宮台3塾の目的と界隈塾のコンセプト

2024年5月25日

宮台3塾は、カルチャーセンターのように専門知を一般人向けに噛み砕く教養講座でも、合理的に行動できない無知蒙昧を啓蒙するものでも、ありません。単なる知識は行動に結びつかないガラクタ。でも内から湧く力だけでも行動を誤る。内から湧く力と知識とが結びつく「知恵」に照準しますが、万人に知恵を受け渡す「啓蒙」を意図しない。社会と人の劣化を踏まえれば無理だからです。


あらゆるものの全体(ピュシス=万物)を⟨世界⟩と呼び、コミュニケーション可能なもの(人とは限らない)の全体を⟨社会⟩と呼びます。原初的社会では、⟨世界⟩=⟨社会⟩でしたが(アニミズム的=呪術的段階)、文書記録で広域統治される高文化社会では、⟨世界⟩>⟨社会⟩となります(宗教と呪術の分離段階)。つまり⟨社会⟩の外に⟨コミュニケーションできない世界⟩が拡がるとされるのです。


即ち、⟨世界⟩=⟨社会⟩+⟨非コミュニケーション的世界⟩となりました。さて、たった数十年前までの⟨社会⟩は、言葉・法・損得に閉ざされた(=言葉で示された法に罰を恐れて従う)時空=「社会」と、言外・法外・損得外で繫がる祝祭時間と性愛空間=「社会の外」とに、直和分割されて、「社会」の⟨法生活⟩で奪われる力を「社会の外」の⟨法外の営み⟩で回復する営みを続けてきました。法外は過剰です。


 ⟨世界⟩=⟨社会⟩+⟨非コミュニケーション的世界⟩

 ⟨社会⟩=「社会(法内)」+「社会の外(法外)」

∴⟨世界⟩=「社会(法内)」+「社会の外(法外)」+⟨非コミュニケーション的世界⟩


初期ギリシャには「⟨世界⟩はそもそも出鱈目」との観念があり、ギリシャ悲劇が示す通り「⟨社会⟩も⟨世界⟩の一部だから、秩序に見えて出鱈目」とされたのが、一神教的世界観ゆえに、出鱈目なのは⟨非コミュニケーション的世界⟩だけで、⟨社会⟩は「社会の外」を含めて慣れ親しんだ秩序なのだ、とするロマン派的観念が拡がります。分業編成の複雑化による「原生自然の間接化」が最大の理由です。


これが「第1の劣化」だとすると、ほんの数十年前から「第2の劣化」が生じます。即ち、各所で示して来たように精密に跡付け可能な身体・感情能力の劣化を経て、⟨社会⟩から「社会の外」が消去され、人が「社会=言葉・法・損得の時空」に閉じ込められ、「社会」と「社会の外」とを往還して「社会」で失われる力を回復する営みが消え、生き辛くなりました。これが「クソ社会」(専門的には法化社会)。


「クソ社会」を「身体・感情能力が劣化した人=クズ」が支え、「クズ」を「クソ社会」が育てる、交互的条件付けのスパイラルで、「クソ社会化」と「クズ化」が加速度的に進んでいます。結果、例えばルソーが「民主政の民主政以前的な前提」として挙げる「ピティエ=この決定で自分は良くてもあの人・この人はどうなるかを想像して懸念する感情能力」が劣化し、社会は民主政ゆえに崩れつつあります。


加速度的劣化を前に、「啓蒙」など臍で茶を沸かします。可能なのは「社会という荒野を仲間と生きる」営みだけ。だからそのための知恵と力を、「社会という荒野を仲間と生きよう」という価値観を持つ者にだけ伝える。そこで終りじゃない。内から湧く力(平たく言えば価値)と結合した知恵を受け取った者は、各々の界隈でミドルマン(媒介者)として価値(力)と知恵を伝達せよと求められます。


力(価値)と知恵を伝達するにふさわしい媒介者として活動を委ねられた彼ら彼女らは、互いに連帯して経験を共有することも求められます。宮台3塾は、①互いに連帯して各自の界隈を「風の谷」として生成するミドルマンの養成を目指しますが、②ミドルマンは各界隈で3塾を引き継ぎ、ミドルマンにふさわしい者を見付けて育て、その者たちに「風の谷」を生成させるように求められます。


