ななしのはなし

 スマートフォンを手に入れてすぐ様々なSNSを入れました。そのほとんどで実名を明かしていません(そういう人もかなりおおいと思います。)。そうなると、自分の名前を携えて発言する機会というものはずいぶんと減少しました。逆にいえば、名前を出して発言するということはかなりの信頼性を持たせたいという意思の表れでもあります。

 こうしたことは、様々なメリットと、デメリットをもたらしました。

 メリットとしては「発言が容易かつ無色になったこと」匿名だからこそ発言が容易になり、はっきりと意思表示をしやすくなった。また、発言そのものがその人のイメージ、いわゆるその人の色に左右されにくくなりました。発言そのものへの純粋な感想や反論が集まるようになりました。

 一方でデメリットもあります。実はこれもメリットと同様「発言が容易かつ無色になったこと」発言が容易になったことにより心無いことも容易に言えるようになりました。また、責任を負わないので眉唾物の話も容易に出てしまいます。また無色になったことで発言の真偽がわからなくなってしまっていました。

最も、ここら辺のことはSNSの普及初期から叫ばれていたことなので、あまり深くは考えません。自分が考えてみたいことは「名前の価値の変化」についてです。

名前というものは結構簡単にばれてしまいます。家の前を通れば表札に名字が書いてありますし、ニュースにでもなれば簡単に本名がでてしまいます。

一方で中々名前が明かされないケースもあります。オンラインゲームでは本名で行う人は少ないですし、ネット記事などでは文責者の名前などが出るケースは少ないです。

さらに、名前というものは大きな力を有しています。前述のように、文責として名前を出せばその責任を持つことになります。署名なども、名前を書くことで効力を得ます。しかし、その割にはひんぱんに使われています

このように名前は簡単に判明するものの、一部では中々出てこないという変わった性格の持ち主でもあります。また、その力のわりにこき使われている感じもあります。名前はこうしたねじれの中にあるのです。

・・・本音を言えば考えていたのはこの辺までなのですが、このまま終わると何となくしまりが悪いので、もう少し考えてみます。

では、名前は今後どうなっていくのでしょうか。思うに、こうしたねじれは解消していくと思われるのです。

先ほど挙げたねじれの例、自分で提案しといてなんなのですが、これはねじれではないのかもしれません。もう少し絞った言い方をするならば、「反対の構図」ではなく「過渡期の構図」なのかもしれないということです。

もうすこし詳しく説明します。前述のSNSなどにおける匿名性には一つ触れていない部分があります。それは「偽名が使われている」という部分です。

SNSのアカウントには基本的に名前を付ける必要があります。そして、特定のアカウントを指すときは、その名前を使用するのです。(この名前を「偽名」と呼ぶことにします)この偽名はその人自身を指すわけです。

この段階で本名の役割を一部になっているといえます。つまり、本人を示すアイコンとなっているというわけです。さらに言及するならば、これはいかなる関係性にも左右されないアイコンということになります。

アカウントの名前を親につけてもらう人はほとんどいないと思います。また父と母とこどもが全く関係性のない偽名をそれぞれでつけて構わないのです。

一方、現段階では、偽名になんの信頼性もありません。市役所では使えないことが多いでしょう。こうした点で偽名はまだ本名の代替とはなっていないのです。(この点についてはむしろ利点とも考えられます。何の責任も負わない自分だけのアイコンを手に入れることができるからです。)

こうした点が解消されれば、偽名は本名の代替となりうるし、逆にこの点を尊重すれば、偽名は独立した存在となります。

現在一般の人でもSNSなどで偽名を使う機会が増えてきました。こうした中で、偽名と本名の関係性はどのように変化していくのか。今後少し気になる点でもあります。