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【朝の読み聞かせ】「春になれば、またいいこともある」という言葉が胸に沁みる日本の昔話

突然の「休校」にざわつく教室で

 コロナウイルス対策で「全国小中高休校要請」のニュースが発表された翌日の朝、いつも担当している5年生の教室に朝の読み聞かせをしに行きました。突然のことに、学校はなんとなくざわついた雰囲気……いつも朝の読み聞かせでは机を後ろに下げて、子どもたちは床に座って聴くのですが、今日はその余裕がなかったのか、子どもたちはそれぞれの席についたまま。距離も遠くなるし、語るときの視線も分散させなければならないし、子どもたちが気が散るものが机の上にあったりと、おはなしに集中してほしいストーリーテリングにはあまり向かない状態ですが、しょうがない。

 朝練の後片付けが長引いて教室に帰ってこない子を待ちながら、「3月から休校」のニュースについて感想を聞くと、「休みで嬉しい」という反応ではなく、「このクラスは今日で最後ってこと?」「そんなの嫌だ」と子どもたちは気持ちの整理がつかない様子。こんな落ち着かない空気の中で大丈夫かな……とちょっと不安を感じながら、今日のために準備してきた「聴耳頭巾」(『日本昔話100選』稲田浩二・稲田和子編著 講談社α文庫)を語ることにしました。いろいろなテキストがありますが、私は『日本昔話100選』(旧版)に収録された方言のあたたかさ、簡潔な語り口が好きです。

「人間てやばかなもんで」……まったくその通り!

 語る前に「『聴耳頭巾』っておはなし、知ってる?」と子どもたちに尋ねたところ、意外と「知ってる!」という声が上がらず、もしかしたら、今の子には馴染みが薄い昔話なのかもしれません。でも語っているうちに、気が散っていた子どもたちの心がぐっとおはなしに向かっていくのを感じました。やっぱり、昔話の持つ力はすごいです。

ある村に、貧乏でも正直者のじいさまがいた。あるとき、村のお宮にお参りしているとき、つい眠ってしまったところ、夢の中に白いひげの神様が出てこられて、鳥や木が話していることがわかる赤い宝頭巾を授けてくれた。夢から覚めると、ひざの上には夢で見たとおりの赤い頭巾があり、「ありがたいことだ」とじいさまが喜んで家に帰る途中、2羽のカラスがガアガアと何か話しているので、早速、その頭巾をかぶったところ、西の村の庄やの旦那様と東の村の庄やのお嬢さんが病気になって寝ているという。病気の原因についてもカラスたちは話し、それを聞いたじいさまは両方の村に出かけていって、それぞれの病気を治す方法を教え、ほうびの金をたくさんもらう……というお話。

「聴耳頭巾」には、はっと胸をつかれるフレーズがいくつも出てきます。そのひとつがカラスたちのやりとりに出てくる「ほうしるども(それなのに)、人間てやばかなもんで、そのことがわからんのだ。はてさて、あわれなもんだよ」というもの。

 庄やの旦那さまの病気の原因について、土蔵を作ったとき、はめ板の間にへびが一匹はさまって出られなくなり、「それで蛇がせつながって、その思いで旦那さまは病気になっていらっしゃる」とカラスは言います。一方、庄やのお嬢さんの場合は、茶室を作らせたときに切らせたひのきの株が床下にあり、雨だれがしたたり落ちて株は腐っていくが根は生きているので春になると芽を出すものの、人間がすぐに刈り取ってしまい、ひのきは芽を出すことも枯れることもできずに「せつながっている」。そのひのきの思いと毎晩見舞いに来る木の友だちの思いが積み重なって、お嬢さんは病気になっているのに、人間はそんな蛇の思いも木の思いも理解することができず、自分たちの病気を治す方法もみつけられない……。

 これって、地球温暖化など人間が引き起こした自然破壊によって人間の生存環境が危うくなっている、今の人間と自然との関係そのものではないでしょうか? 「人間てやばかなもんで」というカラスの言葉が、ぐさりと刺さります。動物や木など他の生き物たちに対する人間の無知からくる傲慢さ、そこからもたらされる災いについて「聴耳頭巾」は伝えていると思うと、改めて幾世代にもわたって語り継がれてきた昔話の深さを感じます。

 じいさまが宝頭巾をかぶってカラスや木々の話に耳を傾け、人々にそれを伝えたように、人間はもっと人間以外の生き物の声を聴き取ろうとしないといけないのではないでしょうか。教訓と言ってしまうとお説教じみますが、人間が傲慢なままでは生きていけない時代に成長していく子どもたちに、そのことが伝わればいいな、との願いをこめて語りました。小5ともなると、「カラスや木が話したりするわけがない」と斜に構えそうなものですが、今日の子どもたちは、すんなりと昔話の不思議を受け止めてくれたと思います。

昔話が語りかける言葉

 床下で芽を出すことも枯れることもできないひのきの姿は、「生きたい。でも、もう元気にはなれない。いっそ死んで楽になりたい。でも、かんたんには死ねない」という晩年の母の苦しみと重なり、おはなしを覚えるために繰り返し語る中で思わず胸が詰まりました。そんな母に慰める言葉もなかった私ですが、ひのきを見舞う山の松や楢の木は、「このまま朽ち果てるより他はない」と苦しげに言うひのきを励まします。

「いやいや、春になれば、またいいこともあろうすけ、そんげに力を落とさんでいいよ」「いやそんなに力を落とさなくとも、じきに春が来る。そうすればいいこともあるで」

「春になればいいことがある」なんて、ただの気休めにすぎないかもしれません。でも、春になれば木々や草花は芽吹き、新しい命が生まれていきます。そんな生命の営みそのものは、生きとし生けるものすべてにとって、きっと「いいこと」であり希望なのだと思うのです。「聴耳頭巾」では、じいさまの言葉を聞いた庄やの家の人たちによって、ひのきは床下から掘り出されます。その後、どこかに植えられたのか、そのままにされて結局枯れることになったのかはわかりませんが、「生きることも死ぬることも」できないひのきの苦しみが終わったのは確かでしょう。

 この「春になれば、またいいこともあろうすけ」というフレーズを響かせたいと思い、春になる前の時期に語ろうと考えていたのですが、まさかこんな騒ぎが起こるとは思いもしませんでした。様々な不安が渦巻く中で、「春になれば、またいいこともあろうすけ」が単なる気休めではなく、一筋の希望の言葉として、子どもたちの胸に残ればいいなと思っています。



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