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JITA・BATA

昨日、午前11時から庭の地面の一部を耕した。
一辺が1mにも満たないほんの少しの小さな四角いスペース。
ゴールとしてはそこを畑にして野菜を育てることだけど
昨日の自分にとって一番大切なのは
たぶんそこじゃなかった。

以前100均で買ったシャベル一つで
硬い地面をふかふかの畑にする。

土を掘って、土の塊を一つ一つ手で潰す。
出てきた石を一つ一つ手でどける。
それをひたすら小石がなくなるまで繰り返す。
約3~4時間。

土が見間違えるほどぷるんぷるんになってきた時、
隣の家の住人が聴いていたラジオから
オフコースの「愛を止めないで」が流れてきた。

「愛を止めないで~そこから逃げないで~」

どかした小石たちが積もった庭の片隅を見て
なんだかそれらがとってもトリュフに見えてきた。
バレンタインかぁ。。。

こじれた自意識のせいで、
たぶんイベント界で一番苦手と言っても過言ではないだろうバレンタイン。
チョコレートを買う為に並ぶ自分の姿も、
チョコレートを作っている自分の姿も、
想像しただけで恥ずかしくてたまらなくなってしまう。
他者を見てそう感じた事なんて一度もないのに・・・
なんならお菓子作りは日頃からわりと好きなのに・・・
まぁ、こじれているのです。

学生時代から、
「好きな人がいたら告白しなくちゃいけない日なんだ!」とか
「誰かにチョコ渡さなくちゃいけないから、好きな人作らなくちゃいけないんだ!」とか
今思えば、ただただ学校社会からはみ出さないようにするための
「〇〇しなくちゃ!」に囚われまくっているだけだったのだけれど
過去の自分を擁護させてもらうとしたら、
そこに疑問を持つことすら自分に許さないようにきつく律して生きていたんだと思う。

ずーっと「普通」になりたかったんだよね。

人と変わっていることや、個性的であることを目指したり憧れる人もいるのだと思うのだけど、
過去の自分はそれと同じように「普通」になることにとても憧れてた。
ダサいと言われても仕方ない。本当にそうだったから。

出る杭は打たれるのだということを
本当にあらゆる方向から受けて育つと、
純粋な子供の心が「普通」を目指したことはきっと自然なことだったはず。
出る杭として打たれたときに、
今度は【人のせいにしてはいけない】という教えが顔を出す。
これはもう、なんだかとっても切なくってたまらない。

大人になった今の私がそばにいたら、
小さな子供時代の私に何を言ってあげるだろう。
…うーん、ありすぎて困るな。
でもとにかく、大人は不完全であるということを
精一杯行動で見せると思う。
見て!こんなに大したことないんだぜ!って。

それでも私の生き物としての頑固さが勝ち、
(このままじゃ無理っすー!)
と叫んでいる自分の中の一番純粋な部分の私(little me)が
色んな手段で気付かせようとしてくれて(病気やらストレスやらのetc…)、
大人になってからようやく
「あ、これは無理なんだ。。。」ということに気付いてからは、
私が私のままであることを精一杯許す練習を続けている。
まぁ、癖のように染みついた思考の筋道を矯正していくのは
実際本当に難しいのだけれど。

生活の仕方を変え、
身を置く環境を変え、
little meが何言ってるかをちゃんと聞ける状態にする
私の体は私の物じゃないということが
今、つくづくよくわかる。

平べったく生きる事は
そんなに面白いことなんだろうか。

服を泥だらけにして3時間も4時間もずーっと地面を掘って、
ラジオから流れるオフコースに
しっぽりウルウルしちゃったりする36歳の自分は
他の人がどう思ったとしても
しょうもなくってめっちゃ面白いと思える。

「社会の中できちんとはみ出さない素敵で整った自分」になることを
決して許さなかった私の中のlittle me.
この子の生命力を
信じたり、時には疑ったり、喧嘩したり、でもちゃんと仲直りしながら
進む日常を、ここには記していきます。

人間も、進化は続けど結局は野生なのかもしれません。








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