扱いにすることそれ自身です。そうしてそこから、この人生のありとあらゆる不幸や悲しみが出ています。
〜中略〜
 一家総動員の出来る家庭は、各自に活発な人格を持っていなければなりません。家人各々、おとなも子供も、その人びとの現在としての主義と流儀を持っている人びとの集合体でなくてはなりません。
 無人格は無主義であり、有人格ゆうじんかくはおのずから有主義ゆうしゅぎになります。ただ自分の楽しみを愛し、好みにおぼれ、または自分の事業や研究や名誉やというようなことを中心に、自分をも他人ひとをも家をも用いようとしているならば、たといどれほどの賢さや才能や熱心やを持ってそれをしたところで、それは人格的ではありません。そういう人の人格は弱くて影の薄いものです。
 私たちがたびたび皆様と一緒に考えているように、幼児の時から、厳然たる一人の敬愛すべき人格として取り扱い、親の好みや考えで、その生活を規定してかかることは決してなく、常に幼児自身の欲するところ要求するところを、自由に現わすことが出来るようにしてやって、その正直な要求は、出来得るかぎりその実行を可能に導いてやり、彼ら自身にその生活を創造させ、活きた体験を積ませて行くと、ひとりでにそれらの知識と経験から年齢とし相応そうおうの見識を持ち、従って主張を持つようになり、頭脳あたま身体からだも強く働くようになって行きます。おとなだってその通りです。夫は夫の、妻は妻の考えを常に自由に現わし、またその実行を相互いに妨げないようにして、各自の生活から各自の経験を積んで行くようにしていれば、そこに各々の見識を持った家人が出来、その各々の人格がまた日々かぎりなく成長しつつ、夫婦親子兄弟という結びつきと、その境遇の一つであることのために、親しみ合いつつ自由に結びついて行くようになるものです。
 無邪気な幼児でさえ、自分の要求をたびたび容易たやすく拒否する人に対しては、それは父親でも母親でも、その顔色を見ながら気づかいながら自分の思いをいうものです。ましてそれより大きくなった息子娘や、たとい妻でも夫でも、年をとったものに対して、常に自分の思いばかりをさきにたてて接するようであれば、相手のほうではいいたいことがいいにくくなって、人格萎縮の第一歩をつくって行くことになるのです。
 われわれの人格の揺籃ようらんであり苗代なわしろであり、かつまた落ちつき場であるところの家庭ほど、自由でなくてはならない所はありません。自由というのはもちろん勝手次第に寝たり起きたり、人をこき使ったりしてよい所という意味ではありません。われわれの真面目な要求を通して、われわれの人格の自由に伸びて行くために、自由でなくてはならないのです。
 そうして本当の自由の空気の横溢する家庭には、各人の個性と特色がそれぞれに輝きはじめ、その各々の持つところの主義主張が明らかになればなるほど、そこに当然含まれているところの一にして二にはあらざる真理のために、おのずから共通と一致を現わして来るようになるものです。自由に正直に突きつめて物を考えることをしない人たちは、ちょっと気が合うとじきに仲よくなるようでも、もともとてんでん勝手の立場なのですから、ほんとうに一致するということはないものですけれど、本気に生活して各自意見を持っているほどの人と人とは、互いに思いの異なるところは、これから共に磨きあうべき他山たざんいしとなり、同じ結論に到着している点においては、確実に一つになって行くことが出来るものです。それぞれの見識を持ってそうしてそれを面倒がらずに照らし合わせる親しさと努力を持っている家族、それこそほんとうに融和し得る家族です。
 このようにして表面的でなく、真に互いに尊重し合って融和している家族であれば、おとなが子供をおもちゃにしたり、妻の時間を夫の夜ふかしや朝寝坊のために蹂躙じゅうりんしたりする気にはならなくなるのです。反対に朝は皆で早く起き、それぞれの事情を考え合った立場において、各自その日の生活に必需なる労力の分担をもするようになってゆくのです。そしてこういう簡単な一家総動員が手はじめになって、よき成長をして行けば、広い社会に向かっても、やがて本当の同志として、一家総動員をもって働きかけるような立場に選び出され、実にうれしい家になるものです。一家総動員、私はいつでもこの言葉にあこがれています。
 今までいって来たことを、終わりに一言、裏からいっておきましょう。それは一家総動員ということは、ほんとうによいこと、うらやましいことだからといって、まだ家人各々の心持から、それを理解することが出来ないうちに、たとえば主婦一人の主張から好みから、これを家人に強しいるならば、それはここまで詳しくいって来た本当の一家総動員の精神をかえってこわすことになります。
 どうか早く起きて、皆が無邪気に共に働くというような簡単なことから、さらに本当の奥深い一家総動員にまで、婦人之友を愛読して下さる多くの家庭が、広い世の中に、その力強い足どりを響かせて行くように、勢ぞろいして歩みはじめて行きたいものだと思います。家庭は桎梏しっこくではありません。牢獄ではありません。家庭こそ自由の国です。自由の泉は、まずわれわれの家庭からき出して、全世界全人類をうるおすことが出来るものです。(昭和五年九月)

羽仁もと子著作集 第16巻『みどりごの心』「一家総動員」より抜粋
『婦人之友』1930(昭和5)年10月号。表紙は、山本鼎。

 月刊『婦人之友』の昭和5年10月号では、「家庭総動員」号と銘打って、巻頭「友への手紙」に、今回紹介した「一家総動員」の原文が掲載されています。「家庭総動員」の特集記事では、何人もの生活を実例として掲載。家庭総動員を励行した家族の話や、時間の使い方、買い物の仕方、食事作りと後片付けの時間のこと、夜の暮らし方などが取り上げられています。記事の所々には下のような挿絵もあり、家族みんなが家のことへ興味を向けるための工夫や苦労が見て取れます。

特集「家庭総動員」中の挿絵。以下挿絵の説明文(原文ママ)。
右「ボタンの行方」カラのボタンがない。どうしたろう、早くしないと汽車に間に合わない、家内総動員で探す。このご主人は、家内騒動員である。
左「能率100%」朝の家庭総動員だ。お父さんもお母さんも子供たちも大車輪になってお掃除だ。エス(犬)も負けずに働く働く。

 現在も、家事や家のことは女性が中心である家庭も多いことでしょう。老若男女問わず、自分の家である以上、まずは自分の身の回りのことは自分でやる、そして助け合って生活していこうという気持ちを持つことで、生活の土台となる力が身につきます。

「家庭は桎梏しっこくではありません。牢獄ではありません。家庭こそ自由の国です。自由の泉は、まずわれわれの家庭から湧き出して、全世界全人類をうるおすことが出来るものです。」

 羽仁もと子は、「家庭から社会へ」という言葉も残しています。よき家庭運営は、よき社会を形成していくという思いの中、上記のような文章が生まれました。「全世界全人類をうるおすことが出来るものです」の一文も決して大それたことではなく、もと子の描く家庭運営は、社会を、世界を変える力があると信じていたからこそ生まれた言葉なのでしょう。

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