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始発まで、もう少し。

このちっぽけな28年の人生でも、かつてないほどの全力疾走をしていた。

履きなれているはずの革靴は、専門外の「走る」という行為に嫌気が差しているかのように、自らの足をずきずきと痛めつけてくる。
許してくれ。僕も本当はこんなことをするのは本望ではないのだ。
 
「まもなくドアが閉まります。駆け込み乗車はおやめください」
やめてくれと言われなくても、僕はこれまでその場の雰囲気を察し色々なことを諦めてきた。
 
小学生の頃。周りのクラスメイトと同じく通いたかったサッカー教室。
うちは母子家庭で生活が苦しかったし、なにより仕事で疲れ切った母の顔を見ていたら、そんなわがままは言えるわけがなかった。

中学に上がり、好きな人ができた。
でも、その子の話を聞いているうちに、どうやらサッカー部のキャプテンのことが好きだということが分かり、何も言わず離れた。
あの時、母に気を遣わずに素直に「サッカーを習いたい」と言っていれば、もしかしたらその子の意中の人になれたかもしれないのに。

高校生になると、そんな空気を読みすぎる性格から誰にも話しかけることができず、そして誰にも話しかけられることもなかったので1人も友達ができなかった。
 
半ば押し付けられるような形で図書委員になり、そこからは本の虫になった。
無料で本を借りることができる。こんな幸せなことってない。そんな風に思った頃には、読むだけでは飽き足りず小説のようなものを何作も書きためていた。

ある時、高校主宰の小説コンクールが開催されたので応募してみたら、大賞は逃したものの入賞することができた。そして、僕が書いた小説を含む入賞作品が全校生徒に配られる冊子に掲載された。
それを実際に手にした時以上の喜びは、これからの人生でもう味わえないかもしれない。僕にとって、そのくらい嬉しい出来事だった。

でも、少なくともうちのクラスでは配布されるなりゴミ箱に捨てているクラスメイトが何人もいた。
それぞれが部活や勉学、恋愛にのめり込んでいく様は青春そのもののように見えたが、誰も僕の青春の1ページを開こうともしてくれなかった。もちろん、入賞へのお祝いを言ってくれる人も、ましてや感想をくれる人なんて誰もいなかった。
 
高校3年のバレンタインデー。
友達すらいない人間がモテるはずもなく、クラス全員に配ってくれる気前のいいクラスメイトからの義理チョコ以外もらったことのない僕だったが、その日初めて想いの込もったチョコをくれた人がいた。
それは、宛名も差出人も書いていない短い手紙とともに下駄箱に入っていた。

「コンクールの入賞作品を読んで、言葉では伝えきれないほど感動しました。私にとって、何年経っても大切な小説になると思います。一方的な好意ほど怖いものはないと思いつつも、先輩がもうすぐ卒業してしまうこともあって、思い切って送ります。お口に合えば嬉しいです」

僕に、というより僕の書く文章に惚れているだけだと何度も言い聞かせた。でも、やっぱり嬉しかった。
丸みを帯びた文字の輪郭と言葉のチョイスだけで容姿を想像してみたりしたけれど、未だに誰からもらったものなのか分からない。

丁寧に梱包された小さなハート形のチョコは少し苦く感じられた。でも、僕にとっては紛れもない、甘酸っぱい青春の1コマだった。
 

ほんの数秒の間に感傷に浸ってしまった。
今までの人生、色々と諦めてきたけれど、しかし、今は違う。

職場の同僚の紹介で出会った、僕にとって初めての恋人、友香と付き合い始めてちょうど2年が経った。そんな記念日である今夜、友香の部屋に行く約束をしている。

「夕食準備して待ってるね。お祝いにケーキも買っておくから。陸人は仕事頑張って!」

前回会った時の友香の様子を思い出す。仕事が立て込んでいるから終電になるかもしれないとLINEは入れてあるが、そのデッドラインを破るようなことがあってはならない!
 
……とは思いつつ。
仕事のせいで会える時間がすれ違うたび、友香との心の距離も離れ始めていると感じる今日この頃。
付き合う前はとても優しく接してくれていたのに、恋人関係になってからは時折突き放すような物言いに違和感を抱いていた。

でも、友香にはいいところもたくさんある。
どんな場面、またはどんな人が相手でも臆せず筋の通った意見を言ったり。自他共に認めるほどの負けず嫌いだが、人には見せない努力をたくさんしていたり。
僕には持ち合わせていない、そんな魅力の数々は、恋人というより人として見習うべきところがたくさんある。

きっと、友香を攻撃的にさせているのは僕に原因があるはず。だから余計にこれ以上、友香を傷つけちゃならないんだ!

