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幸福ではなく歓喜 55/100

丸々一ヶ月、noteの更新をサボった。

「もう、そんな経った!?」

意識的に継続してた記録をなんとなく止めてしまった後の時間の流れは、異様に速く感じる。

印象的な出来事や、ああでもないこうでもないと考えた事柄、あるいは何かしらの変化が、ほぼすべて洗い流され、なんの痕跡も残ってないからだろう。

本来的には無意味でしかない日々の時間の流れに、区切りをつけ、タイトルを付け、何か特別な意味があったかのようにデコレイトする。

そうすることで、過ぎ去るだけのただの時間の流れが、脳内で感触を伴った生活的情報に変換され、編集され、細胞レベルでなんらかの痕跡を残す。それらの積み重なりとして今があると実感できる。

記録をサボると、今日も昨日も一ヶ月前も五年前も、なんの変わりもとっかかりもない、無味無臭な時間の流れのままだ。

歳を食って記憶力が極端に低下し、日々の暮らしもルーティン化されると、その傾向に拍車がかかる。

日々がそうやって、変わりなく、トラブルもなく過ぎていく。それもまた幸せなことかもしれない。

とは言え、振り返ってみると、僕は「幸せだなぁ」と感じたことはほぼないことに気づく。

気持ちいいとか、美味しいとか、オモロいとか、アガるとか、そういう瞬発的な快を感じることはあるけれど、幸せってよくわからない。

なんの変わり映えもないルーティンが繰り返され、ノイズの少ない日々の方が幸せの感覚に近いような気もする。

よくわからない。

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昨日、初めて出会った尋常でなくスマートな若者が教えてくれた岡本太郎氏の言葉が、めっちゃ腑に落ちた。

僕は「幸福反対論者」だ。幸福というのは、自分につらいことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。鈍い人間だけが「しあわせ」なんだ。僕は幸福という言葉は大嫌いだ。僕はその代わりに、「歓喜」という言葉を使う。危険なこと、つらいこと、つまり死と対決するとき、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、そのとき湧き起こるのが幸せではなくて「歓喜」なんだ。

幸せではなく歓喜。

なるほど、そうだ。

記録なしでも記憶や内臓に痕跡を残すような歓喜。

もっと気持ちよく暮らしてくためには、ビビらず、サボらず、危険やツラいに、つまりは不快にもっと身をさらす必要があるようだ。

いや、メンドーだな。

よくわからない。

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