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小説|御伽噺、ロストハイ

 1

 桃太郎が、真昼の陽光差し込むリビングで、ソファに腰掛けテレビを観ている。
「桃太郎さん、桃太郎さん。目の前にあるそのテレビ、何をしてるかわかります?」
 カウンターキッチンから歌うように声をかけると、桃太郎は黙ったまま頭を横に傾けた。テレビに映っているのはバラエティ番組だ。若者相手に昭和生まれの司会者が、昭和の人々のファッションや暮らしぶりを「ほら、古臭いでしょ?」と自虐めいた笑いと共に紹介している。そのテレビに真正面から向き合う愚直なまでにぴんと伸びた背を見つつ、「桃太郎にわかるはずないよな」と私は腕組みしながら頷いた。
 ちなみに桃太郎というのは、そういう名前をつけられた犬猫などの愛玩動物、或いは親の酔狂でそのような名前を付けられた気の毒な男児のことではない。きび団子を腰からぶら下げ三匹の獣を従えた、正真正銘、あの(・・)桃太郎だ。その桃太郎が我が家でテレビを観ている。
 彼がやって来たのは先週の日曜日、太陽が昇る少し前、夜が朝になろうとしている時間だった。

 その前日、私は街で人と会う約束をしていた。出際に玄関で「花屋のごま団子、買って帰りますので」と額に指を押し当て敬礼した私を、夫は手をひらひらさせて見送ってくれた。七歳の息子を押し付ける後ろめたさはあったものの、込み上げてくる開放感を抑えきれず顔はニヤついていたはずだ。
 JRから地下鉄に乗り継ぎ地上に出ると、暗い空から、ちらちらと雪の降る夜だった。頭や肩に薄く雪をのせた人々の背を避けつつ、罠みたいに、つるつるの氷が点在する歩道を進む。たどり着いたのは街中を東西に横切るアーケード街だ。
 待ち合わせ場所は、その一角にある個人経営の串焼き屋だった。店名の書かれた、茶色い染みのある暖簾に頭を突っ込み開き戸をがらがらと横に動かす。暖かく湿った空気と炭火が肉を焦がす美味しそうな臭いに包まれ、冷えた身体が一気に暖まった。串焼きは好物だ。なにしろ美味いし、酒がすすむ。
「俺達には、もう物語がないんだよ」
 とは、先に到着していた垣内 将臣(かきうち まさおみ)である。軽く挨拶をすませるなり、小さな声でそう言った。実に陰気臭い顔をしている。
 テーブルの上には将臣が頼んだのか、鶏もも串、醬油だれの豚バラ串、いかだ状に並べこんがりと焼かれた葱の乗った四角い和食器が置かれていた。中身が半分減ったビールジョッキもある。遅刻したか、と思い羽目板の壁にかかった円い時計の針を確認するが六時半ちょうど、待ち合わせ時間ぴったりだった。将臣の方が時間を間違えて早くに到着したのだろうか。頬杖をついたその顔を、もう一度とちら見する。やはり陰気臭い顔である。
「とりあえず、食べてもいいかな」
 串焼きを指さし尋ねると、無言のまま二度小さく頷いた。手元にあったビールを一気に飲み干し、大きな溜息までつく姿が、ますます暗い。
「将臣、なんか悩みあんなら話しなよ。どしたの? ついに中年の危機がやって来た?」
 早口で尋ねてから皿に手を伸ばし、掴み取った豚バラ串を口に入れる。久しぶりに味わう醤油だれと脂が感動的に美味い。思わず目を閉じ、口の中に広がる旨味を逃さぬようじっくり味わっていると、「お前って、大学の頃から全然変わんないなぁ」と呆れたように笑われた。
「そんなことない、ずいぶん落ち着いたよ。もう化粧だってほとんどしてないし」
 今度は鶏を喰うか葱を喰うか、皿に視線を落として考える。
「たしかに。追っかけやってた頃に比べると、ずいぶん地味になった」
 にやにやと笑い始めた将臣に、今度は私が渋い顔をする番だった。
 追っかけ、と将臣が言ったのは、かつて私が古(いにしえ)のロックバンドに心酔していたことを指す。二十年ほど前に代表曲が中ヒットし、紅白にも出場したことのあるバンドだったが、その後はヒット曲に恵まれないまま解散している。私は学生時代、そのボーカルにぞっこんラブであり、遠方のライブにまで足を運ぶほどの入れ込みようだった。そんな彼等を、あまり似合っていたとも思えない派手なメイクとパンクファッションに身を包み、文字通り追っかけていた昔日のことは、あまり思い出したくない。若気の至り、というやつである。
「その話は、勘弁」
 降参です、とばかりに両掌を見せると、笑いが漏れた。
「見た目は、それなりに変わったよな、お互いに。変わってないって言ったのは中身の方だよ。あんま悩みなさそうで羨ましい」
「そんなことない。私にだって、くよくよして眠れない夜もある」
「まじか。どんな悩みだ、言ってみろ」と、にやつく。
 聞かれて咄嗟に頭に浮かんだのが「魚を焼く時は海背川腹というけど鮭は海の魚なのか川の魚なのか。背と腹どちらから焼けばよいのだろう」という極めてどうしようもない悩み、というか疑問であり、その話をするとまた馬鹿にされそうなので、黙ったまま頭を振っておいた。
「……ところで物語がどうのって、なんの話」
 将臣は「あぁ」と呟きまた暗い表情に戻る。学生風の若い女性店員がやって来て将臣の前にはビールを、私の前には金属製のタンブラーを置いていった。タンブラーを持ち上げジョッキと合わせると、思いの外、軽く、なみなみと注がれたハイボールがこぼれそうになった。
「うちの嫁がさ、」
 嫁、と将臣が呼ぶのは「依子ちゃん?」という名前の彼の妻である。聞かれて将臣は、うんと頷き、
「最近、家で韓ドラばっか観てんだよ」とまた溜息。
「韓ドラって韓国のドラマ? 面白いらしいね」
「俺は観たことないけど。上の娘と一緒になって、年下の乳繰り合いをずーっと観てんだぞ。そんなの、なんか――」
 むすっとした表情で言葉を切る。不貞腐れる将臣を見て、私は思わず吹き出した。
「韓ドラ俳優に嫉妬してんだ。可愛いとこあんじゃん」
 鶏もも串を片手に、わははと笑い出した私を軽く睨み「そういうんじゃない」と尖らせた口をジョッキの縁につける。
「なんつーか……韓ドラだけじゃなくて。最近、物語の主人公って年下ばっかだなと思って」
「物語?」
「ドラマとか、映画とか、漫画とか」
 将臣の頬は、酔いのせいか、ほのかに赤く染まっていた。
「だいたい主役キャラって学生とか二十代だろ。いってても三十代前半とか」
 私は首を捻りながら「まぁ」と曖昧に相槌を打つ。
「俺達みたいな子持ちの中年主人公なんていないってこと。だからウチのも年下の恋愛ドラマばっか観てんだ」
「そんなことないって。中年同士の恋愛漫画、読んだことあるもん」
 昔、歯医者の待合室で読んだその漫画のタイトルは何だったろう。ページを開いてすぐに現れたベッドシーンが妙に生々しく、すぐに読むのを止めた記憶がある。
「そういんじゃなくて、俺はもっと大きい話をしてんの。世の中の流れっつーか……」と身を乗り出し不機嫌顔を近づけてきたので「うん」とだけ答えておく。まだ素面なので、酔っぱらいの相手をするのが少々面倒だった。
「酔ってると思って、話ちゃんと聞いてないだろ」、今度はじろりと睨まれ、再びの「うん」
 その時、
『就職氷河期世代、所謂ロストジェネレーション世代の出生率について――』
 カウンターの脇、天井から釣られたテレビの音が耳に入った。夜のニュース番組のようだ。画面には、下に行くほど塗り幅の狭くなったピラミッドグラフが映っている。将臣も気になったようでテレビに視線を向けたが、その横顔が、みるみるうちに歪んでいった。眉間に皺寄せ口は半開き。グラフのシルエットに親の仇の面影でも見たような、複雑な表情である。
「……ほら見ろ」
 画面を見上げながら、ぽつりと将臣が呟く。「やっぱなかったことにされてんだよ、俺達は」
「遅くなっちゃったぁ、ごめーん」
 知った声に明るく呼びかけられ、振り返る。襟にフェイクファーのついた黒いダウンコートを着た一ノ瀬 春香(いちのせ はるか)だった。身体を横にして、客席の間を抜けながら手を振っている。外気を纏った春香の大きな身体が近づいてくると、ひやりとした空気が首筋に触れた。
「ひっさしぶり」
 私の隣に腰掛け、マスクを外した春香の視線が、テレビに釘付けになったままの将臣に向く。まだ黙ったまま動かない将臣に、春香の赤く塗られた唇がへの字に曲がった。
「喧嘩でもしてたの?」と、春香。
 将臣は「違う」とぶっきらぼうに言い捨て、ちらと春香を見た後「よぉ」と挨拶する。そのままジョッキを持ち上げ、一気に中身を飲み干した。今度はこちらに顔を向けた春香が「なんかあったんでしょ」と目くばせしてきたが、私も「さぁ」と小さく首を傾げるばかりだった。