もしかしたら、社会に出て少々図々しくなったのかもしれない。
そうだ。世の中そんなやつばかりだ。気遣いや遠慮など必要ない。守るべきもの、譲れないものがある時、人はわがままになっていいのだ!
 
改札を抜けると、数メートル先に本日の最終走行を告げる電車が佇んでいた。
僕はさらに加速し一目散に駆け抜ける。革靴はまるで悲鳴を上げているようだが、あと少し踏ん張ってくれ!
ここまできたら行くしかない!僕はなんとしてもあの電車に乗るんだ!

まさにその様は、サッカーなど習ったこともないのに、華麗なドリブルによって何人ものディフェンダーを抜き去りながら、ただひたすらにゴールに向かう、エースナンバー10番を背負ったサッカー選手のようだった。
 
と、同時にあっけなくドアが閉まった。えっ?
やがて、車体はプシューと息を吐くような音を出し、最後の仕事を遂行するため、帰宅を保証された人たちを詰め込んで走り出した。
 
ああ。ああ……。
なんてあっけのない。なんて残酷なんだ。繁忙期とはいえ、こんなにも働いた末に終電に見放され、そして恐らく近い将来、僕は友香にも見放されるのだろう。

頼む……!頼むから行かないでくれ!
そう心のうちで叫んでも、もちろん電車は停まらない。僕は茫然とした表情で、その車体を見送ることしかできなかった。

 
トボトボと改札に戻り、駅の出入り口付近に設置された小さなベンチに力なく座る。
田舎町のせいか、タクシー乗り場に車などあるはずもなく、僕と同じく帰宅を試みるもあえなく散った人たちが、感情をなくしたように立ち尽くしている。

あまりやる気は起きなかったが、一応スマホで始発電車の時刻を調べてみる。
始発電車5:02発の表示を見て、あと5時間はあるぞと思う。

……。

いや、今はきっと、職場の上司から毎日のように言い聞かされているポジティブシンキングを発揮する場面!
5時間なんて、きっとあっという間だ!どんな時も前向きに生きようではないか!
 
……はあ。でも、友香になんて言おうか。
素直に事の顛末を吐いてしまえれば楽なのだが、そうすると「でも、終電で帰るって言ったじゃん!」と言い返されるのが目に見えている。
ここは一丁、「仕事が終わりそうになくて、やむを得ず会社に泊まることになった」と方便を言った方がいいだろうな。

と考えるうちに、遅れてやってきたかのように強烈な眠気が僕を襲う。そういや今日は朝7時から働き詰めだったな。いっそのこと、ここで夜を明かすしかないか。

 
「あの。すみません」
そんなことをがっくりと頭を下げながら考えていると声をかけられた。
顔を上げると、同世代らしき女性がいた。肩まで伸ばした黒髪と純粋な輝きを放つ黒目がちな瞳が印象的な人だった。
 
「これ。先ほど落としましたよ」
そう言われ、手渡されたクマキチのキーホルダー。熊をモチーフにしたゆるキャラのようなクマキチと目が合う。
1人暮らしをする僕の部屋の鍵と友香の部屋の合鍵が収納されたキーケースに取り付けられていたものだ。さっき猛ダッシュしたせいで落としたのだろう。
 
「ああ。ありがとうございます」
それを力なく受け取る。僕の落とし物を拾ってくれた恩人にもかかわらず、感謝の声も弱弱しい。多分、こういうところが僕のダメなところなんだろう。
 
「それクマキチですよね。可愛いですよね」
 
「ああ。うん。そうですね」
 
「クマキチって、『Ted』に似てません?ほら!この鼻のあたりとか」
 
そう言って、クマキチのキーホルダーを指差しながら説明をし始めた。
熊の鼻なんてどれも同じようなものだろう、と思いながらも
「確かに。でも、女性であの映画の話をする人に初めて会いましたよ。あんな可愛い顔して、あの熊はドラッグや酒に溺れるような、ダメなやつですからね」
と、思わず熱を入れて返していた。
 
「確かにちょっとお下品な描写もありますが、私はあのくだらなさが好きなんです。たまにはあんな映画があってもいいのかなって」

僕が『Ted』をこよなく愛好する人間だったらどうするつもりだったのだろうと思ったが、そもそも僕もファンにとっては聞き捨てならないことを口にしていたのでお互い様だった。
なんだかそんなやり取りが可笑しくて、僕は声を出して笑っていた。彼女も楽しそうに笑うものだから、そこから他愛もない話をいくつかした。
 
