止まり木の中で

 大変!7月一本も記事を書いていない!そうなんです。このごく少数の方が気まぐれに読んでくださる自分の記事。突然書くことができなくなりました。なんで?考えてみます。

 といっても大方理由はわかります。いわゆるネタ切れというやつですね。NOTE内でもコンスタントに記事を書いている方がいらっしゃいますが本当に尊敬します。自分は書くことがすっかりなくなってしまいました。

 もう少し詳しく考えてみましょう。なぜ書くことがなくなったのか。これは様々な要因が考えられます。

 まずは環境。しかし、ここ数ヶ月自分の生活に大きな変化はありません。各時間も比較的たっぷりあります。ここが原因ではなさそうです。

 となるとやはり自分自身に問題がありそうです。ネタを出す能力の低下といえばそれまでなのですが、もう少し理由を考えたいと思います。

・・・そして、今現在この記事を書いてる最中にも起きているのですが、この辺で書くのが面倒くさくなる!実は7月中も記事自体は書いてました。しかしどの記事もここらへんで書くのが面倒くさくなります。自分の頭に急に黒い雲が充満し、何かを言語化することを停止させるのです。この言語化という行為に対する飽き。これは非常に重要な要素であると思っています。

 これを重要と思う明確な理由があります。それはここ最近言語化以外のアウトプットがなされたものを大量に吸収しているからです。例えば絵とか曲とか。漫画も比較的読んでいます。こうなってくると言語化のわずらわしさに気づいてしまうわけです。言葉を打つのって面倒くさい!文章は絶対に組み立てる要素が必要になります。言い換えれば必ずルールを参照しそれにのっとり構成するという過程を含むわけです。

 もちろん絵や音楽にも理論はあります。しかし、それはあくまで表現を最大化するために用いられます。一方、文章におけるルールはそれが共通の認識であり遵守しなければならないものです。何とも煩わしい・・・

 そして、これら文章のルールは評論という枠を超えています。だれも「この小説のこの文法が素晴らしい」とはほめません。もう当たり前のモノなんです。

 一方、こんだけ愚痴を言っていても文章を書くときに文法を逸脱することはできません。悲しい。なぜなら単語が集まり文章となる過程において文法は不可欠だからです。そして、単語のみではその集合に意味を持たせることはできません。単語はどこまでいっても伝達手段でしかないからです。

 こういうルールがふと煩わしくなる。脳が自然とそれを拒否する。それが言語化に飽きるという現象なのではないでしょうか。

 ・・・一応言っておくと、「自分は尖ってます!」「既存のルールに縛られたくないんです!」と言いたいわけではないのです。いっつもやってるとたまにふと面倒くさくなることありますよね?そんな感じです。

 逆に言えば、自分たちは日々文法の遵守という行為を積み重ねているわけです。それもとてつもない回数を。すべてが先天的とは言えないこの行為を。そう考えるとこれはとんでもない偉業なわけです。人間ってスゴイ。
たまには文法を遵守する自分をほめてみるといいかもしれません。