「将臣のやつ、変だったね」
 お土産にと渡した花屋のごま団子を、もぐもぐと咀嚼しながら春香が言う。串焼き店で延々と飲んだ後、「もう一件約束がある」と言う将臣と別れ、春香と二人で地下鉄の駅を目指している。終電間際のアーケード街は人が少なく、百均や薬局がシャッターを下ろす中、ぽつぽつとある飲食店の明かりが道を寂しげに照らしていた。
「なんか悩んでるって言ってた?」と春香。
「よくわかんなかった」と私。
「元カノのアンタでもわからんかったか」
 春香の横顔を見る。ごま餡をつけた唇の端が、ふふふ、と愉快そうに上がっていた。一方の私は「その話、もうやめて」と顔をしかめる。
「なかったことにしちゃ駄目よ、美しき青春の一ページなんだから。……そういや旦那さんって、将臣とアンタが付き合ってたこと知ってんの?」
「言ってない」
「あらやだ、不埒」
「不埒ってなによ、不埒って。変なこと言わないで。大体付き合ってたのなんて一瞬じゃん」
 まんまとムキになってしてしまった。にやつく春香は愉快そうに私を横目で見下ろしながら、串に刺さった最後の団子に食いつく。私がやった団子を食いながら、私に嫌がらせをしないでほしい。
 将臣と私が付き合っていたのは大学時代のたった一ヶ月間である。若気の至り・パート2である。当時はそのことを春香に言えずにいたのだが、別れてから打ち明けると、若かりし日の彼女は「親友だと思ってたのにっ」と青臭い台詞を吐きながら怒った。そのことを、まだ根に持っているらしい。なので未だに「やっぱアンタと将臣は」だの「将臣とアンタはこれだから」だのと、既婚者相手に蒸し返してくる。さすが「生涯現役恋愛脳」を自負するだけある。いっそのこと、褒めてやるべきだろうか。
「……ところでどうなの、旭川の生活は」、ひとまず話題を変えておく。
 そもそも今日の飲み会は「将臣くんのお悩み相談会」ではなく、「久しぶりに札幌に帰ってくる春香と会おう」ということで企画されたものだった。ちなみに発起人は『帰る、飲もう』と送ってきた春香自身である。
「まぁ、楽しんでる。そいや札幌のラーメン屋って、玉子麺の味噌ばっかりでしょ。旭川はね、基本、醤油なの」
「あぁ、旭川ラーメン。カップ麺でしか食べたことないや。美味しいの?」
「最高よ。スープはラードがたっぷり浮いた熱々の醤油で、麺は小麦の縮れ麺。おかげで見てよ、このお腹。大増量しちゃったわ」
 春香が、ぱっつんぱっつんではち切れそうなダウンジャケットの腹をさすった。学生時代から細身だった春香の身体は、札幌を離れてたった二年間で二倍程に大きくなっていた。
 気づいてはいた。気づいてはいたけれど、私も将臣もあえて口には出さなかったのだ。なのに本人から唐突に打ち明けられ、「あはは、太ったね」と笑い飛ばすべきか「もういい年なんだから、身体を大切にしてね」と気遣うべきか、悩む。
「ダイエットしたいんだけど、若い頃と違ってちっとも痩せないの。やっぱり更年期のせいかしらね」
「……更年期にはまだ早いと思うけど」
「そう? 最近、毎日イライラしちゃってるから、いよいよ来たかなって期待してたんだけど。生理なんて鬱陶しいばっか。子供産む予定もないのに、なんで毎月嫌な思いしなきゃいけないんだか。早いとこなくなってほしいわ」
 春香の背負っていたリュックから、ぶーーと低い振動音が響いた。スマホが鳴っているようだ。音は鳴り続けるが、いつまで経っても出ようとしない。
「いいの?」
「今はいい」
 食べ終えた団子の串を、ぽいっと路上に捨てたのと一緒に、振動音も消えた。
「そいやアンタ、まだ書いてるの?」
 春香が両手でキーボードを打つように、ぱらぱらと指を動かしながら言う。
「書いてる。仕事でちょっとだけ」
「おぉ、さすがクリエイター。格好いいねぇ」
「そんな大したもんじゃないから」
 〆切の迫った仕事のことを思い出し、心底げんなりする。せめて明日の朝まで、いや家に帰るまでは忘れていたかった。
「相変わらずねぇ。変わってないわ、アンタって」
 顎に引っ掛けていたマスクをずらして赤い唇を隠し、私を見下ろす。私と春香の身長差は二十センチ程もある。背の高い春香の横に背の低い私が並ぶと、いつも私が見上げることになる。この身長差だけは、昔も今も変わらない。
「将臣にも同じこと言われた。それって良い意味、悪い意味?」
「どっちかなぁ」メイクで派手に盛られた目を細め、春香はふいっと前を向いた。
「……ねぇ、春香」
「ん?」
「あの人とは、まだ会ってるの?」
 聞くと、「あぁ」と無感情に呟いた後、
「会ってるよ」
 春香は二年前、男を追って旭川に移り住んだ。十年以上付き合っている年上で、その男が転勤で旭川に行くと知るや否や、仕事も、一緒に住んでいた両親も、友人も置き去りにして札幌を出た。
 相手は妻子持ちだ。春香は今も不倫を続けている。

 自宅に帰ると、暗い玄関で猫がにゃーんと出迎えてくれた。息子の選んだクマ柄の玄関マットの上にゴロリと横たわり、腹を見せている。「撫でろ」と要求しているようだ。
 白地に茶縞の入った、ぶちのある長毛の雑種猫で、我が家では「ネコ」と呼んでいる。二年前に縁側の下に一匹だけ産み捨てられ、にーにー鳴いていたのを虫取り網で掬って家に連れて来た。臍の緒のついた三百グラムにも満たない小さな身体を獣医に診せると「育てるのは難しい」と厳しい表情で告げられた。まだ離乳前の仔猫だったから、三時間おきにミルクをやらなくてはいけないとも教えられた。人間の赤ん坊と同じだった。
 なんとなく拾った猫だったが、そのまま見殺しにするのも気の毒に思え、その日から私は二十四時間体制でミルクを与え続けた。息子を産んだ年から数えて四年ぶり、人生二度目の頻回授乳である。その間、家事や育児の大半を夫に任せ、眠い目を擦りながら膝に抱えた仔猫に哺乳瓶でミルクを与え続けた。すると獣医の予想に反して、すくすくと育った。育ちすぎて、なんと今では五キロを超す。巨猫である。身体が大きいわりには臆病で、窓から外をよく眺めてるくせに、連れ出そうとすると怯えて爪を立てる。引き籠もりのデブ猫だ。
 ブーツを履いたまま三和土にしゃがみ、ネコの腹を撫でてやる。明り取り窓から淡い光が差し込み、ネコの毛は青っぽく染まっていた。二階の寝室にいる夫と息子は眠っているようで、「ぐるるるぅ」と喉を鳴らす音が床によく響く。柔らかい腹毛に触れながら、はぁーっと大きな溜息をつく。あんなに楽しみだった飲み会なのに、どっと疲れをため込んで帰ってきてしまった。
「身体のどこそこがしんどい」、「職場の誰それがムカつく」、「昔と違ってテレビもラジオもつまらない」、「物価が上がって大変だ」、「給料はちっとも上がらない」、「そういや年金はいくら貰えるんだ」
 飲んでる間中、そんな暗い話題ばかりが中心で、明るい話と言えば昔の思い出ばかりだった。そうした会話が繰り返されてることに、私も将臣も春香も気づいていたのに、止められなかった。
 眠れそうにはなかったので、猫を抱えて仕事部屋に入る。整理整頓が苦手で「物はとりあえず箱の中にしまっとけ」がモットーの私の部屋には収納棚が多い。天井まで届きそうな本棚には本やCD、写真や、息子が幼稚園に入園した時に使ったっきりの裁縫道具なんかをごちゃごちゃと詰め込んでいる。
 窓際に寄せたデスクの上には開きっぱなしのノートパソコンがあり、その上に二束の書類が乗っていた。一つは父から作るように言われていた「不動産登記申請書」で、「パソコンでちょちょっと作ってくれ」と無理やり押し付けられたものだ。少し調べてみたのだが、戸籍謄本を取ったり家系図まで作らなければいけないようで、かなり面倒そうだ。ちなみに私は行政書士ではない。
 もう一つは冒頭に、「おとぎ噺ハイランド」企画書、と書かれた資料である。デスクチェアに腰掛けそちらの束を手に取り、ぱらりと捲る。
「おとぎ噺ハイランド」とは、四ヶ月後にリリースを予定しているスマホアプリのタイトルだ。ジャンルは女性向け恋愛ゲームで、そのシナリオを書くのが目下の私の仕事なのだが、一文字も書かないうちに依頼から一週間が過ぎた。同じように依頼された他のライター達が、ぼちぼち完成稿を送り始めているようだから、「私も書かねば」とは思うものの、やる気が出ない。昔、勤めていた会社のコネで仕事をもらい続け、他に稼ぐ手段もないのでもう十年も続けてるが、最近では若いユーザーに向けてシナリオを書くのに年齢的な限界を感じている。
 おまけに年下のディレクターは「とにかくシナリオの多さで圧倒して課金に誘導したい」などと力説する。要するに「読み捨て御免」だし「書き捨て御免」なのだ。そのくせ「面白いのを書いてくださいね」などと言われるのだから嫌になる。床で丸まって寝ている猫が心の底から羨ましい。

「おとぎ噺ハイランド」企画書

◆企画概要
 あの有名おとぎ噺の主人公たちが、美男・美女になって「私」の前に現れたっ!?
 ある日、仕事に疲れて一人旅に出た「私」は、高原のペンションを訪れる。
 そのペンションの名は「おとぎ噺ハイランド」。
 澄んだ空気に美しい景色。素敵な部屋に美味しい食事――だけど、なにかがおかしい。
 だってそのペンションの従業員達が、みんな「おとぎ噺の主人公」だったから!

 一旦、企画書から目を離し顔を上げる。
「ペンション」と「おとぎ噺」という単語が並んでいるのを見るうちに、お尻がむずむずしてきたせいだ。「おとぎ噺」と「高原のペンション」との距離が、私の中ではあまりに遠い。せめて舞台を「和風建築の旅館」にした方がまだましか。いや、それも今ひとつ……などと文句を言っても仕方ない、読み進める。

◆主人公(ユーザー)
・一人称は「私」。仕事に疲れた二十代の会社員

◆登場キャラクター

【ガイド役】
・眠り姫
 主人公をサポートする。話しているうちに、眠ってしまうことも?

【攻略対象】
・桃太郎
 鬼退治が得意な超絶美男子。猿・雉子・犬を従える俺様キャラ。好物はきび団子
・一寸法師
 生意気な少年。憎まれ口ばかり叩くが、本当は甘えん坊
・幸福の王子
 金髪碧眼の王子様。優しく献身的な態度で主人公を助ける。相棒はツバメ

 ……私もそれほど詳しいわけじゃないが、一般的に「おとぎ噺」と言えば古くから伝わる童話のことを指すのではないだろうか。それを一八八八年に書かれた短編小説「幸福の王子」まで一緒くたにしても良いものか。まぁ、良いか。
 などと首を捻りつつ、全十四ページの資料を読み進めていく。この後にも金太郎や裸の王様、三匹の子豚など、古今東西・総勢四十七人(?)ものキャラクター設定が細々と書かれていた。赤穂浪士と同数、さすが「物量で圧倒して課金」させたいだけのことはある。
 読み終えた資料をデスクの上に放り投げ、今度はパソコンを起動しディレクターから送られてきたファイルを開いた。割り振られた中から、まずは桃太郎が登場するプロットを確認する。心が動かない時は、ひとまず手を動かすに限る。新しくテキストファイルを作成し、その一行目に、

