SUPERDOMMUNE第2回テーマ:「微熱の街」が消えたら「テンプレ」のBOTだらけに

第2回「前半」口上:「微熱の昭和」が、「正しい令和」よりマシに感じる訳

前回は予定の半分しかできなかった。「微熱の昭和」をコンテンツから想像してほしくて、特 に阿久悠作詞の歌謡曲を聴いて貰った。そこに「願望→挫折→忘却→渇き→癒し」の構造を 見出せた。「癒し」は、「願望」を思い出し、願望を忘却しなかったらあり得た「もう一人の自 分」が隣りの世界線を並走する姿を、想像して、そこに飛び移る意欲を惹起する形だった。

「挫折」には「上京→不全→望郷→帰郷不全」という空間に関わるもの*と「青春→不全→回顧→ 慚愧の念」という時間に関わるもの**があった。通常の癒しなら「望郷」や「回顧」の美化によ る救いで終るが、敢えて美化を外し、挫折した「上京」や「青春」を引き受けて生き直しを迫る 点が共通する。そこに「辛いけど辛くない」という「もう一つ」の構えによる力づけがあった。

*石川さゆり「津軽海峡・冬景色」1976
**森田公一とトップギャラン「青春時代」1976

同じ構造を石野真子のアイドルソング「狼なんて怖くない」1978年にも見出せた*。あなたも 狼に変わるのですか、でもあなたが狼なら恐くない。要は「恐いけど恐くない」(微熱が出ち ゃうけど)。「辛いけど辛くない」「怖いけど怖くない」。令和の構えが「辛いからやめる」「怖い からやめる」なのを思えば、「辛いけど辛くない」「怖いけど怖くない」こそ「昭和の構え」だった。

*阿久悠作詞、石野真子「狼なんて怖くない」1978年

抽象化する。令和は「言葉・法・損得」への閉ざされ。昭和は「言外・法外・損得外」への開かれ。 総ゆる全体を⟨世界⟩、コミュニケーション可能な全体を⟨社会⟩と呼べば、⟨社会⟩は長く「社会= 法生活」と「社会の外=法外の生活」の両方を含んで初めて人を生きさせて来たが、⟨社会⟩が「社 会」に痩せることで人は力を失う。かくて90年頃から「ひきこもり」「過食・拒食」が問題化した。

90年代半ばにかけての「援交ブーム」と「カルトブーム」は、⟨社会⟩の「社会」への閉ざされに抵 抗して、「アジール=法外」を確保する企てだった。それも96年秋から失われ、法外の一切が 「過剰」として忌避される。援交どころか性愛一般も「過剰」とされて性的退却が始まり、オタ ク界隈も、語源であるマウンティングが「過剰」とされ、コミュニカティヴなオタクになる。

同じ96年から『とんねるずのみなさんのおかげです』を起点に「過剰」を「イタイ」と呼び始 め、性愛・オタク界隈に限らず「KYを恐れてキャラを演じる」=「平均というテンプレをなぞ る」作法が拡がる。腹を割る「親友」がいなくなって「友達」が「知り合い」に縮み、コクってイ エスでカップル誕生という変な営みが始まって「カレシカノジョ」は「恋人」とは言えなくなる。

96年の「アジール=法外」の消去と同時に、援交が「全能系」から「自傷系」にシフトしたのが 象徴的だが、「アダルトチルドレン」と「私も碇シンジ」の時代になる。つまり平成の初期数年 は過渡期で、それを過ぎると平成と令和は「辛いけど辛くない」「怖いけど怖くない」が消え てスーパーフラットに覆われた。「令和」的なものは96年に始まって既に30年弱続いている。

なお96年秋までナンパ師だった経験で言えるのは、96年を通じて渋谷などの街で目が合わ なくなった。誰もが全力で視線を避ける。僕のやり方が通用しなくなってナンパをやめた。 知らない人と目が合うだけで瞬時に「同じ世界」に入れる「街」を描いた作品は今のところ一つ しかない。タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督『トロピカル・マラディ』である。*

*『トロピカル・マラディ』は宮台が私的に作ったもの以外に日本語版がなく、現在、デジタ ル版プロデューサーのトモ・スズキさんより依頼され正式な日本語字幕を作成中。英語字 幕版はこれ。 台詞が少ないので充分に理解可能だと思う。

だから若い世代は「昭和の微熱」を想像し難い。だが2020年から3年弱の「自粛とマスクのコ ロナ禍」を経て変化した。初期はリモートを呪って対面を希求する者が過半だったが、「コ ロナ明け」には対面を嫌ってリモートを望む者が激増。僕が関わる「森のキャンプ」でも、森 に放して好きに遊べと促すと「何をしたらいい?」と問う子が出て来る前代未聞の事態になる。

