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死と天国 48/100

父が逝って、一週間が経つ。

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僕は四九歳なのだけれど、幸運なことにこの歳になるまで、家族や親友などごく身近でリアルに大切な人を亡くすという経験をしたことがなかった。

親しく付き合いのあった人、お世話になった人を亡くした経験はもちろんある。

病院勤務が長かったこともあり、人の死に接する機会は一般の方より多いと言えるかもしれない。

だけど「ごく身近でリアルに大切」と思えるくらい深く長く時間をかけてコミットした人を亡くした経験はなかった。その人を失うことで、自分の存在が揺るがされるような、深い喪失感を味あわされる。そんな経験はなかった。

なので、ずっと不安だった。

「そんな事態になったら、僕はどうなるのだろう?どんな変化が起こるのだろう?」

何度もシミュレーションしてみたけれど、想像がつかなかった。考えたって分からないので、考えないようにしてきた。

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父が逝って、一週間が経つ。

僕の半分は、父の欠片からできている。父がいなければ、僕はいなかった。父を亡くしたということは、僕の「素」となり、僕を構成する重要な一部であった存在が、この世から消失してしまったということだ。

今のところ、日常生活に支障を来すような大きな変化はない。

通夜や葬儀も無難に終えた。日常に戻ってからも、淡々と過ごしている。大きな感情の揺れもない。

事情を知らない人には、ふだんと変わらぬ姿に見えることだろう(たぶん)

ただ、感覚的にはこの一週間、どこか足元が定まらない。フワッとしている。常に微かな眠気がある。横になればいつでも熟睡できそうだ。いくらでも寝てられそうだ。危ないので、歩きスマホは控えるようにしている。

感情を司る回路の一部がフリーズしているのだろう。混乱を来さぬよう、脳内の安全装置が作動し、鎮静作用のある化学物質がドバドバ垂れ流されているのだろう。

一つだけ、想定外の変化があった。

「天国はある」と思うようになった。

以前は、天国なんて妄想だとあしらっていた。神も仏も幽霊も、天使も悪魔も、弱くて無知な人間がすがったり怖れたりする想像の産物でしかない。あまりに非科学的で、アホらしい。「人は死んだら灰にされ、土に戻り、分解され、他のなにかに再構成される。そんだけ」

そう思っていた。

けれど今は、「天国はある」と思うようになった。

正確には「天国があってほしい」と願うようになった。

「天国がある」という世界線で生きてる方が、心穏やかに過ごせると思うようになった。

アホで結構だ。

何十年も病に苦しんだ父が、ようやく苦痛から解放されたのだ。ずっとできなかった、楽しめなかった好きなこと、やりたかったことを存分にやっていてほしい。

コタツに入って、熱い茶をすすり、新聞を読み、テレビで野球を観戦する。慣れぬ手つきでパソコンをつつき孫たちの写真を編集してアルバムを作る。高血圧を理由に母から「控えるように」とうるさく言われていた塩辛や佃煮や味の濃い料理を好きなだけ食う。たまに親しい友人と食事に行く。旅行に行く。

その程度のことだ。その程度のことさえできなくなっていた最期の苦しい時間をようやく乗り越えたのだ。

安らかに過ごしてほしい。そして、僕らのことを、笑顔で静かに見守っていてほしい。

そんな父の姿を想像すると、ちょっとだけ寂しさが和らぐ。

そんなことを思うようになった。

そんなことを書いていると、ちょっとだけ涙が出る。

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