 桃太郎が、

 と書き始めた。書いた瞬間、音がしたので手を止めた。
 音というのは、キーボードを打つ音でもパソコンの警告音でもない。カーンという、芯があるけど柔らかい、少し高めの聞き覚えのある音だった。
 ――カーン、カーン、カン、カン
 音は廊下の方から聞こえてくる。足元で香箱を組んでいた猫も気づいたようで、丸い目でドアを凝視している。表の道路で工事でも始まったんだろうか。にしては響きが軽いし近い。それに、普通の人は寝ている時間だ。まさか何者かが、我が家に侵入して壁でも叩いてたりして。
 色々想像するうちに怖くなってきたが、それでも「ローンの残る家を壊されちゃたまらん」と、猫を抱えて恐る恐るドアを開く。隙間から、そっと廊下を覗き込んだ。
 ――カーン、カーン、カン、カン
 音の正体はすぐに判明した。拍子木だ。廊下にニホンザルがいて拍子木を打っていた。ニホンザルは二本足ですっくと立ち、両手に握った拍子木をリズム良く打ち鳴らしている。私は咄嗟に祭りで見た猿回しの猿を思い出した。まさに、あの猿がここにいる。しかしなぜ、我が家に猿がいる?
「東西、東西ーーッ」
 今度は甲高く舌っ足らずな声が耳を衝いた。顔を上げてまず最初に気がついたのは、湿った土草の匂いだ。そのすぐ後、廊下の先に広がる野山が目に飛び込んできた。玄関横、あるはずの壁がなく、フローリングが途切れたその先に書割のような風景が広がっている。まっすぐに伸びた畦道を中心に両側に広がる水田。空には丸い月が光り、揺らめく稲穂を照らしている。道の向こう、なだらかに横たわる稜線が、濃藍の山と瑠璃色の空を分けている。
「東西、東西ーーッ」
 もう一度声がして、バサバサっという羽音とともに書割から鳥が飛び込んできた。ぎょっとするほど大きく、身体は鮮やかな緑の羽毛に包まれている。あれは、雉子?
 ――カーン、カーン、カン、カン
「ア、日本一ノォーッ」
 猿の打つ拍子木に合わせ、雉子が叫ぶ。畦道の先、月光に照らされ青白いシルエットを浮かべた人影が、ゆっくりと近づいてきた。腕に抱える猫がぶるぶると震え、私の肩によじ登ろうと暴れるものだから、爪が食い込み痛い。
 目を凝らし、人影をよく見る。
 袴に鎧、肩からは陣羽織、背中に刀を斜め掛けし、腰に巾着袋。足元には三角耳をぴんと立てた茶色い犬を従えている。中でも目を引くのが頭部に結われた丁髷の下、額に巻かれた鉢巻の、中央に輝く桃の印だ。
「桃太郎、御成ァリーーッ」
 土のついた草鞋で我が家のフローリングを踏みしめ、来る。目の前まで近づいたその人物が、ばっと右手を大きく振り上げた。その手には日の丸模様の扇子が広げられている。
「鬼は、何処(いずこ)か」
 低い声をよく響かせ、私の方をちらと見る。
 桃太郎だった。

 猫を抱えたまま、どしどしっと音を立て二階に駆け上がり、「起きて起きてっ、家に変態がいるっ!」と夫を起こして階下に戻ると、廊下はしんと静かだった。猿も雉子も犬も桃太郎もおらず、壁もちゃんとある。草履が落としたはずの土や砂埃すら見当たらない。「嘘っ、どこに隠れたっ!?」と半狂乱の私の腕の中、ネコも珍しくシャーシャーと警戒の声を上げていた。なのに夫は欠伸しながら「酒、あんま飲み過ぎるなよ」と言い残し、目を擦りつつ二階に戻ってしまった。
 再びネコと二人きりになった私は、そっと玄関のドアを開け外の様子を確認する。まだ街灯の点る薄暗い雪道に桃太郎たちの姿はない。まさか煙のように消えてしまったのか、それとも本当にアルコールが見せた幻だったのか。大きく鳴り続ける心臓を落ち着かせようと深呼吸し、酔い醒ましの水を飲むため今度はリビングのドアを開ける。すると、
「美味シイデスネ、桃太郎サン」
「うむ、悪くない」
 ぎゃあ。
 桃太郎一行がダイニングテーブルを囲み、花屋のごま団子を食べていた。
 先週の日曜日、午前四時の出来事である。