マクロには子供や若者の身体・感情能力の劣化が目を覆うほど進みつつあるが、ミクロには 2023年新学期から歌謡曲など昭和コンテンツ史を分析したり日本の経済・政治・社会的劣化 を分析する講義に集まる学生が倍増した。理由の第1は、僕が過去十年ほど訴えてきた経済 指標・社会指標の劣化を、「見ないふり」が出来ないほど、劣化を実感する事態になったこと。

第2に、20歳前後の社会人スタート世代に「沈みかけた舟の座席争い」を見切る者がマイナー であれ倍増したこと。豊かな「微熱の昭和」を知らぬがゆえに現状維持に淫する「生活満足度 が高い」若者が多いが、「昭和」を知らずとも周囲の身体・感情能力の劣化(安全・便利・快適厨 の激増)ゆえの「つまらなさ」に耐えられない者が増えて、講義に来る学生が増えたのだろう。

それを示すのがクドカン脚本のTVシリーズ『不適切ににもほどがある』の今年3月の人気 だ*。そこでは2024年が神経症的な「享楽なき正義」の時代として描かれ、「享楽を奪わぬ程 度の正義」の時代だった86年と対照される。なお92年にローティは、「享楽なき正義」の蔓 延が「正義なき享楽」を招き、「法を侵したアベやトランプを断固支持する時代」を予言した**。

*TBSドラマシリーズ『不適切にもほどがある』2024年
**リチャード・ローティ他『人権について』原著1992年

いわく、やってる感左翼が「リベラルな正義を法化すれば社会が変わる」と思い込んだ。そ う思えたのは、豊かで「バスの座席に余裕があった」から。だから貧困層が増え「座席に余裕 がなくなる」と「俺の席だ、黒人はどけ」的な営みにバックラッシュする。法化より大切なの は、「黒人と白人や女と男が混ざること」が享楽であるような感情を育て上げる営みだ、と。

数理哲学から突如プラグマティストに転じたローティは「つまらなさ」を主題化した。プラ グマティズムは、「力が奪われる/力が湧く」という図式を用いる二百年前のエマソンに由 来する*。だから「言葉より動機付け」「認識より関心」「真理より光」。何が真理・正義かを認識 しても、力が湧かなければ人は真理・正義を行わないとし、ニーチェに大きな影響を与えた。

*ブリス・ペリー編『エマソンの日記』原著1914年(1820-75年の日記)  

「怖くても怖くない」「いけなくてもいけなくない」という感情が人に力を湧かせること。そ うした感情が子供時代から自由に一緒に遊んで育まれること。説教ならぬ対等な揉み合いだ けが「法が許さなくても私は許す」という感情を育むこと。そうした感情を欠く社会が「正し さ地獄」になること。「エマソン→デューイ*→ローティ」と継承された当たり前の思考である。

*ジョン・デューイ『経験と教育』原著1938年

マイナーな思考ではない。「律法に従えば救われる」を批判して内から湧く力を重視したイエ ス。遡れば「いいことがあるからする」を批判して内から湧く力を重視した初期ギリシャ。総 じて「条件プログラム=自発性」ならぬ「目的プログラム=内発性」を推奨する思考の流れを汲 む。2500年間の思考伝統からして、「正しい令和」より「やや正しくない昭和」が「善」なのだ。

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第2回「後半」口上:「ここではないどこか」から「ここの読み替え」へ、やがてマジガチ

「昭和の微熱」の正体は、「怖くても怖くない」に加え、「ここではないどこか」への希求である。 60年代歌謡曲に頻出したモチーフだ*。60年代後半の学園闘争は「ここではないどこか」とし て中共や北朝鮮を希求した。期待外れで挫折した後は「ここではないどこか」実在(実数)から 虚構・想像(虚数)にシフトした。それが60年代末からの「アングラ」と呼ばれる表現運動だ。

*小林亜星作詞・作曲、ブリジストンCM「どこまでも行こう」1966年
西岡たかし作詞・作曲、五つの赤い風船「遠い世界に」1969年  
寺山修司作詞、カルメン・マキ「時には母のない子のように」1969年  
山上路夫作詞、赤い鳥「翼をください」1970年  

若松孝二・足立正生らは「風景論の映画」を通じて*「ここではないどこか」が実在しないと繰り 返し描いて不可能な革命を「美学」に切り縮めて擁護し、寺山修司は望郷の「ここではないど こか」を実在する記憶ではなく敢えてする記憶の捏造として擁護したが**、不可能な革命や望 郷を虚数的(想像的)に擁護する営みが、想像の根拠となる育ちに依存したので***続かなかった。

*足立正生脚本・若松孝二監督『ゆけゆけ2度目の処女』1969年
**寺山修司脚本・監督『田園に死す』1974年  
***黒木和雄監督・大塚叶製作『祭りの準備』1975年  

育ちとは幼少期の「もしこうだったら」という「ここではないどこか」の想像可能性。60年代 は新幹線が東海道だけで空間移動に途方もなく時間がかかったから「線路が続くよどこまで も」と歌いつつ踏切の汽車見物にかじりつき、電車運転席に貼り付いた。集団就職も出稼ぎ も途方もないから都会への憧れや故郷への思いがあった。革命や望郷を虚構できた前提だ。

