ただの黄昏時の話
「今日は遅くなるな。最後の人、さっき採血とったばっかりだから、あと30分はかかる。まぁ、座れよ。」
17:00過ぎ 外は暗い。雨降りでいつもよりいっそう暗さが増している。
2階の診察室からは通りの景色が良く見える。
私は患者用の椅子に腰掛け、連なる車のヘッドライトの明かりをぼんやり眺めていた。
先生はガイドラインとパソコンを見ながらぶつぶつとつぶやき、カルテを記載している。
「今日はもう7時には寝れないな。駅まで歩いて帰る気力もないな。
やっぱり69と70は違うんだよ。
おまえもな、70になったらわかるよ。」
先生は毎晩7時に寝て、3時か4時頃起きている、らしい。
そして毎朝歩いて病院へ来るのだが、その距離およそ7㎞はある。
帰りは最寄りの駅まで歩いて電車で帰宅している。
「もう欲はないな。人間はやっぱり孤独なんだよ。
生まれるときも死ぬときもな。
食べれないからって点滴だ、胃ろうだ、って無理に入れたってダメなんだよ。
自然に枯れていくんだ。それが一番いいんだ。
俺にはわからん。
なんでそんなにやりたがるか。
正月に家族が集まった時に話したんだよ。
無理に生かすようなことは望まないって。
いつどうなるかなんてわからないからな。
おふくろは70と1カ月で亡くなったから、
俺はそれより長く生きたな。70と8ヶ月だ。
親父は74だ。
家は短命の家系なんだよ。
こども、まだ小学生だろ。おまえはまだ生きなきゃダメだ。
18歳の高校生と話していて自分の年にびっくりするんだよ。
18歳と70歳だぞ。」
ある日の遅番の時の出来事だ。
普段は二言三言会話するくらいだが、先生は何か話したい気分だったのだろう。
普段の会話と言えば…
「おまえのメガネ、いいな。どこで買ったんだ?俺にくれよ。」
なんの変哲もないメガネのどこがいいのだろうか。
ならば最期に棺に収めてあげようか。
そのメガネで空から私をちゃんと見ていてくださいよ。
「えっと…なんだったかな。おまえの顔見たら何しようとしてたか忘れた。」
やだなぁ。私の顔を見に来たんでしょ?え?違う?
「おまえが歩いてるのはすぐわかるな。猫背だからな。」
毎朝2階の診察室から出勤してくる職員の姿を観察して楽しんでいるらしい。
悪趣味ですよ、と注意するも
「うるさい!いいの!」と。
「今日はいい天気だ。最高だよ。」
空は今にも雨が降り出しそうなどんより曇り空だ。
ただでさえ暗いのに、暗いのが好きだと言い、診察室の照明をおとして、満足気だ。机の上のランプがムーディーな雰囲気を醸し出している。
「先生、」
「やだ。断る!」
「まだ、何も言ってませんよ!!」
「先生、トイレ行き過ぎ」
「ジジィだからな」
「先生、おはよー」
「どうも、こんにちわー」
こんな他愛もない会話が愛おしく感じるのはなぜだろうか。
私が70歳になった時、
この時のことを思い出すだろうか
記憶の片隅に残っているだろうか
もちろん先生はもういない…はず。
もし私が70まで生きて覚えていたら空に向かってつぶやいてみようと思う。
「先生、私もね、70歳になりましたよ。私だよ、わかる?」