 2

 桃太郎達は、私以外の人間の前には決して姿を現さなかった。ソファに座ってテレビを観ていたはずなのに、学校から帰った息子の「ただいまぁ」という声が聞こえると、もう姿が見えない。昨夜なんかは、仕事する私の隣でネコに毛づくろいさせていた猿が、夫が仕事部屋に入ってくるなり、ふっと消えた。
 ということが続いたせいで、「ついに頭がおかしくなった! 家に籠もって、横に並んだものを縦に積み直すような仕事ばかりしてるせいだっ!」と私は恐怖しかけたのだが、桃太郎達の振る舞いを見るうちにそれも馬鹿らしくなり、やめた。
 桃太郎は、はじめのうちこそテレビを観ては「箱の中に小さな人間がっ!?」と驚いたり、窓の外を走る車に「うひゃあっ、鉄の猪ぃっ!」などと良い反応を見せてくれたが、一週間もすると、私のタブレット端末を使いこなすほど現代の生活に順応していた。彼の家来である喋る獣の猿・雉子・犬も同様で、猿と雉子はストリーミングサービスのアニメに夢中だ。ネコまでソファに並んで一緒に観ている。残る犬はと言えば、気まぐれにやった猫用の液状おやつをいたく気に入ったようで、私の足元に付き纏い、期待に満ちた目で「モ一ツ、クダサイナ」と見上げてくる。「おやつはもうないの」と言ったって聞きやしない。犬って、しつこい。
「桃太郎さん、桃太郎さん。あなた達、いったいどうしてここにいるの?」
 彼等がやって来た日曜日から数えて八日目の昼、私はついに桃太郎に尋ねてみた。どうせ妄想の産物だからすぐにいなくなるだろうと、これまでは核心的な質問をせずにいたのだが、いつまで経っても消えないので、さすがに謎を解明したくなってきた。
「鬼退治のためだ。鬼が現れるのを待っている」、と桃太郎。
「ここには鬼なんていないよ」
「え」
 カウチソファの上で膝を折り曲げタブレットをいじっていた桃太郎が、振り返る。ジーンズにグレーのVネックTシャツを着て、髷を解いた桃太郎はもはや桃太郎に見えない。
 ある時、陣羽織を指差し「これでは窮屈だな」とぼやいていたので、着替えをあげた。身長が高く手脚も長いので夫の服では全くサイズが合わず、近所の服屋でわざわざ買う羽目になった。洋服に着替えたばかりの桃太郎の頭部には髷があり、私はその姿を見て「楽屋で待機中の時代劇役者かっ」と大笑いした。すると桃太郎はむっつりと黙り込んだまま、髷を解いた。
「丁髷って武士の誇りなんでしょ。いいの? そんな簡単に下ろしちゃって」
 尋ねると、桃太郎はきっとこちらを睨みつけ、
「俺は武士ではない」と言い切る。
 そういえば、桃太郎は山で柴刈るおじいさんの子供だ。格好こそ勇ましかったが、武家の生まれではなかった。
「桃太郎サン、ソノ、オ衣装モ、ヨク、オ似合イデスゾ」という猿のよいしょに、桃太郎は気を良くしたようで「うむ」と頷く。肩にかかる、ざんばら髪は多少異質だが、たとえそのままコンビニに行ったって通報されることはないだろう。
 その、洋服を着た桃太郎が、
「なぜ、鬼ヶ島なのに鬼がいない」と目を剥く。
「だってここ、鬼ヶ島じゃないもん」
「なら、どこだと言うんだ」
「北海道」
「馬鹿を言うな。こんな奇っ怪な場所が人の住む島なわけがない」、鼻で笑い、再びタブレットに視線を落とす。
 最近、この謎の一行の正体を探るため「桃太郎」という童話について少し調べてみた。
 日本の代表的な昔話として「五大御伽噺」と呼ばれている五つの物語は「桃太郎」「猿蟹合戦」「舌切雀」「花咲爺」「かちかち山」の五編を指す。これらが現在の形にまとまり江戸時代の「赤本」に登場したのが江戸中期頃なのだそう。本当は甘えん坊の生意気なショタキャラ――ならぬ、「一寸法師」が室町時代に編まれた「御伽草子」にすでに登場しているのに比べると、「桃太郎」は比較的新しい物語とも言える。
「赤本」とは、江戸時代の大衆紙のようなもので、この赤本に登場する「桃太郎」には二つの出生パターンがあった。一つは、おなじみ「桃から生まれた桃太郎」で、これを研究者達は「果生型(かしょうがた)」と呼んでいる。もう一つは「桃を食べて若返ったおばあさんから生まれた桃太郎」というもの。これを「回春型(かいしゅんがた)」と呼ぶ。果生型が桃太郎を「桃から生まれた神秘の子」と位置づけているのに対して、回春型は「桃の力のおかげで若返った老夫婦の性交の末に生まれた子」としているのが面白い。
 実は赤本では、この回春型の桃太郎の方が主流だったそうだ。それが明治時代に入り「桃太郎って英雄じゃん。なのにドーピングでビンビンになった爺さんと婆さんのセックスの果てに生まれたってのは、なんか教育上、よろしくないんじゃね?」となり、さらにはその後、戦争に突き進んでいった我が国の規範となるべく、現在の「英雄による勧善懲悪」型へと姿を変えられていった。実際に太平洋戦争時には、桃太郎をベースとしたプロパガンダ映画もつくられている。
 もっと言えば、本来「桃太郎」とは全国各地に散らばった説話の集合体であり、かつては各地方に実に様々なタイプの「桃太郎」が存在したそうだ。例えば、東北には「便所の屋根葺き」という題名の話が残っている。これは導入がユニークで「おばあさんが便所に落ちてウンコだらけになったから、川に洗濯に行くことにした。そこで桃を見つけた」となっている。なんとも汚い話ではある。
 他にも北陸地方に伝わる「桃太郎異譚」では、鬼退治のパートナーとして柿太郎とからすけ太郎なるキャラクターまで登場している。画一化される以前の「桃太郎」は、時代と場所を移しながら、その姿を多様に変化させていたのだ。
 とすると、我が家にいる桃太郎はいったい何者なのだろう。「北海道」という言葉に聞き覚えがあるようだから、蝦夷地の名称が北海道に変わった明治二年以降の桃太郎かもしれない。そんな定義づけこそ馬鹿らしい気もするが。
「おい、これはどういう意味だ」
 考え込んでいた私に、ソファの上の桃太郎が声をかけてきた。示されたタブレットを覗き込む。「アップデート」という文字を指差していた。
「アップデートって読むんだけど、上書きするとか最新にするとか、そんな感じ。意味わかる?」
「あっぷでーと……古いものを新しく塗り替えるということか」
「そうそう。すごいね、勘が良いじゃん」
 褒めると、唇の端をにやりと上げた後、すぐにいつもの無表情に戻り「ふん」と鼻を鳴らした。再びタブレットを操作しはじめる。照れたのだろうか。
 そんな桃太郎がさっきから何をしているのか気になり、もう一度画面を覗く。映っていたのは、美少女キャラが登場するパズルゲームだった。仕事の参考にとダウンロードしたのが残っていたらしい。このゲームの売りは、レベルアップするごとに露出が増える美少女のイラストで、少年から中年まで、幅広い層の男性諸氏に好評を博したと聞く。
「……桃太郎でも、女の子に興味あんのね」
 意外すぎて、ついそんな感想が声に出てしまった。
「無礼なことを言うな、俺は女人などに興味はないっ」
 ムキになって否定し始める。
「どうして。そろそろ結婚とか考える年頃でしょうよ」
「結婚?」
「あー、えぇと……祝言」
「俺がなぜ、嫁など取らねばならぬのだ」
「え、どうしてだろう。子供つくるため、とか?」
「馬鹿か、俺は桃から生まれた桃太郎だぞっ! なぜ女人と、こ、子作りなど――」
 頬を桃色に染め、ぷいっと横を向きゲームを乱暴に閉じてしまった。やはり「果生型」桃太郎のせいか、でかい図体して、ずいぶんと初心である。
「シカシ桃太郎サン、ココガ鬼ヶ島デナイナラ、我々ハドコヘ行ケバヨイノデショウ。早ク鬼退治ニ向カワネバ」
 ソファの上にちょんと乗っかりテレビに見入っていた雉子が、振り返り赤い顔を桃太郎に向けた。ネコも隣で「にゃー」と鳴く。うちのネコのくせに、すっかり仲間のつもりでいるようだ。
「ソノトウリ。コンナ得体ノ知レナイ化物小屋デ油ヲ売ッテイル暇ハナイデスゾ」とは、頬袋を膨らませた猿。我が家の食料棚から勝手に漁ってきたポテトチップスを食べてるくせに、化物小屋とは酷い言い草である。
「そういえば、あんた達はどうして鬼を退治したいの?」
 明治より前の「桃太郎」では、一行が鬼ヶ島に向かう目的は、単に「鬼の宝を奪うため」だったそうだ。「鬼が悪いことをしていたから」と動機付けされたのは、明治以降になってからのことだという。
「父母に言われたからだ。あれは悪い鬼だから、倒して宝を奪ってこいと」
「親に言われたから行くの? それだけの理由?」
「親に従うのは当然のことだろ」
「えー……、なんかがっかり」
「がっかりとはどういうことだ、がっかりとはっ」
 桃太郎が気色ばむ。この桃太郎は、どうも怒りっぽい。
「その宝って、もとは人間の持ち物だったの?」
「知らん」
「鬼が悪いことしてるの見たことある?」
「ない。そもそも鬼の姿を見たことがない」
「鬼ヶ島で大人しく暮らしてるだけかもしれないのに。やっつけて宝奪う気なんだ」
「鬼とは悪いことをするものだ」
「おぉ偏見だ。可哀そうに、鬼にも子供だっているかもしれない」
 私の言葉に顔を歪め、「なら、俺にどうしろと言うんだ」と苛つきを隠さずに言う。
「対話から始めるとか」
「たいわ?」
「相手と会話するってことよ。野蛮人じゃないんだから、いきなり殴り込むなんてよくないでしょ」
「言葉が通じなかったらどうする」
「しばらく一緒に暮らしてみるのはどう? ご飯食べたりするうちに、仲良くなれそうじゃん」
 得意満面で高説垂れつつ「真っ当で建設的、さすがは民主国家に生きる現代人の意見だわ」などと悦に入っていたのだが、そんな私を桃太郎はうんざりした顔で見上げ溜息をついた。
「無防備に相手の懐に飛び込むなど、愚の骨頂だ。突然襲いかかってきたらどうする。その状況では殺されたとて文句も言えん。先制攻撃は戦いの基本だ。こちらの敵意に相手が気づかぬうちに近づき、斬る。この方法が最も危険が少ない。戦いの素人が机上で理想論を振り翳すのは構わんが、俺たちにまで自殺行為を強いるな」
 口が阿呆みたいにだらしなく開いた。唖然とした。
 おとぎの国からやって来たくせに、なんてシビアなことを言うんだこの桃太郎は。いやしかし、こちらにもまだ言い分が――
「あんただって素人じゃない。柴刈り爺の子のくせに」
「父を愚弄する気かっ!? 柴刈り爺のどこが悪いっ」
 ついに立ち上がった桃太郎が、挑むような目つきで私を見た。背が高いせいで見下されると迫力がある。しかし売り言葉に買い言葉、年下に言い負かされたまま、黙ってるわけにはいかない。いやそもそも、本当に年下なのか? 仮に明治生まれならだいぶ年上では? という疑問はさておき、
「別に柴刈りが悪いなんて言ってない。だけど子供に強奪を強要するなんて、人の子の親としてはどうかと思うわ」
「俺は人の子ではないっ」
「そういうこと、言ってんじゃないわよ」
 ふんっともう一度鼻を鳴らしてから、腕組みをした。
「……俺には父母に恩返しする義務がある。桃から生まれたどこの誰ともわからぬこの俺を、ここまで育て上げてくれたのはあの二人だ。もし彼等が拾ってくれなければ、海まで流されくたばっていたかもしれん。それに例え別の人間に拾われたとして、桃から生まれた赤子を育てる人間が、他にいると思うか? だから俺は父母の命令に従う。たとえ、それが――」
「間違いでも?」
 顔を背けられてしまった。彼にも案外、思うところがあるのかもしれない。
 玄関のドアが開く音がした。
 慌てて時計を確認すると息子の下校時間だ。すぐにソファに目をやると、もう桃太郎たちはいなくなっていて、ネコだけがぽつんと丸い目でこちらを見ている。試しに、先程まで猿の腰掛けていた座面に手を当てるとほんのりと温もりを感じた。妄想の産物と呼ぶには、やはり生々しすぎる。
「おぉい、早く上着脱がせてやれよ」
 息子の「ただいま」の代わりに父の野太い声が聞こえ驚いた。廊下に出ると、大きな父と小さな息子が手を繋いで並んでいた。
「お父さん、どうしたの」
「たまたま一緒になってな。お前、こいつを一人で下校させてるのか? 危ないなぁ」
 とろけるような笑みを浮かべた父が、「ねぇー」と息子に同意を求める。
「じじ、僕、もう一人で帰ってこれるんだよ」
「本当か? まだ赤ちゃんだと思ってたのに」
「赤ちゃんじゃなーいっ」怒って拳を突き出す息子に「おいで」、と声をかけ家に上げる。
「なにか用?」
「あれ、もうできたか」
 機嫌良さそうな笑顔に「まだ途中だけど」と返すと、見る間に顔色が曇った。
「どうしてやっとかないんだ」
「ちょっと忙しくて」
「もう二週間も経ってるんだぞ。あんなの、パソコンですぐだろ」
 不思議そうな顔をしている息子の防寒着を脱がせてから「ランドセル、しまってらっしゃい」と耳打ちし、二階に行かせる。階段を上りながら「じじ、ばいばーい」と振られた手を、父はぎこちない笑みをつくって見送った。
「仕事、忙しいのか」
「まぁ、ほどほどに」
「ふぅん」とつまらなそうに返事しながら古びた革靴を三和土に脱ぎ捨てる。「あんまり根詰めすぎるなよ」、大きな手で私の肩を叩き、廊下に上がり込んできた。
「勝手に入らないでよ」と制止したが「気にするな、お前の部屋なんて見慣れてる」と取り合わず、ずかずかと私の部屋に入っていく。慌てて跡を追う。
 机の上には、印刷してあった「おとぎ噺ハイランド」のシナリオが数枚あった。目ざとく見つけた父が手に取り、
「まだこんなの書いてるのか」
「違う、それは仕事の」
「相変わらず、くだらないことしてんだな」、薄笑いを浮かべている。父の手から、乱暴にプリントを奪い返す。
「お父さんのは、こっち」
 被相続人の欄に母の名前を書いた「登記申請書」を手渡した。相続人には父の名前がある。上から下まで、ざっと目で追った父はまた、「ふぅん」
 昨年に亡くなった母の家を、父に相続させるための手続き書類だ。元は祖母の持ち家だったものを、今度は父が相続することになっている。「あんなボロ屋でも売ればいくらかになるだろ」と父は言う。
「……そういやお前、うちの孫に中国人を近寄らせるなよ」
 書類に目を落としながら、突然、妙なことを口にした。
「中国人?」
「途中まで一緒に帰ってきてたぞ。ありゃあ、団地に住んでる中国のガキだろ。あんなのと一緒に下校させるな」
 ここ十年ほどの間に、近所の公団には在留外国人が多く住むようになった。アジアからの移住者がほとんどだ。人口減で空き部屋が増えていたことに加え、公団は外国人の入居に比較的寛容なせいだろう。父が、そんな彼等を毛嫌いしているのは、なんとなく知っていた。「あいつらのせいで、ここいらも物騒になってきた」、「あいつらのマナーの悪さは最悪だ」とこぼしているのを耳にしたことがある。あいつらが誰なのかハッキリとは言わなかったが、その矛先がどこを向いているのかは、薄々わかっていた。
「黄(コウ)くんはクラスメイトだよ。そんな言い方しないで」
「中国人と一緒に授業を受けさせてるのか?」
 いよいよ露骨に嫌悪感を滲ませ始めたので、「やめなよ、そんな差別的な言い方」と嗜める。
 ところが父はかっと目を見開き、
「なにが差別だ、偉そうに」威嚇するような低い声と共に、ぬぅと身体を近づけてきた。
「お前の方こそ、世の中にはこういう考えの人間もいるってことを認めろ。多様性の時代だぞ」
 思ってもみなかった言葉が返ってきたせいで、反論が浮かばなかった。
 そんな私を父は鼻で笑い、「書類、早く作れよ」と言い捨て、帰っていった。

「なぜ言い返さない。がっかりだぞ」
 部屋で立ち尽くす私に、いつからそこにいたのか桃太郎が言った。その桃太郎を見上げながら考える。
 父は気付いているのだろうか。母が死んだ時、「嫌な方が残った」と思った一人娘の気持ちに。
 