この「閉鎖による生成」はイエスと12使徒の関係に似ます。イエスは自分はじきに死ぬと12使徒集団に語り、ペテロに鍵を授けた。これはペテロに「初期使徒集団の如きものをお前が増殖させろ」と伝えたことの隠喩です。正確にはミドルマンに媒介された共同体を増やし、次のミドルマンを育てる営みです。ミドルマンは互いに緊密に連帯し、やばいヤツ(ユダの如き裏切り者)から力を奪います。


宮台には15年前の共著『日本版ファシズムのススメ』(2009年)がありますが、ファシズムはナチズムとは違います。ナチズムは孤立した不安な神経症的個人をヒトラーが洗脳する営み。ファシズムは束ねる営みという意味で、束ねられるのは、孤立と孤独で神経症化した不安な個人ではなく、貧しくても仲間とわいわい楽しくやっているような各界隈です。個人ならぬ界隈を束ねるのです。


問題が2つある。まず今の日本の問題。昔のイタリアと違い「貧しくても仲間とわいわい楽しくやっている界隈」が少数で、各界隈がどこにあるのかも不明。まともな界隈を可視化し、それらを可能にする力の源泉と知恵を相互利用する必要がある。次に昔のイタリアの問題。各界隈指導層が思考停止でグルの「言葉」に動員されて仲間を動員した問題。キリスト教教会が抱えた問題と同一です。 


ファシズム研究とキリスト教研究に跨がる複雑な問題ですが、最近のヨハネ福音書研究がヒント。ローマ行政文書やタルムードに記録される通り人として実在したイエスが、何を語ったかでなく、言葉の詳細が不明であれ人々にどんな体験を与えたのかに照準します。動員できたら喜ぶのでなく、動員される側の体験に「なりきり」、そこに違和感を感じることがミドルマンに要求されます。


これは四半世紀前から僕が「ミニミニ宮台君」という言葉で一部読者層を退けてきた理由です。見たい所だけ見てディスる輩と、見たい所だけ見てハマる輩は、「自己の恒常性維持」に淫する点で同一。だから動員規模で成否を評価する政治的コミュニケーション—政治とは集合的動員による決定—からミドルマンは距離を取る必要があります。だから小規模な「風の谷」にいつも立ち返ります。


言葉の自動機械である神経症的頓馬の炎上に備えれば、これら欠缺の回避を前提にした「ファシズムのススメ」です。日本からほぼ消えた「貧しくても楽しい仲間界隈」を可視化し、知恵の相互利用でそれらを護持し、かつ各所に新たに仲間界隈を作り出す。そんな価値と知恵に満ちたミドルマン(媒介者)が、質が低い賛同者に迎合しないためには、高度な能力が必要。それを授けるのが3塾です。


以上は昨今の民主政の問題を摘抉します。ナチズムは神経症的不安につけ込んだ埋め合わせの提供で大衆動員する全体主義。昨今の民主政はそれに酷似し、同時に、より深刻な面もあります。重い戦後賠償での中流崩壊による不安という一過性の要因に巣くったナチズムと違い、資本の自己増殖による共同体崩壊と、誰もが組織の入替可能な部品になる没人格の全面化を背景にするからです。


スミスが「市場の市場以前的前提」として挙げた同胞感情も、ルソーが「民主政の民主政以前的前提」として挙げたピティエ(仲間を懸念する感情)も崩れた。でも資本主義的市場と民主主義的政治は継続する。だから同胞感情とピティエを回復しないと資本主義も民主主義も悲惨を導き続ける。でも人が人間関係ならぬ市場&組織から便益を調達したがる間は、マクロな感情能力の回復は望めない。


「劣化した選挙民」が「劣化した政治家」を選び、「劣化した消費者」が「共同体を空洞化させる消費」を選ぶ、そんなマクロを見限り、自治的共同体を回復すべく、ミクロへと傾注することが必要です。それには、「内から湧く力」ゆえに他者らを魅了し、「市場&組織」から「仲間の界隈へ」と連れ戻し、界隈同志の連帯で集合知を形成するミドルマンの役割—ミドルマンの再生産を含む—が不可欠です。


①クソ社会への適応だけで貫徹すべき価値を持たない個人を啓蒙する無駄弾を打つのをやめ、②貧乏なりに仲間とわいわいやれる界隈を形成・護持すべく、③界隈間の連帯で集合知をもたらし、④それを次の世代・別の場所での新たな界隈の形成・護持に繋げる。そんな役目を負うミドルマンを育て、個人を動員する代わりに界隈を束ねる。それが界隈塾という名前とコンセプトにこだわる理由です。

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