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脱皮

私がその仕事を始めたのは数年前のことだ。

就職氷河期と呼ばれる世代に生まれ、見事その波に飲まれた私は非正規での仕事を転々としていた。
一時期は一向に改善されない現状に嫌気が差し、いっそ警察に捕まってしまえば働かなくて済むかなと考え、夜中に通り魔騒ぎを起こしたが、結局通りすがりの元大学野球選手に取り押さえられ未遂で終わってしまったこともあった。

そんな踏んだり蹴ったりの私にも、ようやく天職を見つけることができた。そう、それは着ぐるみアクターの仕事だ。

最初に見かけたのは小さなチラシ広告だった。「子どもたちに夢を見せたい方、絶賛募集中」の文字が躍るそれはひどく陳腐に映ったが、目を疑ったのは給与額だ。これまでしてきた仕事の中でも断トツで高かったのだ。こんなに羽振りがいいのなら、どうせ募集は経験者のみだろうと広告を読み進めていくと、未経験者歓迎のフレーズが飛び込む。

気づいた時には携帯で電話をかけ、面接の約束をしていた。そのままことは順調に進み、私は四二歳にして都内でも三本指に入る遊園地の大人気キャラクター、熊太郎の中に入ることになった。

熊太郎は昨今のゆるキャラブームに乗じて制作されたマスコットキャラクターで、栗色で少し腹の出たボディーと真ん丸の瞳が特徴的な熊だ。遊園地の広告にも大きく映し出されており、関連グッズの売れ行きも相当に好調らしい。
ではなぜそんな人気キャラクターに入れることになったかというと、採用面接であくまで面接官のふりをしていた社長の鶴の一声によるものだったのだ。

「熊田光太郎さん。熊に光、か。うん、いい名前だ。君なら熊太郎を任せられそうだ」

こうして、名前がいいというだけの理由で、未経験かつ全く愛着のない熊太郎のアクターに命ぜられた私は、早速研修で最初の壁にぶち当たることとなった。そう、想像の数倍は着ぐるみが重たいのだ。こんなに負荷がかかった状態で、軽快なタップを踏み子どもたちに風船を配ることができるのだろうか。しかし、それが熊太郎のアクターを続けていく最低限の条件だった。

しかし、私も生活がかかっていた。生きていくため、私は熊太郎になりきるんだと覚悟した。来る日も来る日も熊太郎の着ぐるみを着て、まずはその重みを体に慣らすことから始めた。四十肩の常連である私をさらにひどい肩こりが襲ったが、そんなことにはめげず熊太郎の着ぐるみを着続けた。

ついには睡眠中に見る夢にまで熊太郎が出現し、「無理しないでね」と上目遣いで語りかけてくるではないか。
「いや、今まさに人生の転換点なんだ。私はもう何も諦められないんだよ」
可愛らしいマスコットにこんな台詞を言うのはどうかと思ったが、私は確かに夢の中でそう言っていた。

そして、ついにその日はやってきた。
そう、私はある朝から熊太郎と同化していた。そんな未来がやってくるとは全く予想だにしなかったのだが、どうやら昨晩はダンスの自主練習の途中、疲労のあまり着ぐるみを着たまま寝てしまったようだった。

起床後はなぜだか体に重さを感じず、出勤する準備をしている途中で着ぐるみを着っぱなしだったことに気づき脱ごうとするものの、背中のファスナーに当たる部分が綺麗さっぱりなくなっていた。姿見で何度も確認するも、やはりない。
そう、私は正真正銘、熊太郎になってしまったのである。

結局、その姿のまま仕事現場に向かった。スタッフは一同に笑い、「熊田さん、仕事熱心ですね」と冗談を言ってくる。まさか、「着ぐるみが脱げなくなってしまって」とは言えず、愛想笑いを浮かべながら遊園地の開園時間を迎えた。その日は三連休の初日で、いつもより多くの子ども連れが来園した。

「わー! 熊太郎だ!」

たくさんの子どもたちに囲まれ、身体をベタベタと触られる。それはまるで直接肌に触れられるような感触で、私は思わず驚いた。本当に熊太郎になってしまったのか? 体もやけに軽く、今まで苦戦していたタップダンスもお茶の子さいさい。私に向けられた拍手喝采は、しばらく鳴り止むことがなかった。

