虹にはいくつの色があるか

*今回の文章は、ちょっとぐちゃぐちゃしちゃいました。これからも時々修正するので許してください。



近年「多様性」という言葉を耳にします。「ダイバーシティ」もよく聞きますね。そして、おぼろげながらその意味も理解できます。

「多様性」という言葉自体は、性質の異なるものの種類の多さのようなものでしょうから、これ自体は形容にすぎません。しかし「ダイバーシティ」となると、それを認めていこうという風潮のことを言います。これ自体は、とても良いことです。

ところで、「認める」というのは「多様性」と親和性の高い言葉なのでしょうか。

少し意地悪に考えれば「認め合う」という言葉には、とても人工的なニュアンスが存在します。認めるというのは、能動的な言葉ですから、それはある意味、後天的な許容であるといえるのです。極端な例でいえば、「トランスジェンダー」を認めるということは「性別」というくくりを認めていることになります。しかしながら、それ自体が言語化されるケースは極めて少ないです。「性別」という概念自体は、まるで自然かのように存在するため「認める」という言葉は使われないのです。

ならば、「多様性を認める」という言葉自体も、それは多様な分類自体を受け入れて、そのうえでその分類一つ一つを後天的に受け入れようということになります。ならば、「ダイバーシティ」のゴールは「多様性を認める」ということではなく「その分類すらも自明なこととしてとらえる」ということになります。こうなれば、「認める」という言葉にも議論が及ぶかもしれません。

「そんなこともうすでにできているじゃないか」と思うかもしれませんが、現段階で「認める」という言葉を使用している以上、完全にそうなっているわけではないと思います。

しかし、このゴールはとても危険性の高いものであるといえます。これは一種の「常識」、「文化」を創り出すことでもあり、もし仮に誤った方向(有益ではない方向)に進んでしまえば、後の時代での反省点となってしまう可能性があるからです。「後の時代」と書いたのは、現時点ではそれに評価を下すことはできない(肯定も否定もない)状態であるということです。

「ダイバーシティ」はもしかしたらこの問題点に直面し、もしかしたら解決するかもしれません。しかし、そのころには「ダイバーシティ」なんて言葉も使われておらず、誰もその達成感に浸ることはできないのかも・・・