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半世紀ぶりの歌舞伎観劇

 さる10月14日に、新橋演舞場で「スーパー歌舞伎Ⅱ新版オグリ」を観てきた。

 わたしは学生時代、ちょっとしたはずみで、非公式の「歌舞伎研究会」なるものに参加していた。入会のきっかけは忘れたが、会の主催者がとても綺麗な人で、ウカウカと勧誘にのってしまった気がする。こんな美人とお話しできる歌舞伎研究会最高という、歌舞伎そのものの興味よりも、ひとに興味を持って入ったのだった。

 でも、わたしの記憶ではしっかり活動したという痕跡は残っていない。歌舞伎公演も会員で一緒に見に行った記憶もない。ただ『会誌』をつくったことは記憶に残っており、ある時までは手元に残っていたが、引っ越しを繰り返すうちにいつしか失ってしまった。
 
 『会誌』を創ろうということになったとき、みんなに素人だと馬鹿にされないように一生懸命勉強した記憶がある。その努力が歌舞伎に関する知識を飛躍的に増やした時期だった。寄稿文の具体的内容は忘れたけれども、歌舞伎十八番の『助六由縁江戸桜』の台本にケチをつけたものだった。こんな人気のある演目にケチをつけるなんて、とんでもないことだったに違いないが若気の至りである。

 若い時の無謀なふるまいを思い出しながら、今日の歌舞伎はどうなったのかという楽しみと同時に変容への不安があった。しかも、飛んでいるというスーパー歌舞伎だ。どれだけ伝統的歌舞伎と違うかをしっかり確認したいと思った。

 約半世紀ぶりに歌舞伎を見にいくという発想は、わたしにはなかった。上の娘がアメリカに住んでいて、このたび来日に際して歌舞伎を見たいと言い出したから、一緒に行くことになったのである。日本にいると、あまりも身近で、伝統芸能に触れる機会でも用意されないかぎり、それを親しむには大きなハードルがある。ところが、異文化の中に住むと、自分のアイデンティティが脅かされるような気持になり、大概の日本人は愛国者になるといわれている。

 娘はそれに西洋文化と対峙する発想の根源を日本の文化からも吸収して作品を作る仕事をしており、直接日本文化を取り入れるわけではないにしても、自分が日本人として外国人が及ばない日本の思想を作品に取り入れたり、参考にするために、日本各地に足をのばし、さまざまな文化施設を見て回り、伝統芸能も観賞したいと切望したのである。

 彼女が見たいといった伝統芸能は落語と歌舞伎だった。前回来日したときは、能を観賞したらしいが、娘のパートナーが能のパフォーマンスについていけずに、彼の感想がいまいちだったので、今回は別な芸能を選んだわけだろう。

 外国から伝統芸能のチケットを購入する場合、まだそのための整備ができていないらしく、外国のクレジットカードが使えないとか、チケットの送り先が国内に限られるなどの不都合から、わたしがチケットを購入することになった。

 落語のチケットはお目当ての落語家が出演する落語会に申し込もうとしたが、発売当日の発売時間に申し込んだが、あっという間に完売したので買えなかった。滞在期間が決まっていたので、今回の来日では落語を生で聞くという娘の望みはかなわなかった。
 
 そこで浮上したのが、スーパー歌舞伎オグリを観劇するということが重要性を増し、かならずチケットと取らねばと発売日に満を持して待機したところ、ネットがつながり、チケットを手に入れることができた。ところが当日行ったところ、花道が見えないところの席でガッカリした。そういえば、座席は選択できなかったことをおもいだし、4席も一度に頼んだのがアダになったのかと勘ぐってしまった。

 落語のチケットが取れないので、代わりに国立劇場の『天竺徳兵衛韓噺』を観たいといったので、このチケットもとった。国立劇場の場合、座席を選択できたので、花道が見える席をとることできた。オグリの席を取るときは座席指定なんて頭になく、戦術を考える余裕なかったのだ。

