諳んじることを考える

ここ最近あまりコトバについての話を書いていませんでした。少し書いてみましょう。

この前テレビで「諳んじる」というコトバを見ました。なんとかっこいい言葉なんだ!すっかり魅了されました。

まず意味について調べてみます。

[動サ変][文]そらん・ず[サ変]《「そらにす」の音変化》書いたものを見ないでそのとおりに言う。そらで覚える。暗誦する。そらんじる。「条文を―・ずる」 (goo辞書より引用)

つまり「何も見ずに言う」ということらしい。意外と汎用性の高い言葉で驚きました。

さて、それではなぜかっこいいと思うのか、すこし考えてみます。

漢字には主に二つの要素があります。一つは「漢字の様態」つまり見た目ということです。もう一つは「読み」つまり語感ということです。順番に見ていきます。


まずは「漢字の様態」について。「諳」という字、ごんべんと「音」からなっています。きわめて一般的な文字です。

強いて言えばどちらも縦に長く少しスタイリッシュな印象を受けなくもありません。ただ、スリムという意味では横にへんがない漢字(「泉」や「日」)の方が横幅が狭いにきまってます。それなのにスタイリッシュな印象を受けるのはなぜでしょうか。

これは一種の錯覚に近いモノがあると思います。我々は普段「諳」の構成要素である「言」、「音」をそれぞれ独立した文字として見ています。それら二つが組み合わさりできた漢字ですから、横幅も当然に二倍になるはずです。ところがそうはなりません。一文字の横幅で表現されます。この圧縮率(?)により、スマートに感じるのかもしれません。

次に音について考えてみます。「ソラんじる」。何よりもとても珍しい読み方です。「~んじる」は他に「案じる」、「閉じる」、「感じる」などがありますがいずれも「~じる」であり「~んじる」は日常で使うコトバでお目にかかれません(ちなみに、他には「軽んじる」などがあります)。また、漢字のよみ「そら」。これもまた非常にかっこいい。「そら」といえば当然「空」が挙げられます。しかし、この空はどうやっても動詞のイメージがわきません。この珍しさが余計にカッコよさを醸し出します(ちなみに他には「さと」、「な」とも読めるそう。また、音読みでは「アン」と読むらしいです。こっちはそこそこ一般的な読み方)。

コトバは使ってなんぼです。これからどんどん使っていこうと思います。幸いにも汎用性の高い言葉ですしね。

ところで、「諳んじる」ということば、利用頻度でいえば文章より発言の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?なにせ「諳んじる」というコトバ自体が「何も見ずに言う」という意味なのですから。文章の中の「諳んじる」を見ている間は絶対に諳んじることはできないのです。文字としての「諳んじる」と行為としての「諳んじる」は、共存することがないのです。何ともはかない。