 3

『眠り姫? なんでまた』
『仕事でちょっとね。春香、眠り姫の話は知ってるでしょ?』
『薔薇盗んで怒られるやつ』
『それは美女と野獣』
『あ、寝てたら王子が助けに来てくれる方か』
『そう。どう思う?』
『嫌い』
『どして』
『あの女、寝てるだけじゃん。なのに可愛いってだけで王子と結婚なんて、めちゃくちゃ感じ悪い』
「やだ、私って嫌われてるのね……」
 とは、隣でスマホを覗き込む「眠り姫」である。先程から興味深そうに、私と春香のメッセージのやり取りを見守っている。
『何の努力もしてないくせに、当たり前みたいに幸せ手に入れて。ふざけんなって感じよね。どうせ寝てばっかの面白くない女なんだから、王子に浮気されて捨てられちゃえばいいのよ』
「うぅ……春香さん、厳しい」
 眠り姫は小夜啼鳥(ナイチンゲール)のように可憐な声を震わせ、悲しげに眉を歪ませた。シミ一つない乳白色の頬に、はらりと黄金色の髪が一束、落ちる。髪を耳にかけるため細くしなやかな腕が動くと、薔薇の芳香が漂ってきた。さすが、おとぎ話のお姫様。体臭すら芳しい。
『だいたい、童話って子供のための教訓が書かれてるもんでしょ』
『そういうのもあるね』
『だったらあの話に、どんな意味があるってのよ』
 ウェブに掲載されていた一文をコピペし、春香に送る。
『美しいりっぱな、いい心をもったあいてを、待っているということは、むずかしいことです。でも、待つことによって、幸福はましこそすれ、へるということはありません』
『だって』
『なにそれ』
『ペロー版の眠り姫の最後の文章』
『ペロー?』
『グリム童話より前に眠り姫の話まとめた人。これが元祖・眠り姫のラスト』
『じゃあ眠り姫って、待ってるだけで幸せになれるって話なの? ばっかみたい』
 私の送るメッセージから少しの間も置かず、返信がぽこぽこと戻ってくる。スマホの向こうでヒートアップしている春香の鼻息が聞こえてくるようだ。
『もうこの話やめよう。ムカつきすぎてスマホ壊しそう』
 と春香が返してきたので眠り姫の顔色を窺う。姫は悲しそうに目尻を拭いながら、こくりと頷き、大きな溜息を残し仕事部屋から出ていった。
『将臣がまた飲みたいって。再来週、札幌帰ってくるんだよね』
『うん』
『そん時、会える?』
『たぶん大丈夫』
『じゃあ店、予約しとく。この間と同じ串焼屋でいいよね。美味しかったし』
『私のこと待ってないで二人で会えばいいのに』
『どして』
『不埒』、の二文字に、思わず顔が歪む。
 春香との会話を終え、スマホを置く。姫の様子が気になったので、跡を追いリビングに行った。すると姫はダイニングテーブルに顔を突っ伏し、しくしくと肩を揺らしていた。
「私って、そんなに駄目な女なのかしら」
「使命も目的もなく、そうして泣いてばかりいるのなら、駄目なんだろうな」
 桃太郎のずけずけとした物言いに、姫が、わぁと声を上げ泣き始める。ソファの上にはいつものように猿と雉子とネコがいて、テレビに齧りついている。犬は、私の姿を見つけるなり駆け寄り、足元に纏わりついてくる。
 いま、我が家のリビングにいるのは、桃太郎と眠り姫、猿・犬・雉子・ネコ、そして私。加えて天井近くを、くるくると円を描きながら飛ぶツバメがいる。姫は一昨日の晩に、ツバメは昨日の昼にそれぞれ現れた。実に賑やか。「おとぎ噺ハイランド」、ここにあり。
 これが仮に妄想の産物であったとしても、なかったとしても、私はもう悩むのを止めることにした。我が家のリビングで、眠り姫が桃太郎に人生相談しているのだ。この事実を、ありのままに受け入れよう。もうそうすることでしか、心の平安を保つ術が見つからない。
「なぜ貴様は、そんなに他人の評価を知りたがる」と、桃太郎が姫に尋ねる。視線はタブレットの画面に注がれている。ゲームの片手間だ。
「なぜって、評判が悪いと、王子様に迎えに来ていただけないじゃない」、顔を上げた姫がくすんと鼻を鳴らした。
「……そんなんだから、面白くない女って言われるのでは」
 思わず漏れ出てしまった私の本音に、姫がまた、わんわん泣き始めた。
「だって私、他の生き方、知らないんですものっ」
 考えてみれば、彼女だって与えられた役割を果たしているに過ぎないのだから、気の毒とも言える。
 春香には「元祖・眠り姫」としてシャルル・ペロー版の話をしたが、実はこのペローによる童話集の前にも「眠り姫」の原型となる作品が存在する。十七世紀のイタリアで活躍したジャンバティスタ・バジーレという詩人が、地方に伝わる民話をまとめた説話集「ペンタメローネ」に収録した「太陽と月とターリア」という物語だ。ターリアとは眠り姫の名前で、太陽と月というのは、彼女が産む双子の名である。
 このバレージ版でターリア姫の元にやって来るのは王子様ではなく王様だ。王子様と王様なにが違うのかと言えば、王様にはお妃様がいる。すなわち既婚者、不埒なのである。
 おまけにこの王様、眠っている姫を発見するなり「わーお、激マブ、こりゃたまらん」となり、眠るターリア姫をレイプし妊娠させる。姫は王の子を宿し、なんと眠ったまま双子を産み落とすというとんでもない展開だ。その後、王との愛人関係がお妃様にバレ、怒り狂ったお妃様に子供達をスープにされそうになったり、自身もまた火炙りされそうになったりと散々な目にあうのだが、最終的には王と結ばれ、めでたしめでたし。……本当にめでたいのか、それは。
 現在の日本でよく知られているのは、このターリア版、ペロー版の後に登場した、グリム童話の「いばら姫」だ。加えて、ディズニーによるアニメ映画「眠れる森の美女」も記憶に残る人が多い。アニメ版では「魔女の呪いから身を隠すため、十六歳になるまで平民として育てられた」という現代風の設定が加えられており、庶民の苦労も多少は味わった姫だが、基本的には「寝てるうちに男がやって来て、困難な状況から救い出してくれる」という骨子にあまり変化はない。
 待ってるだけで男が救ってくれる世間知らずのお姫様――それが「眠り姫」。過酷な現代社会を生きる女性から嫌われるのも、わからなくはない。
「だって、あの魔女が主役の映画までつくられたなんて聞くと、どうしても気になってしまうんですもの。貴女、その映画ごらんになった?」
 赤くなった鼻をティッシュで擦りながら姫が言う映画とは、ディズニーの実写映画のことだろう。観てないので首を横に振ると「そう」と呟き、肩を落とす。
「……きっと私みたいな女って、今の時代には似合わないのね」
 小夜啼鳥の声色が、悲しそうに囀る。その隣に座る相談役の桃太郎は、タブレットを突っつきながら我関せずを気取っていたが、その実、しっかりと聞き耳を立てているようにも見えた。
「あのー、お取り込み中のところ、すみません」
 顔の直ぐ近くで、ばさばさっという音がした。耳の穴に羽虫でも飛び込んできたかと、ひやっとして音のした方に顔を向けると、小さな黒い鳥が右肩に止まりこちらを見ている。ツバメだ。揺れる肩の上で体勢を保つため、細い爪でぎゅっとしがみついてくる。その爪がロンTのバスク生地越しに刺さって、ちくちくする。
「爪、痛いっ」
 ぱっぱと手ではらうと、テーブルの上にばたばたっと飛び降り、
「王子もおりませんし、わたくし、暇でございます」
 白い胸毛を見せつけながら、つぶらな瞳をこちらに向ける。
「知らないよ、そんなの。暇ならどっか遊びに行きな」
「やや。この雪の中、このツバメに外に出ろと? 寒さで翼が凍え、墜落は必至。このツバメに死ねとおっしゃっるのですかっ」
「……服でも着れば? 作ってあげようか」
 ツバメの服くらいなら、靴下に鋏で穴を開けて作れそうな気がする。
「それはありがたい申し出にございます。しかしわたくし、服装には少々こだわりがございます。王子の使者として、恥ずかしい服を着るわけにはまいりませんからね。色、材質とすべてにこだわり抜いた一級品でないと」
「一級品」
 そんな靴下、我が家にはない。
「それに、意匠についても申し上げておきたい」
「いしょう?」
「デザインのことにございます」
 はぁ、と頷く。
「ご覧ください、わたくしのこの羽毛を。白と黒の鮮やかなコントラスト、差し色として際立つ赤い襟元。まさに自然界の芸術的逸品と申せましょう。ですからこの羽毛の柄を、洋服でただ隠してしまうわけにはいかないのです。たとえば美しい光沢を持つ漆黒色の生地に、この胸毛のように真っ白なポルカドットをあしらうなどして、あくまでもツバメのイメージを損なわぬよう、かつ、斬新な意匠でないと。そうでもしないと、このツバメがわざわざ服を着る意味がございません」
 よく喋る鳥である。「服は、そもそも防寒のためだったんじゃ」という言葉はあえて飲み込んでおく。
 昨日、「幸福の王子」のシナリオを書いていると、このツバメが部屋に飛び込んできた。幸福の王子の方は現れず、作中では王子と同じく天に召されたはずのツバメだけがやって来て少し不思議だった。しかし王子は彫像、王子像だ。そんなものまで部屋にいられると邪魔なので良かった。しかし、こんなうるさい鳥を相手にするくらいなら、たとえ大仏なみに巨大だったとしても、物言わぬ王子像の方がまだマシだったかもしれない。
「おや、そのお顔。もしやこのツバメのことを、ピーチクパーチクとよく喋るうるさい鳥だ、などと思ってらっしゃるのでしょうか」
 ぎくり、図星。この鳥、意外に鋭い。
「いいえ、決してそんなことは」
「そうお考えになるのも無理はございません。しかし、このツバメの多弁には意味があるのです」
 ダイニングテーブルの上で爪をカチャカチャ鳴らしながら、ツバメが語リ始める。同じく、テーブルを囲んでいたはずの眠り姫はいつの間にかいなくなっていて、桃太郎はタブレットから伸びたイヤホンで耳を塞いでいる。足元で丸まって寝ていたはずの犬も、うるさそうにしっぽを垂らし、キッチンへ消えた。みんな、ずるい。
「王子はおっしゃいました。かわいいツバメ君、私のためにお使いをしてくれないか、と。かわいいツバメとは、無論わたくしのことです。王子はお腰に差された刀からルビーを取るよう命じ、私はそれを病気に苦しむ貧しい少年の元へと届けました。その後には両眼に輝くサファイアを、さらにはお身体を包む金箔を剥がせと命ぜられました。王子の身体を傷つけることにまるで我が身を切り裂かれるような心の痛みを覚えながら、王子のご命令通り両眼をえぐり出し、金の皮膚を一枚一枚剥がしていきました。そうして無償の愛と化した王子のお身体を、貧しい民へと少しずつ分け与えていったのです。しかし王子は寡黙なお方。それが、王子の愛だということに、誰が気づきましょうか? いえ、誰も知りません。知っているのは、天使様だけです。けれど王子が望むなら、わたくしはそれでも構わないと考えました。誇らず、示さず、ただ無償の愛を与える存在。それこそがわたくしの王子だったからです。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。わたくしの胸の内に残る違和感が、長い間、棘のように心に突き刺さっておりました。長い時を考え続け、いよいよ一つの結論を得たのです。王子は至高の愛を那由他にお持ちだった。しかしその王子のお身体は溶かされ、鉛の心臓のみとなってしまいました。もう誰も王子の姿を目にすることはありません。ですが、王子がこの世に存在したという事実こそが、人々に勇気を与えるのではないでしょうか。ですから、王子のかわいいツバメであるところのわたくしは、王子の使者として韜晦しているわけにはいかぬのです。王子の偉業を伝え、後世に残るまでその功績を――」
 よく喋る鳥である。
 うんざりして隣に座る桃太郎の肩を叩く。
「ねぇ、あんたも話、聞いてあげなよ」
 桃太郎は黙ったまま頭を振った。

