見出し画像

終点間際のバスジャック

「今から、このバスをジャックする」
バス運転手になって十年あまり、今日も穏やかな昼下がりを噛みしめていたのに、平和な日常には似つかないポケットナイフの刃先は、今まさに僕の首元辺りで光り輝いている。

あまりに突然のことで、といっても被害者にしてみれば犯罪はいつだって突然起きるものだとは思うが、やはり僕は困惑した。バスジャックを宣言した男は乗車した際には被っていなかった覆面をし、上下黒ずくめの姿だった。すぐに金銭の要求をされるのかと思ったが、その後に続く言葉は中々出てこない。そうこうしている間にもバスは走り続ける。

こうなった以上は仕方がない、まずは乗客の安全が第一だと瞬間的に思い、気づかれないようにバックミラーを見やると、「いやいや、次が終点なんですけど。ジャックするなら、もうちょい早めにするべきじゃない?」と言わんばかりに乗客たちは困り顔をこちらに向けている。一応、「ですよねぇ」とミラー越しに苦笑いを浮かべる。……いけない、そんなことをするほど余裕などないはずなのに。

「終点には止まるな。今から指定する場所へ向かえ」
男は低い声で言う。こうした場合、とりあえず犯人の命令に従うほかない。「分かりました」とだけ伝え、「終点通過します」と乗客に伝える。もちろん、運転手になって初めて口にする台詞だった。もう一度バックミラーで乗客の様子を窺う。人数は片手で数えるほどで幸い人数は少ない。この人数なら、全員無事でいられるかもしれない。それは何の根拠もないものだったが、僕は一旦そう信じることにした。

男が指定したのは、ある高校だった。その高校は僕の母校でもあった。なぜここなんだ、と考えるが当然答えなど出てこない。
「少しでも不審な行動をしたら刺す。お前らもだからな!」
男は後方に向けて唾を飛ばした。その声に驚いたのか、若い女性の短い悲鳴が車内に響く。そこで初めて、これは夢なんかじゃない、と現実味が押し寄せてきた。緊迫感がひしひしと伝わる。手汗は予想以上のスピードで発汗をし始めた。
それでも、男が後方を振り向いた瞬間を僕は見逃さなかった。即座に行先表示器に「緊急事態発生」のメッセージを表示させる。以前発生したバスジャック事件を教訓に導入された、いわば外部へのSOSだ。このメッセージを誰かが見てくれることを祈り、指定されている高校へとハンドルを切る。

長い間、といっても三十分程度だろうか、男は変わらず僕の首元にナイフを突きつけ前方を見ていた。目的は一体何だろう。漠然と思う。少なくとも金銭絡みではなさそうだ。
「あと、どれくらいで着く?」
男は片方の手で指パッチンをしながら聞く。「あと五分ほどですかね」と、こちらも前を向いたまま答える。

やり取りの間、僕の中で何かが引っかかっていた。この男の癖や声に覚えがあるのだ。ちょうどぶつかった交差点を左折する拍子に僕は男の方を見る。誰なんだ、こいつは。脳の中で、もう一人の自分が「ほら、ほら。あいつだよ」と語っている。しばらく腕組みをしたままだったが、やがて合点のいく様子で「ほら、あいつだよ。今向かっている高校の同級生だった……」

「まさか、根本か?」
僕は男の目をまっすぐに見て、そう聞いていた。
すると、男はふっと吐息を漏らした。
「やっと思い出したか、井上」
そうして根本は被っていた覆面を脱ぎ捨てた。まさか、高校時代の同級生に自分の運転するバスをジャックされる日が来るとは。感動の再会……といってもいいのだろうか。でも、確かに胸の内には、この状況には似つかない奇妙な懐かしさが込み上げていた。

「俺、もう人生めちゃめちゃなんだ」
さっきまでの強面の覆面と同じ人物とは思えないほど、根本は顔を濡らし泣き始めた。
「何があったんだよ」
既に指定された高校はその姿を現し始めている。乗客は「犯人と仲良くなってどうする」とばかりの怒りの形相だ。むしろ共犯を疑われてもおかしくないほどに親し気に話しているのだから、乗客の怒りを買ってしまうのは仕方のないことだった。

「ずっと勤めていた会社が倒産しちゃって。なんとか肉体労働して暮らしていたが、嫁さん病気になって死んじまってさ。いつしか借金膨れ上がって、毎日逃げてばかりで」
高校時代の根本はヒーローだった。野球部のエースで甲子園出場の一歩手前までチームを引っ張った頼もしい男だった。大学には進学せずプロの野球選手になろうとしたが、怪我に悩まされ、結局会社員になったところまでは知っていた。しかし、その後は連絡が途絶えており、こうして知らされる根本の道のりを僕はただ聞いてやるほかなかった。

「でも、こんなことしてどうする。捕まるだけだぞ」
「俺、高校の卒業文集に書いていたんだ。将来、ヒーローになりたいって」
信号待ちをするバスの後方からはパトカーの音が響き渡っていた。恐らく先ほど表示させたSOSをもとに呼ばれたのだろう。根本にもそれは聞こえているはずだったが、慌てる様子もなく、淡々と犯行理由を述べ続けた。
「高校生にもなってお前は小学生か、って笑われたもんだ。でもよ、今ではそう書いてよかったと思っているんだよ。悪いことでもいいから、俺は名を売ってヒーローになりたかった」
「馬鹿だなぁ」
涙が頬を伝う。地元でも有名なピッチャーだった根本の剛速球をキャッチャーとして毎日受けていたのは誰だと思っているんだ。夢なんかとっくに捨てて、こうして僕は地道に生きているのに。
「終点の東尋坊で死ぬつもりだったけど、偶然乗ったバスの運転手がお前で驚いた。お前の声を聞いているうちに、終点に着きたくないって思っちまったんだよ」

高校の前に到着し、バスを停車させる。涙を拭い、「お騒がせしてすみません。こいつは僕の友人です。危険な人間ではありません。皆様の安全は確保されました」とアナウンスした。全員がそれぞれに安堵を浮かべ、ほっとしている様子が見て取れた。
「気は済んだか」
嫌味でもなんでもなく、根本にそう聞いた。こくりと頷くだけで、力なく肩を落としていた。
「でも、ダークヒーローはお前には似合わないな」
かつての相棒のボールをまた受ける日は来るのだろうか。久しぶりに高校の校舎を見上げながら、あの頃と同じ見えない未来に想いを馳せてみる。

「本日はご乗車いただきありがとうございます。このバスは三国駅行きでございます」
天候は快晴、視界も良好。新しい一日の始まりだ。いつも以上に声を張り、調子よくアナウンスをしていると、乗客の一人がこちらに歩み寄ってくる。
「お客様、どうされましたか?」
笑顔を振り撒きお客様に接する。これが僕の変わらない、長年の接客ポリシーだ。

すると、その男は後ろポケットから小型ナイフを取り出し首元に近づけた。
「今から、このバスをジャックする」
 念のためバックミラーで乗客を確認すると、「いやいや、まだ走り出したばかりなんですけど。ジャックするには早すぎるんじゃない?」と語りかけてくるものだから、僕は「ですよねぇ」と軽薄に相づちを打ってみせる。

皆さんから大事な大事なサポートをいただけた日にゃ、夜通し踊り狂ってしまいます🕺(冗談です。大切に文筆業に活かしたいと思います)