こんにちは。潔癖症

こちら、とあるお題に向けて書いていたのですが、間に合いませんでした・・・今度から、ちゃんと期限を確認します・・・ただ、このまま葬り去るのももったいないので、書き上げてそっとあげておきます。


コロナ禍に入り、アルコール消毒を使う機会が増えました。帰宅後はよく手を洗います。

そのせいか、変な潔癖症になってしまいました。へやのほこりとかは気にならないのに、人の触ったものとかは気になるのです。まあ、さすがに触れないほどではないのですが、定期的に手を洗いたくなってしまいます。

これはコロナ禍で確実に変化したことでしょう。ウイルスという見えないものだからこそ、余計にそれにおびえてしまい、結果としてあらゆるものに注意が向きます。そんな日々を繰り返すうちに、その注意深さは、いつでもどこでも発揮されます。その慣れのはてが潔癖症なのかもしれません。


・・・と、言うのが今現在の自分の理屈です。つまり、この潔癖症と出会った僕自身が主観的に考える理由はここまで。でも、きっとこれにはもっと以前からの根深い理由があるはずです。

例えば、恋人と付き合えた理由を聞かれれば「○○で出会って、○○なところが好きになったから」と答えます。でも、その出会いが発生した理由には、なんでそこにいたのかとか、なんでそこが好みなのかという根本的な理由ががあるでしょう。そして、それはたいてい今までの人生が大きく影響しています。そうした好みや行動の蓄積が、相手に出会うことで初めて好意へと変わり、カタチをもって、それが行動に移されるのです。

潔癖症の話に戻りましょう。つまり、コロナと出会うことで自分は潔癖症になったのですが、それには自分自身の中にも、潔癖症を誘発する要素があったはずなのです。

それを見つけるヒントは、潔癖症の特徴にあるでしょう。一言でいえばとても属人的な潔癖の仕方なのです。極端な話、人そのものの痕跡をさけようとしているといえるでしょう。

これって実は、差別のようなニュアンスすら含んでいると思います。この潔癖症に一つの考え(例えば「○○は劣っている」といった感じ)が入れば、たちまち差別につながるでしょう。自分自身の中に、そうしたとても危険な因子が盛り込まれていると思うのです。

ただ、自分はそれらを回避して、コロナウイルスという何者でもない要素が出会ったことにより、結果として潔癖症に落ち着いたのではないでしょうか(もちろん、すべての潔癖症がそうした経緯をたどっているわけではないでしょう。しかし、一個人としては、その可能性があるということです)。

では、なぜ回避できたのか。一つはもちろん、自分の中にそうした考えがなかったということがあります。幸運なことです。

そして、もう一つは社会のつながりが薄くなったからでしょう。差別は個人では完結していません。それが集団になることで、はじめて差別として現れ、それが個人に伝染します。

そうした集団が、コロナ禍により急に断絶されました。SNSはあるものの、それは社会の中の集団というより、個人の集合体といった方がよいでしょう。差別が社会の中でマジョリティーを取らなくなったのです。

この二つの要因により、自分の中にあった因子が比較的良い方向へと働き、それがコロナと出会うことによって、潔癖症として形になったということでしょう。

いずれにしても、この潔癖症は後2,3年もすれば消えるでしょう。そうしたときに、自分の中の因子も消えるのか。それはとても重要なことですし、適宜確認しなければなりません。