 将臣との約束の晩は、ひどく吹雪く寒い夜だった。
 金曜日の夜のことで、二ヶ月と置かずに夜の街に行く私を、夫は快く見送ってくれた。らぶ夫、大感謝だ。
 地下鉄の駅から地上への階段を上っていくと、街の明かりがぼんやり照らす薄赤い空に、激しい横風に吹かれた白い雪が、斜めの直線を描いているのが見えてきた。風向きが変わり、大きく口を開いた出入口からびゅうっと冷たい風が吹き込んでくる。肩をすくめ、ニット地のスヌードに鼻の頭まで顔を隠す。
 地上には、週末にも関わらず、この天気のせいで、ぽつりぽつりとしか人がいなかった。皆が足早に進む中、
「うわっ、雪すごっ! やばいやばいっ」
 はしゃぐ声が聞こえる。信号待ちしているその一行を何気なく観察してみると、女の子が二人と男の子が一人、大学生風の三人組だった。三人とも、よく似たもこもこのダウンコートに身を包んでいる。観光客だろうか。背の高い女の子は赤い色のダウン、背の低い女の子は黄色のダウン、男の子は青い色のダウン。まるで信号機だ。信号機が信号待ちしている。
 追い越した私が横断歩道を渡りきった後も、三人組はそろそろと慎重な足取りでまだ車道の中間地点にいた。びゅうと吹きつける雪に身体を寄せ、道の真ん中でも「雪、雪っ!」とはしゃいでいる。
 観光客には、ただ物珍しく綺麗な雪も、北国に住む人間にとっては厳しいものだ。「これ以上はやめてくれっ」と叫んだって降り止まないときはまるで降り止まない。一晩のうちに玄関のドアが半分も埋まって、外に出られないこともある。大雪で電車は止まるし、ひどい時には停電だってある。歳を重ねるごとに雪かきはしんどくなる。毎年、雪の下敷きになって死ぬ人も多い。
 だからこの地に住む人の大半が、冬が来るたび「あぁ、また嫌な季節がやってきた」と眉をひそめる。概ね、同意だ。だけど私は、それでも「雪なんて、なくなってしまえばいい」とまでは思えない。
 目覚めると、昨夜から一変して全ての景色を白が覆った驚きの朝が。スカイブルーの空の下、樹々の枝にかかった綿帽子を太陽がきらきらと光らせる清涼な昼が。恐ろしいほど静かに街が埋まっていく、仄暗い夜が。やっぱり美しいと思う。
 だから私達は、腰痛に泣き、ぶつくさと文句を言いながらも、雪かきの日々を続けていくのだ。
 串焼き屋に到着すると、奥まった場所にある個室に通された。前と同じカウンター近くのテーブル席を予約していたのだが、悪天候のせいで客が少なく、店員が「落ち着ける席に」と気を使ってくれたようだ。
 ブーツを脱いで障子戸を横に開くと、四人用の堀座卓があった。扉に背を向けて座っていた将臣が、「よぅ」と左手を上げてこちらを見上げる。「よ」と返し、荷物を置いて奥の席に座る。部屋の中は思った以上に狭く、木製テーブルの下で膝と膝がくっついてしまいそうだった。
 仕事終わりの将臣はスーツ姿だった。濃いグレーのよれっとしたスーツで、首からは黒地に白い水玉模様のネクタイをだらしなくぶら下げている。手元には前と同じくジョッキが置かれていて、中身はほとんど空だった。
「仕事、早く終わったの?」
「まぁな。なに飲む」
「ハイボール」
 壁際に立てかけられていたタッチパネルを操作し、改めてこちらを見た顔の、頬と目元がもう赤かった。
「残念だったな、一ノ瀬」
「春香、どうかしたの?」
「スマホまだ見てないのか。来れなくなったって」
 え、と驚き愛用のショルダーバッグからスマホを取り出す。画面には「一ノ瀬 春香」からのメッセージが表示されていて、
『ごめん、今日行けなくなったっ! 母さんとこに用事、ごめんっ!!』
 の後、平謝りするシマリスのスタンプが押されていた。にわかに、「不埒」の二文字が脳裏に浮かぶ。慌てて打ち消す。
「一ノ瀬のお母さん、あんまりよくないみだいだな」
 十歳年上のお姉さんがいる春香のお母さんは高齢で、最近、認知症が発覚したという。お姉さんは関東に家を買って家族で暮らしているので、今は同居するお父さんがお母さんの面倒をみているそうだ。
「これからは、ちょくちょく札幌に戻ってくることになりそう」、前の飲み会でそう言っていた。頻繁に会えるようになるなら嬉しいが、状況を考えると、そうも言ってられない。春香は悲しいというより、困惑しているような、まだ考えている途中のような、そんな表情をしていた。
 障子戸が開き、臙脂の作務衣を来た店員が飲み物を持ってきた。将臣の前にビールジョッキが、ごとっごとっ、と二つ置かれたので、驚く。
「二つも頼んだの?」
「だって持ってくるの遅いだろ。待ってる間に酔いが覚める」
 並ぶうち、利き手側のジョッキを持ち上げた手が伸びてくる。目の前に置かれたばかりのハイボールのタンブラーにジョッキがぶつけられ、勝手に乾杯された。
「飲むようになったね。昔は私の方が強かったのに」
「強かったのか? よく介抱してやってた気がするけど」
「あの頃は無理して飲んでたから」
「今は大人の飲み方を覚えたか」
「……どうだろう」
 ふっと笑みを見せてから、二回に分けてジョッキの中身を半分ほど飲み干した。私も釣られてタンブラーに口をつける。薄いハイボールは、冷たいばかりであまり美味しいと思えなかった。
「そういやこの間、珍しくサッカー観たよ。ワールドカップ、いい試合だったね」
「俺は観てない」
「将臣のくせにサッカー観てないの?」
「なんだよ、将臣のくせにって」
「だって、」
 学生時代の将臣は、暇さえあればサッカーの話をしていた。まったく興味のない私にさえ、この間のプレイがどうこうと楽しそうに解説してくるので、地元チームの選手の名前をあらかた覚えてしまったほどだ。高校まではサッカー部に所属していたそうだが、大学に入ると観る側専門にまわったと言っていた。
「サッカー、好きだったじゃん」
「あんなの観たって、なんにもならないだろ」
 スポーツ観戦を「なにかのために」観戦してる人なんているんだろうか。そこに理由は必要なんだろうか、と思わず首を捻る。
「そっちこそ、まだ続けてるのか? 学生時代に好きだって言って書いてただろ、小説」
「いや」
「どうして?」
「だって、」
 あんなの書いたって、なんにもならない――という言葉を思わず飲み込む。
 昔は、誰に読ませるわけでもなく、よく小説を書いていた。将臣と春香にだけ、こっそり打ち明けたことがある。公募にも出したことがあったが、父親に見つかり「お前、作家でも目指してるのか」と笑われると、急に恥ずかしくなり止めてしまった。父のせいとは思っていない。その程度のことだった、というだけだ。
 しばらくの間、黙ったままハイボールを飲む。前の時と同じ、鶏もも串、醬油だれの豚バラ串、葱のいかだ焼きが運ばれて来た。とたんに、脂と炭とタレの混じった香ばしい匂いが個室を満たす。美味しそうには見えるけど、今日はどうも食べる気がしない。お腹が減ってないんだろうか。将臣も串焼きには手を伸ばさず、ビールばかり煽っている。
「将臣、仕事大変?」
「どうした、突然」
「なんか最近元気ないから。それにゼネコンって大変そうじゃん」
「まぁ」と、否定も肯定もしない。
「下の娘がさ」
 自分の手元を見ながら口を開いた。しかし、それきり話が続かない。
「お姉ちゃんはもう高校生だよね。妹ちゃんは、まだ中学生だっけ」
「中学二年生、学校行ってないけど。不登校なんだ」
 初耳だった。
「いつから」
「小四の頃から、少しずつ。中学校はほとんど行ってない。最近じゃ部屋から出て来なくなって、ほぼ引き籠もり。口もきいてくれなくなったし、同じ家に住んでるのに、もう何ヶ月もあいつの顔見てない」
 将臣からこうして家族の話を聞くのは、いつぶりだろう。下の娘が幼稚園で女子サッカーを始めたと言って、親子で買ったお揃いのシューズの写真を見せてくれた記憶がある。かなり昔のことだ。
「母親とは話してるみたいだけど。男親っていうのは、やっぱ嫌われるもんなのかな。俺にできることなんて、せいぜい働いて金を持って帰ることくらい」
 少しだけ笑ってから一杯目のビールを飲み干し、二杯目に手を伸ばす。
「そっちは息子だったよな。元気か?」
「うん」
 先月、はじめて友達が家に迎えに来て、嬉しそうに登校していった息子の姿を思い出す。いつかあの子も「学校行きたくない」と言う日が来るのだろうか。
「……なぁ、煙草吸ってもいいか」と聞かれ、頷く。テーブルの上に灰皿をさがすが見当たらず、将臣は店員を呼んで持ってくるよう頼んだ。しかし、「当店は全面禁煙です」
「飲み屋なのに禁煙か」
 障子戸の閉められた室内で将臣が目を丸くする。
「そういうとこも増えてきたんだね」
「まじか。俺達が学生の頃なんて、テレビで煙草のCMやってたのにな」
 将臣の言うように、九十年代頃までは紫煙をくゆらす人気俳優の姿をテレビでもよく目にしていた。ところが二〇〇〇年代に入り公衆衛生上の目的から、世界中が「煙草は害」という方向に舵を切ると、日本でも政府による指針が作成され、企業は「自主規制」という形で広告をつくらなくなった。ちなみに二〇一四年には、とある煙草の広告塔として世界的に有名だった俳優が肺病で死去し、喫煙家たちに大きな衝撃を与えた。存命中、煙草の普及に貢献してきた彼が、その死をもって禁煙を啓蒙したというのは、なんとも皮肉な話である。
「俺がはじめて煙草吸ったのは、高校の時だった。親のを盗んで、こっそり吸ってみたんだけど別に美味くなかったな。こんなもんかぁ、って」
 ポケットから煙草を取り出し、パッケージを懐かしそうに眺める。
「はじめて自分で金払って観に行った映画に出てきた役者が吸ってて。それが格好良くて、憧れたんだよ。だから吸い始めたんだけど――」
 言葉を切ってから、煙草をテーブルの上に放り投げた。
「今考えると、くだらないことしてたな」

 終電の時間が近づいていた。
 途中から数えるのを止めたほど、たくさんのジョッキを空けた将臣は、お酒が回りはじめてからは楽しそうにしていた。やっぱり昔の話ばかりしていたけど、よく笑った。今は黙って壁に凭れかかっている。
 そろそろ店を出ないといけない。背後からじんわりと冷気を送り込んでいた、これまた障子紙の貼られた窓を開いて外を見る。ガラスが白く曇っていた。いや違う、猛吹雪でホワイトアウトしている。雪で塞がれた視界の向こう、街の灯りがぼんやりと確認できる以外、外の様子がまるでわからなかった。
「吹雪いてるな」
「やばい、電車止まってるかも」
 家の最寄り駅はJR沿線にある。地下鉄に比べると雪に弱く、こんな日は動かないことが多い。スマホで運行状況を確認すると、案の定、運休していた。
 慌てて夫に「迎えに来て」とメッセージを送る。すぐに「ごめん、飲んじゃった」という返事と、頬を染めた猫が頭を下げているスタンプが送られてきた。
「えーどうやって帰ろう。タクシー来てくれるかな」
 窓の外とスマホを見ながら悩む私に、「泊まってけば」の声。
「無理して帰る必要ないだろ」
 そっぽを向いたまま、将臣が言う。
「朝まで飲むつもり?」
「どっかに泊まろう、二人で」
「馬鹿なこと言わないで」
 笑いながら答えると、ようやく顔がこちらを向いた。その目つきが、少しこわかった。
「……お前、旦那に俺達が付き合ってたこと言ってないんだろ」
「なにそれ、突然」
「一ノ瀬から聞いた。バラしてやろうか、俺が。旦那に」
「え」
「冗談」
 口元に笑みこそ浮かんでいたが、ふざけてるようには見えない。
「なぁ、朝まで付き合えよ」
 目が、じっと動かず私を見る。
「……今日は一緒にいたい」
「嫌だって言ったら旦那にばらす気? それって脅してるの?」
 拒絶するつもりで口を開いたが、
「違う、甘えてるんだ」
 なにも言えなくなってしまった。
「昔の貸し、いま返してくれよ。お前がしんどかった時に一緒にいてやったろ」
 テーブルの上に放り出されていた将臣の手がゆっくりとこちらに伸び、指先に触れた。
「はじめての相手ってわけじゃない、俺達さえ黙ってれば誰も傷つかない。なぁ頼むよ、今日だけでいいんだ」
 右手の甲に、指輪の光る将臣の左手が重なる。さらに伸びてきて、手首を掴まれる。
「俺達だって、少しくらい楽しんでもいいはずだろ。だから――」
 その手は、記憶よりずっと重くてカサついていた。
「将臣」
 動きが止まる。
「本当にそれでいいの?」
 一瞬、泣き出すのかと思った。
 それほどに、ぐしゃっと歪んだ顔が、すぐに背けられた。手が離れていく。再び口が閉ざされる。