スタッフから聞いたのか、その日の夕方に社長が姿を見せた。

「熊田くん、すごいじゃないか! 今日の君は一味も二味も違うって聞いてるよ」

なんて返せばいいのか分からず、「ありがとうございます」とだけ言う。私自身も、今日は一味も二味も違くて、驚きを隠せていない。
 
数週間が経っても、一向に着ぐるみを脱げそうな気配はしなかった。
しかし、ここで一つ心境の変化が生じていることに気づいた。それは、もうこのままでもいいかなと思い始めていたことだ。熊太郎として生きる方が大勢の人間に見てもらえる。

これまで熊田光太郎は表に出てはいけない人間なのだと思い込んでいた私にとって、着ぐるみがあれば表舞台で颯爽とパフォーマンスができる。そして、たくさんの人たちにも喜んでもらえる。つまり、清々しいほど、人生が変わったのだ。

それからというもの、私は熊太郎として堂々と生活を送るようになった。
人目を忍んで深夜のコンビニで買い物をするのも辞め、堂々と昼間からスーパーで総菜を買う。周囲は何かのイベントか、はたまた撮影かと勘違いし、子どもはもちろん大人まで集まってくる。少し冗談を言うだけで、どっとみんな笑ってくれる。私のコンプレックスだった自信なさげな小声は、むしろ熊太郎の魅力あるギャップとして受け入れられ、その人気ぶりをさらに加速させてくれる。

買い物だけではない。年に一回の予防接種もこの姿で受けた。看護師さんは首を傾げつつも、うまく血管を見つけ針を差し込んでいく。やがてその病院には「熊太郎さんが来院されました」の一文付きで私のサインを飾り出す。

そうした生活に慣れ始め、仕事ぶりも順調に進んでいた頃、遊園地に新しいマスコットキャラクターが登場した。真っ白で華奢な体つき、柔らかそうな耳が特徴的のうさみんだ。

熊太郎人気ですっかり他遊園地の売上を圧倒していたことをチャンスと捉え、やり手社長の次なる一手が、マスコットキャラクターの新規制作だった。
第二、第三の熊太郎に続けと、制作陣には全国ゆるキャラ大会でも上位入賞に尽力した有能なデザイナーを引き抜いて作らせたという。それほどまでに当園の業績はうなぎ登りなんだと、私は表情一つ変えない熊太郎の中で人知れずにんまりしていた。
 
そして、そのうさみんとの初対面は十二月のクリスマスイブだった。
大人のカップル向けアトラクションを増設させ、第二のディズニーランドを目指す当園の実験的な試みの中、私とうさみんはシックな衣装に身を包み、来園者を待っていた。

ちらりとうさみんを盗み見る。着ぐるみからではあるものの、そのシルエットは洗練されており、無駄を感じさせない。果たしてどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、内心楽しみでもあった。

入念なリハーサルをこなし、ようやく開園を知らせる音楽が鳴り響く。子ども人気に乗じて大人の人気も獲得できると踏んでいた私であったが、まさか新参者のうさみんにその全てを奪われるとは思わなかった。華麗なステップを踏み、愛らしさの中にかっこよさを織り交ぜたダンスパフォーマンス。私もすっかり虜になる。

そして、その気持ちはパフォーマーとしてでなく、うさみん自身への好意そのものなのだと、ホワイトクリスマスとなった雪舞う遊園地の中で、私は確信したのだった。

だが、着ぐるみの取れない男など相手にされないだろうと、すぐに考える。相手は恐らく熟練のダンサーであり、きっと業界でも成功者なのだろう。偶然熊太郎と一体化できた私なんか、棚から牡丹餅でしかなく、成就しそうにない好意は早く捨てた方がいいのだろうと思った。

しかし、そう思えば思うほど、うさみんへの想いは強まっていく。あんなに可愛らしいウサギがこの世界にいるとは、考えもしなかった。どうにかして、うさみんと結ばれたい。

そんな淡い恋心を打ち砕くのは、まさしく自らの失態だった。
それは当園の事業拡大の一環で行った営業活動で、遠出した時のこと。昼休憩を仕事現場近くの小さな公園で取ろうと思い、ベンチに座りお手製の弁当を食べていたら、偶然そこをうさみんが通ったのだ。彼女は間違いなく私と目が合い、その大きな口にから揚げが運ばれるのを目撃した。