気づくと、さっきまでの眠気はどこ吹く風。覚醒し始める脳とお喋り。
「こんなところもなんですから」と僕はここら辺で唯一知る、早朝まで営業しているチェーンの居酒屋で始発が走り出すまで一緒に飲まないか聞いていた。彼女は心なしか目を輝かすように、その提案を快諾してくれた。
 
それぞれビールとレモンサワーを注文し、乾杯する。
初対面で、しかもサシで女性と酒を飲むのは初めてだった。でも、そうとは思えないほど話は盛り上がった。

お互いの趣味趣向が小説や映画だったこともあり、それぞれ好きな作品を語り合い、熱弁し合った。
特に、僕たちが敬愛する坂元裕二と辻村深月の作品群について、それぞれの作品に抱く想いの丈をぶつけ合った。その様子は、さながら文学と映画についての討論会だった。

こんなにも饒舌に人と話したのは初めてかもしれない。
口が追いつかなくて何度も噛んでしまっても、彼女は一言一句漏らさずに聞いてくれている。相手の話も聞かなくちゃと思いながらも、僕は実際のところ彼女の倍は話していたと思う。それくらい、彼女と話すことが楽しくて仕方なかった。

始発なんてあっという間にやってくる。
さっきはそう言い聞かせていたが、今では同じ言葉でも違う意味のような、そんな感覚で時間は過ぎていった。

 
不思議だ。毎日生活を守るために必死に働いて、下げたくもない頭を下げて、実はとっくに愛想を尽かされているのではないかと思っている友香との将来を思い描くたびに、自分の人生って一体何だろうと、朝起きるたび自然に考えていた。

でも、こうしてなんの利害関係もなく話せる人がいると、ふっと心が軽くなる。
「本来、君はこんな感じだよ」と教え諭してくれるような。普段の自分はまるで何かの役柄を与えられていて、大根役者ではあるけれど毎日その役を必死に演じなければならない。そんな状況に陥っているだけなのではないかとさえ思える。つい乾いた笑いが込み上げそうになった。

 
「本当は文章に携わる仕事がしたかったんだ」
いつしか、そんな本音を語っていた。あまりにも不思議で、しかしごく自然な流れに沿って。誰にも明かしたことのない心の声を彼女に上げていた。
 
「編集者やライター。出版業界への憧れを持った時期もあったけど、もうずっと出版不況でしょ。大手ならつぶれるなんてことはそうそうないだろうけど、僕には大手に入社できるほどの実力はなかった。結局、安定しているというだけの理由で、興味のない食品メーカーの営業職に就いて今があるって感じで」
 
「いつからか、なんで自分の向いてない方角にばかり走っているんだろうと思うようになっていて」
 
「ごめんね、急に」
またもや感傷に浸ってしまっていた自分に気づき笑ってみせると、彼女は「いえいえ」といった様子で首を横に振る。
 
「何事もポジティブに捉えて前進することが最良とされる世の中ですけど、別にネガティブになってもいいと思うんです。むしろ、ネガティブこそ人を強くする。なんでもうまくできて要領よくこなしてしまう人より、挫折を知りながら痛みとともに前に進む人の方が私は好きです」

「私も生きていてうまくいかないことばかりで。挑戦より安定、納得より後悔を選び続けてきた私にとって、小説や映画だけが唯一の友達でした。私のことをいかにも分かったつもりでアドバイスしないし、ましてや私の選択を肯定や否定もしない。誰かの生き様だけがそこにあって、ただそばにいてくれるだけでそっと背中を押してくれる。まあ私の場合は享受ばかりしていて、その友達に何も返せていないことに時々やるせなさを感じたりしますけど」

「私は物なんて書いたこともないし書けるわけもないですが、もし『人生』が一つの物語で自分自身が作者だとしたら、『これからの人生、こうやって生きてみたい』と思ったがままに、自分の『人生』という物語を書いてみたい。自分の身に起きた喜劇も悲劇も全部、心の中で思い描く結末の導入に過ぎないって。そう思い込むだけで目の前の出来事が愛おしく思えます。もちろん、それを読んで批判する人もいるでしょうが、きっと賞賛してくれる人だっていると信じて。ちょっと図々しいですかね」

ついさっき僕が考えていた“図々しさ”について話す彼女を見て、思わず笑みがこぼれた。
同じことを考えていても、人によってその表現は変わる。彼女の表現の仕方は、僕にはまったくなかったものだった。

「ステキな考え方です。僕は目の前のことでいっぱいいっぱいになっちゃう方なので、今歩んでいる人生をそんな風に思ったこともなくて。きっと物を書いてくれたら、一番の読者になる自信があります」