「ココデス、ココ。匂イマス」
 廊下の方から、どしどしっという床板を踏み鳴らす音とともに、覚えのある特徴的な声が聞こえてきた。と、思うや否や、将臣の背後の障子戸がたーん、と音を立てて勢いよく開く。ぬっと現れた大きな人影に驚き、
「もっ――」
 叫びそうになったが、両手で口を抑えてぐっと堪えた。
「ここにいたのか、捜したぞ」
 顎を上げ、偉そうに私と将臣を見下ろしている。夫のお気に入りの紺色の防寒ジャケットが、つんつるてんだ。頭からは私の赤色のニット帽を目深に被っている。足元には、はっはっ、と楽しそうな犬。
「誰こいつ、犬ぅ?」
 桃太郎を見上げた後、間近で尾を振る犬に視線を落とした将臣が、上ずった声を出した。
「将臣、こいつらのこと見えるのっ!?」
「見えるったって――」
 犬は「撫でてくれ」とばかりに、頭をぐいぐいと将臣の腕に押し付けている。呆然とした将臣が、その茶色く短い毛の生え揃った頭部をおそるおそる、撫でる。くるりと巻いた尾が振り回され、将臣のスーツに、ばっしばっしとぶつかり音を立てていた。
「あんた達、どうやってここに来たのっ!?」と、思わず声の大きくなる私。
「桃太郎サンハ、神出鬼没ナノデス」と、犬。
「え、いま喋ったの誰?」と、将臣。
 ついに妄想の蓋が開き、現実にまで侵食してきた。
「団子を買ってこいと言うのを忘れていた。あれは美味かったからな。どこで売っている」
 だんご、とは何のことだ? しばし考えた後、
「団子って花屋の? 店なんか、もうとっくに閉まってるよ」
「なんだとっ!?」くわっと目を見開き、怒りの形相で睨んでくる。そんなことで怒られても、困る。
「……ならば帰るぞ。団子がないなら、こんな場所に用はない」
 くるりと背を向け、桃太郎が廊下を引き返す。
 わんっと小さく吠えた犬も将臣から離れ、ちゃっかちゃっかと爪を鳴らして廊下を進む。
「ちょっと、待ってよっ」
 桃太郎はともかく、リードも繋がず犬を歩かせるわけにはいかない。荷物とコートを抱え、慌てて立ち上がる。
「あれ、お前の息子? ずいぶんデカくなったなぁ……」
 一人と一匹の消えた先を見ながら、将臣はまだ目を白黒させていた。

「あ、まずい。将臣にお金渡すの忘れた」
 終電後で閑散としたアーケード街を進む中、はっと思い出し足を止める。隣では桃太郎がごま餡の乗った串団子をくわえている。「団子、団子」とあまりにうるさいので、コンビニで買ってやった。つい先日、同じ場所で別の人間が団子を食べているのを見たばかりなので、妙な気分だ。
「店に戻ろう」と言う私に桃太郎は「別の日に返せばいいだろ」と嫌がりついてこない。けれど、お金のこと以上に、どたばたと別れてしまった将臣のことが気がかりだった。あのまま、一人で残しておいても良かったのだろうか。
 犬の首から伸びる赤いビニール紐をひっぱり、いま来た道を引き返す。桃太郎も渋々ついてきた。ちなみに犬の首に巻いてあるビニール紐は、同じくコンビニで買ったものだ。ノーリードで連れ歩いて通報されないための緊急措置である。
 串焼き屋に戻ると、将臣はもう店を出た後だった。「ついさっき帰られましたよ。お席に忘れ物があって追いかけたんですが、もう姿が見えなくて」と店員に手渡されたのは、将臣の締めていたネクタイだった。
「ほら、犬。この匂い嗅いで、将臣がどこにいるか捜しなさい。まだ近くにいるから」
 ネクタイを鼻先にぐいぐい押し付けると、犬はすんすん匂いを嗅ぐ。今度は黒光りする鼻を天に突き上げ、再び、すんすん。「コッチカラ匂イマス」、駅とは逆方向、アーケード街の外れに向かって走り出した。
「アッチデス」
 アーケード街の終わりで、犬が足を止めた。分厚い吹雪のカーテンの中、横切る雪の車道が、街から零れるわずかな光に照らされ灰色に見える。その車道沿いに流れる細い川の向こうに、ぽつんと黒い影があった。
「あれ、将臣?」
「ソノヨウデス」
「あんな危ない場所でふらふらと、何してるんだ」
 桃太郎の言うように、その人影は車道の真ん中にあった。覚束ない足取りで歩き、やがて立ち止まる。まだ酔っているのだろうか。ここからだと声が届かないので、桃太郎とともに雪の中に進む。
 頬に吹き付けてくる風雪が、冷たさを通り越して痛い。口から息を吸い込むと、肺まで凍りついてしまいそうだった。目の中にも細かい雪が飛び込んできて、あっという間に前が見えなくなる。新雪に足を取られながら、重い足を少しずつ前に出しさらに進む。
「将臣っ!」
 川にかかる橋の真ん中あたりで、私は大声を上げた。人影が動き、ゆっくりと振り返る。
「危ないから、早くこっちにっ――」
 影の輪郭が青白く照らされた。直後、ごぅんと鈍い音がして、消えた。
 目の前には人影に代わってシルバーのコンテナが現れた。ぎぎ、ぎぃ、という大きなブレーキ音が周囲に響く。
 大きく開けた目と口に、雪が飛び込んでくる。内側からどんどん冷やされ、身体を動かすことができない。声も出ない。隣にいた桃太郎が動く。急停止したトラックの前方を目指し、ざっと雪を掻き分け走り出す。私の手から離れた犬もそれに続く。
 トラックから数メートル離れた車道の上、雪に埋もれて横たわる黒い塊。ぴくりとも動かない。
 あれは、将臣。
 
 4

 葬儀は、嘘みたいに晴れた気持ちの良い日に行われた。
 あの晩、すぐに救急車を呼んだが、将臣が息を吹き返すことはなかった。即死だったそうだ。警察から遺体が帰ってきたのが事故から五日後のこと、その翌日にはすぐに通夜が、今日は葬儀が執り行われる。会場となったホールは広く、体育館くらいあった。昨年に母が亡くなった時は家族葬で済ませていたので、規模の違いに驚いた。参列者もたくさん来ている。将臣の会社の人や友人、奥さんである依子ちゃんの知り合い、娘の同級生一家など、色んな人が集まり「この度はご愁傷様です」と口にした。泣いている人も多かった。
 依子ちゃんとは事故の当日、警察で会った。依子ちゃんを待っている間中、「責められるかもしれない」と怖かったが、ひどく憔悴した表情で「彼の傍にいてくれて、ありがとう」と頭を下げられた。悲しくて喉の奥がつまったけど、依子ちゃんの前で自分だけ泣くわけにはいかないと思って、耐えた。
 葬儀には、旦那と息子、それに旭川から駆けつけた春香と一緒に参列した。春香は式の間中、ずっと鼻を鳴らして泣いていた。私も堪えきれなくなって、肩を揺らして泣いた。そんな私を見て息子は「お母さん、がんばって」と励ましてくれた。旦那も、ただ黙って傍にいてくれた。
 祭壇で花に囲まれて笑う将臣の写真は、なんだか変な感じだった。「こんなに爽やかに笑う奴だったっけ」と思った。私の中の将臣のイメージとは、少し違っている気がしたせいだ。だけど他の参列者は「垣内くんらしい、いい写真だね」と言っていた。あれも、誰かのよく知る将臣の顔なのだろう。
 依子ちゃんが「ぜひ来てください」と言ってくれたので、私と春香は火葬にも参列した。親族以外で参加したのは私達だけだった。遺体が燃やされている間、豪華な弁当が出されたけど、どうしても食べる気になれず、私と春香は控室を出て喫茶スペースでコーヒーを頼んだ。
「あんたも大変だったね」
 コーヒーカップに口をつけながら、春香が言う。いつもは真っ赤な唇が、今日は淡いベージュ色だ。
 最近、改修工事が行われた公営火葬場は真新しく、コンクリート打ちっぱなしの壁に白いモルタルの床が広がる巨大な空間は、モダンなつくりだった。そこを真っ黒な服を着た人たちが行き交う様子は、まるでSF映画のワンシーンのようだ。
「まさか、将臣が死んじゃうなんて」
 何度も化粧を直した目に、また涙を浮かべている。喫茶コーナーは大きな窓に面していて、青い空と白い雪をかぶった広い中庭が見えて気持ちが良い。ずっと先には雪の積もる山が連なっていて、スキーゲレンデもいくつか見える。
「ずるいよね。一人だけ先に逝っちゃうなんて」
 また歪み始めた春香の声に、「うん」と頷く。しばらくの間、二人で窓の外に光る雪景色を眺めていた。
「……私、この間ね」ぽつりと、春香が話し出す。
「あの」
 直後に別の声が聞こえ、見ると依子ちゃんがすぐ傍に立っていた。慌てて席を立とうとする私達に、「いえ、そのままで。少し話を聞いてもらいたくて」と頭を下げる。春香が隣の椅子をひき、依子ちゃんはそこに腰掛けた。
「夫は……お二人になにか話していたでしょうか。悩みがあるとか、なにか」
 黒無地の着物に髪をアップにまとめ上げた依子ちゃんの頬は真っ白で、削ぎ落とされたみたいに痩け、痛々しかった。目の下の隈も、化粧で隠し切ることができないほど濃い。もともと細い人だったが、こんなに頼りないほどだったか、と驚いた。
「娘さんが不登校だという話は聞きました」
「あぁ」と溜息と一緒に小さな声が上がる。「その他には、なにも?」窺う眼差しを不思議に思い、春香と顔を見合わせて首を捻る。
「……実は、職場でトラブルを抱えていたようなんです」 
 春香が目を丸くして依子ちゃんの横顔を見た。依子ちゃんは頭を動かし、さっと周囲を確認してから声を潜め、
「詳しいことはわからないのですが、裏金づくりの片棒を担がされた、と」
 同時に「えぇっ」と大きな声が出る。再び周囲を確認してから、依子ちゃんが話を続ける。
「酔って話していたのを聞き齧っただけなので、本当のところはわからなのですが……。上司の現場所長が、計画より安い建築資材を使って裏金をつくっていると。夫は現場所長の下で事務をやっていたので、明細の書き換えを命じられたそうです。会社ぐるみの裏金工作だ、とも」
 将臣は、東京に本社のある大手ゼネコンの支社で働いていた。あまり仕事の話を聞くことはなかったが、以前「今度、街中にでかいビルを建てる」という話をしていた。オフィスや商業施設が入る予定のビルで、いまもその建設工事は続いている。
「そのことが原因で、部下の一人が退職したとも言っていました。その部下の方は告発すべきだと夫に迫ったそうです。ですが夫は――」
 依子ちゃんは言葉に詰まり、俯いた。
 突然の話に、理解するまで時間がかかった。春香も眉根を寄せ、ぽかんと口を開け私を見ている。
 将臣は、不正を強いる会社とそれを正そうとする部下の間で板挟みになっていた。告発できなかったのは、家族のためを思ってのことかもしれない。だけど、将臣ならもしかすると――
「証拠は残ってないんですか? 告発するつもりがなかったにせよ、将臣なら、なにか残してる気がします」
 依子ちゃんが顔を上げた。その頬には、細い涙の跡がある。
「……ロックのかかった外付けのハードディスクを見つけました」
「それ、きっと中に大事なデータが入ってるんですよ、裏金の証拠とか! 中身、なんとか確認できないんですか?」
 春香の言葉に、依子ちゃんはまた苦しそうな表情を見せる。
「……さっき葬儀会場で会社の方に話しかけられました。六十代くらいの男の方で、夫の上司だと仰ってたので、あの人が現場所長なのかもしれません。その方が――」
 細く震える声で話し続ける依子ちゃんを、春香と見守る。
「垣内はよく頑張ってくれました。この後なにもなければ(・・・・・・・)弔慰金をたくさん出せるよう尽力しますので安心してください、と」
 金をやるから黙っていろ――ということか。
 怒りで頭からさっと血の気が引いた。春香の顔にも、あからさまな嫌悪の表情が浮かんでいる。しかし依子ちゃんは白い頬で俯いたまま力なく、
「私には、頑張ることなんてできない」、涙声を絞り出し、顔を覆った。
 その彼女に、「戦え」とは言えなかった。