一巻の終わりだと思った。なぜ着ぐるみを脱がず弁当を食べているのか。そして、なぜ飲み込むことができるのか。恐らく彼女の頭の中は?でいっぱいだったろう。少なくとも、私が実際に熊太郎として生きているとは思ってもらえなかったはずだ。

翌日。
私はうさみんに本当の姿を晒した喪失感のあまり辞表を提出した。辞表を書く手は震え、所々涙で濡れていたが、社長は何も言わずそれを受け取った。
「何があったのか知らないけど、君ほどの逸材を失うのは残念だよ」
その言葉に、私はただただ熊太郎の大きな頭を下げるほかなかった。

トボトボ歩く河原沿いには季節の変わり目を知らせるかのような冷たい風が吹いている。
最後の仕事を終えた私はその場所を踏みしめながら、辺りの景色を見ていた。上空には雲一つない美しい夜空が顔を出していて、すっかり心奪われる。

星々を見上げながら歩いていたせいで途中石につまずき、転んでしまう。自分が情けなくて仕方がなかった。擦りむいた傷口からは血が流れることもなく……。
ん!? 馬鹿な、そんなはずはない。着ぐるみが脱げなくなって間もない頃、料理中に誤って手の指を切った時にはちゃんと血は流れたはずだ。もしや、と思い背中の方に手を伸ばす。すると、随分前に触ったことのあるファスナーがそこにはある。

状況が理解できず、いや、むしろ今までの方がおかしかったのだと改めて頭の中を整理していると、背後から可愛らしい声がした。

「あ、あの! 熊太郎さん!……じゃなくて、熊田さん!」

そこにはうさみんが立っていた。走ってきたせいか、肩で息をしている。

「仕事、今日で辞めちゃうんですよね」

確認するように私に問いかけてきた。大きな瞳は何もかも吸い込んでしまいそうで、猛烈な勢いで彼女に恋をしていたのだと、いや、今もしているのだと再認識する。

「はい。今日で終わりです」

思ったより落ち着いた声が出た。人間、曲がりなりにも歳を重ねると平静を装えるものだな、と思う。

「熊田さんのこと、尊敬してます」

近くを走る電車の音も、遅い帰宅になった子どもたちの騒ぎ声も、季節を知らせる虫の鳴き声も何もかも立ち止まって、その一言だけが胸に届く。

休憩や食事中にまで着ぐるみを着て役に集中していること、スタッフから聞いたことのあった着ぐるみ生活を本当にしていたこと、未経験だったのにみるみるうちに実力をつけ着ぐるみアクターとして遊園地の売上に大いに貢献したこと。次第に私は彼女の言葉を聞くだけで胸がいっぱいになり、涙が込み上げてきた。

「わたしも、熊田さんみたいに仕事に熱中したくて」

そう微笑んだように見える彼女は、私を公園で見かけた日から着ぐるみを着たまま生活をしているらしかった。そして、彼女は神妙な面持ちで聞いてきた。

「でも、この着ぐるみって、たまに脱げないことありませんか?」

私はその瞬間、初めて彼女と分かり合えたような気がした。私は一つ深呼吸し、熊太郎の重みを久しぶりに感じつつ、まるで愛の告白をするかのように顔を赤めて言った。

「私も脱げずに困っていたんです。でも、どんなに成長の遅いサナギも、いつかは脱皮できるみたいで」

その後に続く言葉を待つように、彼女はより一層特徴的な耳を立てる。彼女は元々どんな人生を歩んでいたのだろうか。頭の中で想像を膨らませながら、熊田光太郎は彼女に背を向けた。そして、またもや?マークが浮かんでいる彼女の前で、背中にあるファスナーを迷いもなく一直線に下げていった。

皆さんから大事な大事なサポートをいただけた日にゃ、夜通し踊り狂ってしまいます🕺(冗談です。大切に文筆業に活かしたいと思います)