中高紛争の挫折後、そんな育ちがない僕らには既に不可能だった。アノミーに陥った僕らは 「麻布のお坊ちゃま」ならではの別の「過剰」̶やな奴ごっこ̶に向かった。葉山で兄貴分が 操船するヨットでナンパしては、高畑勲・宮崎駿のお蔵入り『太陽の王子ホルスの大冒険』 1968年*の上映会・セル画展をして彼らのインタビューを敢行した。誰もできないだろ? と。

*高畑勲監督『太陽の王子ホルスの大冒険』1968  

つまらない「ここ」を、「ここではないどこか」を使わず、敢えてゲーム的に「ここを読み替え る」ことでしのぐ営み。それが予想外の事態に繋がる。71年入学の僕らより2学年下から対 人能力を軸にナンパ系とオタク系が分離した。敢えて「ここを読み替える」意識が消え、マジガ チになった。僕と同じことをしていても下の世代とのギャップを意識せざるを得なくなった。

サブカルチャー史を研究すると、PARCOオープンに伴い、風俗街だった区役所通りが「公 園通り」と名前を変えた1973年に、「ここではないどこか」から「ここの読み替え(読み替え られたここ)」へとコミュニケーションモードが変わったと分かる。当初は敢えてする「シャ レ」(『ビックリハウス』)だった*。ところが1978年からマジガチの「オシャレ」に変わった。

*ウィキペディア ビックリハウス  

御存知イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が象徴的だ。小汚い東京も、ウォークマン でYMOを聴けばオシャレなTOKIOに早変わり(笑)*。細野晴臣(シャレ雑誌『ビックリハウ ス』常連執筆)一流のシャレ。中国人民服姿でジャケを飾った。ところが、伝承記憶を喪失 した世代が、マジガチで「オシャレ」だと受け取った。この勘違いで大ヒットしたのだった。

*YMO『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』1979年

「昨日までの風俗街が今日からデートスポット」。71年から出入りする僕らにとっては「なん ちゃって(笑)」でしかない。だが2学年下から「マジガチ」に変わる。後の『アースダイバー』 *的に「ここを読み替える」カタログ雑誌『植草甚一編集宝島**』が『POPEYE***』のデート マップに変わる。読み替えに必要な記憶が消え、若者はナンパ系とオタク系に分類された。

*中沢新一『アースダイバー』2005年  
**ウィキペディア 植草甚一  
***ウィキペディア POPEYE  

「ここではないどこか→ここの読み替え(ゲーム)→記憶喪失(マジガチ)」。「ここではないどこ か」は、異界と一体だったが、「ここの読み替え」を経た記憶喪失で、異界は消えた。異界と は*1悪所(色街・芝居街)、2裏共同体(やくざ界隈)、3もののけ界隈。総じてevacuation (逃避場所)だ。それが失われると生き辛くなって、ひきこもり(当初は登校拒否)も生まれた。

*宮台真司他『ルポ 日本異界地図』2023年

歌謡曲を含む60年代コンテンツの「微熱=眩暈」は「愛欲・情欲や、都会と未来の魅惑や、学園 闘争」を指したが*、全て消えた。愛欲・情欲は死語になって性欲に縮んだ。他方70年代半ば から生じた「街の記憶喪失(公園通り)」を見ると、「微熱」が異界(色街・やくざ界隈・もののけ 界隈)と一体だったことが判る。異界は、生活に隣接する「ここではないどこか」だったのだ。

*橋本淳作詞、いしたあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」1969年  

異界という「ここではないどこか」の喪失は新住民(土地に縁なき者)によるジェントリフィケ ーション(環境浄化)と一体だった。延々と続くフラットさ=つまらなさ。記憶伝承や異界と 結びついた⟨ここ⟩は、記憶喪失の「ここ」に頽落した。生き物としての「場所」は、機能的「空 間」に頽落した。だが若い世代はかつてを知らず、クオリアがないから現実を変えられない。

ならばクオリアを与えよう。ただし若い世代は、外遊びでのカテゴリーを越えたフュージョ ン体験を欠き、「怖くても怖くない」ならぬ「怖いからやらない」ので、途上国を含め異界(悪 所・裏共同体・もののけ界隈)に入らない。数少ない方途がインターネットの動画アーカイブ の配信を追い風とした古いコンテンツの体験と、かつての時空を描いた新作コンテンツだ。

経済の垂直降下と、コロナ禍を経た更なる感情的劣化を背景に、周囲と自分の「つまらな さ」を自覚して、「泥船の座席争い」から離れたがる少数者が増えた。ならば、つまらない(= 自分から力を奪う)環境とつまらない(=人から力を奪う)自分から、わくわくする(=力が湧 く)環境とわくわくさせる(=人に力を与える)自分にどうシフトするか。そのヒントを与える。

なお、第1回と同様に『サブカルチャー神話解体』1993年が参考になるだろう。

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