 台風19号が関東を通過していった二日後の東京は、台風一過の秋晴れとはならず、小雨が降っていた。各地に大きな被害がでていたが、新橋演舞場にはたくさんの観客が詰めかけていた。開演前のロビーは、幕間に食べる弁当を求めて観客が押し寄せる風景は昔のままであった。昔は、弁当さえ買えず、幕間の立ち見で見ていたものだが、今回は息子が買ってきてくれた寿司折があり、劇を見る準備は完ぺきだった。ただ惜しむらくは、花道がある左側の舞台が見られない座席だったことだ。

 オグリは中世にできた説話に基づくお話である。小栗判官が妻の一門に殺されて、地獄に落ちる。ところが、閻魔大王のはからいで地獄から送り返されてしまうが、病身の状態であり、それを治すには熊野で湯治する必要があった。功徳をつもうという善意の人たちのおかげで熊野で治癒すると、離れ離れとなっていた妻を見出し、自分たちを苦しめた一門に復讐してめでたしめでたしとなる。

 あらすじだけを書くと、ありきたりの話である。ところが、これがスーパー歌舞伎になると、様相が一変する。中世のお話なのに、時代の特徴とか、衣装や飾り物、背景や書割などが時代考証を無視して中世のもの、江戸のもの、現代のものが入り乱れて登場する。これらにより、芝居に躍動感や奇抜さを際立たせるダイナミックな盛り上がりを演出している。

 もともと、歌舞伎は時代に拘ることなく、面白ければ何でも取り入れて芝居にしてしまう強靭さがあった。世情話題になったことやさまざまな事件などを取り入れて、現代劇にして観客を魅了したのである。ただ江戸幕府の政道を批判するような内容の芝居は、時代を室町・鎌倉時代に設定して、咎めを避けようとした。たとえば、『仮名手本忠臣蔵』は赤穂浪士による復讐事件を題材にしているが、時代は鎌倉時代の話になっている。その点で歌舞伎は融通無碍で、古い時代の物語を現代劇にし、現代の物語を時代劇にして上演したのである。

 この点でスーパー歌舞伎オグリの演出は、伝統的な歌舞伎の舞台づくりだけでなく、現代でしかできない最新の技術やパフォーマンスを使った演出になっていた。動く大きな鏡、アルファベットを使った動く書割、大量の水を使った水入り、客席左右同時宙乗りなど、伝統を重んじる歌舞伎が新しいことをなかなか取り入れない中で、積極的に新しい試みをおこなっていることは評価できる。モダンダンスを要所で取り入れた踊りは、観客には新鮮に感じたであろうし、セリフも時事ネタなども話しており、時代を超えた舞台づくりは小栗判官のストーリーを知らない観客にも親近感を感じたに違いない。

 歌舞伎とは本来、その時代に起きた出来事や流行ったことなどを素早くドラマ化して、観客の前で再現することで成り立っていた演劇であった。その中でも人気があった演目などは繰り返し上演されたので、そのような演目が伝統として残り、それを再演するのが歌舞伎であると見られていったので、時代が下るにしたがい時代遺産(伝統芸能)になってしまったのである。本来の歌舞伎は、上演時の時代精神を演劇化したものであるから、話が時代劇でも、その時代ができることを積極的に取り入れて、エンターテインメントに仕上げることでできていたと思われる。スーパー歌舞伎オグリは、歌舞伎という演劇が従来持っていた柔軟性を大胆に取り入れて演出しており、いい意味で先祖がえりを試みたものといえる。

  今回スーパー歌舞伎オグリを観て、伝統的な歌舞伎も観劇したい気持ちを抱いた。オグリを娘たちが観る前に、国立劇場で『天竺徳兵衛韓噺』を落語の代わりに観ている。これにも誘われていたが、仕事の関係で観られなかったのは残念だ。浦島太郎のような人間に伝統的な歌舞伎がどう写るのか、楽しみである。昔を偲んで『会誌』に思いをはせたので、『助六由縁江戸桜』が上演されるとわかったなら、ぜひとも観劇したいものだ。過ぎ去った過去の自分を求めて、友人に会うように訪れてみたい。十中八九、友人は過ぎ去った時間だけ様変わりしているだろう。一縷の望みは、まったく変わらずに迎えてくれるイメージを持つことである。


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