そう言うと、彼女は照れ笑いしながら「そんなそんな」と謙遜した。その様子が少し可愛いと思ってしまう僕がいた。
 
「いつか、私も読んでみたいです。陸人さんの文章」
 
 
腕時計の時刻を確認すると、4:50を回ったところだった。あと少しで始発が走り出す。
彼女もその様子を見てか、「そろそろですね」と小さな声で言った。
 
会計は希望して僕が持った。外に出ると、空は少し白み始めていた。
スマホは恐ろしくて見ることができない。友香が眠ってしまっているなら幸いだけど、きっと起きている。今夜会えることを相当楽しみにしている様子だったから。それなのに、僕は友香以外の女性と、ついには飲み明かしてしまった。

でも、これが僕の今の気持ちなのかもしれない。
きっとタクシーを呼んで急いで帰ることもできただろう。または終電を逃してしまった事実をLINEするくらいのことは行うべきだった。悪いことをしてしまったけれど、結局のところ気持ちが追いつかなかった。
 
「では。短い時間でしたが、色々とありがとうございました。楽しかったです」
改札に入った辺りで、そう言って頭を下げると、彼女は温かい返事をして小さく手を振った。ホームに続く階段を小走りで駆け上がる彼女を見送り、僕も反対側のホームへと歩き始める。
 
人がまばらなホームに到着し、さっき過ごしていた時間がまるで夢のような心地だったことを思い出しながら、ふと彼女との縁を繋いでくれたクマキチのキーホルダーを見つめてみる。
そういやこのキーホルダー。さっきは何気なく話していたけれど、これって確か、うちの高校オリジナルのキャラクターじゃなかったか。

なんとか過去の記憶を辿った甲斐あって思い出した。そうだ、創立50周年を記念して全校生徒に配られたものだ。
さっきは終電を逃したショックで反応できず、そんなことを今頃になって気がついた。
 
と同時に、小気味よいLINEの通知音が鳴った。 
友香だと直観し、「もう仕方ない」と思って画面を見ると、さっきの彼女からだった。
別れ際、「もしよかったらLINE交換しませんか?」と遠慮がちに言われるがままIDを教えたことを思い出す。
そして、僕は話の中で一方的に名乗っていたが、トーク画面に表示されている彼女の名前を見て、僕は話し相手の名前すら聞かず、話すことばかりに熱中していたことに気がついた。

ちなみに友香からLINEはきていなかった。本格的に愛想を尽かされてしまったのだろう。
以前「本当に怒っている時は面と向かってでしか物を言わないから」と話していたことが頭を過った。今度友香と会うのがとても怖い。

 
「先ほどはありがとうございました。実は私、陸人さんと同じ高校の後輩の相原です」
 
「ずっとこんな風に話してみたかったんです。陸人さんの話に夢中になっていて、すっかり名前を言うの忘れていました(笑)」
 
「あの…!もしよかったら、今度またお会いしませんか?」
 
「さっき一緒に始発を待っていた時間は、陸人さんの小説を初めて読んだ時のような、心の中が静かに変わっていく、そんな時間でした」

「私、今だけは後悔したくないです。終電を逃した悲劇を、いつか愛しく思いたいなって」
 
「既読」の2文字だけがポンポンと付いていく。
停滞していた眠気がすっと体に溶け込んでくるような感覚と、太陽の光が数分ごとに鮮明になっていく空。いつもより空気は澄んでいるように感じた。

「さっき言ってほしかったなぁ。いや、もっと、ずっと前に」とわがままなことを思いつつ、体は不思議と高揚感に包まれていた。
吐く息が少し白いことに気づき、もう10月だもんな、と季節の移り変わりを久しぶりに実感する。
 
やがて、ホームに駅員のアナウンスが流れ始める。
朝早くからお疲れ様です。今日は休みだからか、そんな慈愛の込められた声すら心のうちから聴こえてくる。
 
始発電車は、プシューと数時間前に聞いた音と同じ音を立てて停車し、車内へと続くドアを開けた。
「もう無理に走ることはないんだろうな?」といった様子の革靴。「うん。もうそんなことはよすよ」と語りかけながら、車内へと足を踏み入れる。

僕は文章を考える楽しさを思い出しながら、10年越しの返事を書く意気込みで、相原さんへLINEを打ち始めた。

皆さんから大事な大事なサポートをいただけた日にゃ、夜通し踊り狂ってしまいます🕺(冗談です。大切に文筆業に活かしたいと思います)