 家に戻ると、夫と息子は出かけていなかった。コートを脱いで仕事部屋に入り、喪服のまま椅子に座る。デスクの上に放り投げてあった黒地に白い水玉模様のネクタイが目に入った。将臣のものだ。依子ちゃんに渡すつもりだったのに、すっかり忘れていた。
「やや、や」
 ばさばさっと羽音が聞こえ、ツバメがデスクの上に降りてきた。への字に曲がった小さな嘴で、ネクタイを突っつき始める。
「これは美しいものですね。マントでございましょうか? 光沢のある黒地に真っ白なポルカドット、まさに理想」
 あまりに褒めちぎるので、私はツバメの首にそのネクタイを巻きつけ、ゆるく縛ってやった。小さなツバメの身体から、スカーフのように巻いたネクタイが長く長く伸び、妙ちくりんな感じだ。
「これは素晴らしい! 王子の使いたるツバメに相応しいマントの完成にございます! あぁ、王子にもこのツバメの美しい姿を見ていただきたいものですっ」
 ツバメは喜び、ぴょんぴょん、とデスクの上で跳ねながらネクタイを引きずっている。
「して、これはどなたの物ですか? お譲りいただけると嬉しいのですが」
「大丈夫、あげるよ」
「おぉ、それはありがたい! ぜひ持ち主様にお礼を言わなければ。どこにいらっしゃるのです?」
 死んじゃったからもういないよ、とは言えなかった。

 将臣と私が付き合っていたのは、学生時代のたった一ヶ月間のことだった。それは恋愛関係と呼べるようなものではなかった。
 当時、私には一年ほど付き合っていた相手がいた。年上の助教授だ。その彼にこっぴどく振られたのが大学二年の冬。彼のことが好きで好きでたまらず、そのことが彼には負担になったようで、突然「もう会いたくない」と電話で別れを告げられた。校内で姿を見かけることもあったが、顔も合わせてくれなくなった。おまけにその頃、命賭けで追っかけていたバンドのボーカルまで逮捕された。薬と淫行、女性への傷害によるものだ。
 自分を支えていたものが、あっという間に全部壊れてしまい、私は立っていられなくなった。そんな時に、傍にいてくれたのが将臣だった。
 将臣は優しかった。何も言わずに寄り添い、長い時間、慰めてくれた。あの時、彼に甘えることで、なんとか立ち直れたのだと思う。将臣は、そういう人だった。
 また涙が溢れてきた。ひっくひっくと泣きじゃくり、鼻水もずるずる垂れ落ちてくる。それでも泣くのを止められなかった。
 ネクタイを巻いたツバメが、つぶらな目をますます丸くして私を見上げる。
「な、なぜ泣くのですかっ!?」
 どうして幸福の王子が出てきてくれないのか、不意に、その理由がわかった気がした。
 この世界は、彼にはきっと重すぎる。

 5

『私ね、去年、子供堕ろしたんだ。あの人の子供。この歳でまさかの自然妊娠。びっくりよね。産みたい気持ちもあったんだけど、あの人は向こうと別れる気もないって言うし、一人じゃ育てる自信なくて。だけど母さんには、孫の顔見せてあげたかったなって、今になって後悔してる。もう遅いんだけど』
 葬儀から一週間ほど経った深夜、春香から長いメッセージが届いた。
『これからの時代は女だって自立しなきゃ、なんて言われて育っちゃったもんだから。昔は母さんや父さんみたいに、普通に結婚して普通に子供産んで普通に生活する、っていうのがダサく嫌だった。でも今はちょっとだけ羨ましい。自分で選んできた道だけど、なんか最悪に思えてきたから。だって惨めに見えるでしょ?』
 わはは、と涙を浮かべながら笑うシマリスのスタンプ。
『普通に頑張れば普通に幸せになれるって、そう思ってたんだけど。私達、なにが悪かったのかな』
 メッセージはそこで終わっていた。

 玄関ドアが開かれた。「ただいまぁ」の声がなく、廊下に顔を出す。上下つなぎの防寒着を着て、帽子やランドセルに雪の塊を乗せた息子が、三和土に佇んでいた。
「おかえりー。ただいまの挨拶は?」
 声をかけても俯いたままだ。その頭から、耳あて付きのナイロン帽を脱がせてやる。「パイロットの帽子だ」と喜んで、自分で選んだ帽子だ。
「どしたの、学校でなんかあった?」
 尋ねると、顔がようやく上がる。
「じじがね、」
 つなぎを脱がせながら、ゆっくり話し始めた息子に「うん」と返事する。
「さっき帰り道で会ったの」
「あぁ、また会ったんだ」
「……黄くんのこと、臭いからあっち行けって」
「え?」
 驚いてもう一度、顔を見る。眉間に皺を寄せ、大人みたいに複雑な表情が浮かんでいた。
「じじが、黄くんにそう言ったの? 臭いって?」
 黙ったまま、こくりと頷く。
「それで黄くんはどうしたの? じじは?」
「……黄くん、走って逃げてった。だから走って帰ってきた」
「じじを置いて帰ってきたの?」
 また、こくりと頷く。
 脱がせ終えたつなぎを床に置き、手を引いて二階に上がる。
 すぐにまたドアの開く音が聞こえた。追って、「おいっ」という低い声が響く。
「ここで待ってなさい」
 息子を子供部屋に入れ、階段の上に立つ。
 回り階段を見下ろすと階下から、
 どんっ、
 と足音がした。
「上着が脱ぎっぱなしだぞ。だらしないな」
 どんっ、どんっ、
 段板を乱暴に踏みつける音がする。
「書類はできたのか? まったくお前はいつまで経っても連絡をよこさない。そういうところ母さんにそっくりだ」
 どんっ、
 また一つ、階段を上がる。角を曲がった父の、白髪の間から皮膚の透ける頭部が見えてきた。
「おい、またあの中国人がいたぞ。あんなのをうちの孫に近づけるなって言ったろ」
 どんっ、
 顔が上を向く。刻まれた、いく筋もの皺を見ながら「こんな顔だったっけ」と考える。
「なんだ葬式があったのか。誰が死んだんだ?」
 ホールの隅にある、衣装ケースに置かれたままの喪服を見て言った。
「友達、垣内くん」
「男か」、鼻で笑う。
 どんっ、どんっ、どんっ、
 さらに近づく。
「あいつ、そこにいるのか? 黙って先に帰るなんて躾がなってないな」
 子供部屋を見た。
「早く謝らせろ」
 どんっ。
「……近づかないで」
「はぁ?」
「これ以上、息子に近づかないでっ!!」
 私の大きな声が、吹き抜けの階段ホールに響いた。父は三段ほど低い位置にいる。目線はまだ、私より低い。
「お前、誰に向かってそんな口きいてんだっ!?」
 激昂した父の声。子供部屋のドアの向こうから、息子が聞き耳を立てているのがわかった。
「生意気なことばかり言って、学生時代から遊び呆けてたくせに。お前を育てるのに、どれだけ金がかかったか、わかってるのか? 大学まで行かせてやったのに。なのにこのザマか。お前なんかが育てたせいで、俺の孫が俺に挨拶もしなくなった。部屋も汚いな。こんな豚小屋で育ててるから、まともな孫にならないんだぞ。そういうところ、本当に母親そっくりだ」
 怒りに任せ、大きく見開かれた目が私にそっくりで、気持ち悪かった。
「こんな娘は、いらないなぁ」

 ようやく気が付いた。
 この人はかつて「差別はいけない」と教えたその口で差別の言葉を吐いている。「夢を持て」と語った一方で頑張る人間を嘲笑う。「自立しろ」と言いながら本当は自分の傍に縛り付け道具になることを望んでいる。
 これが私を育てたものの正体、なんて醜悪。
 この人を息子に近づけてはいけない、ここで断ち切らなければ。今ならまだ間に合う。
 父を突き落とすため、私は両腕を持ち上げた。同じ高さまで上がってきた目が、不思議そうに私の手を見る。その父の身体を観察しながら、どこを押せばちゃんと転がり落ちてくれるだろう、と考える。肩だろうか、胸だろうか。身体は私よりずいぶん大きいが、背が丸まり筋肉は衰え、もう老人と呼ぶのに相応しく枯れている。今なら私の方が腕に力がある。胸だ。胸に両手をついてしっかり体重を乗せれば、後ろに倒れる。体勢を崩してひっくり返れば、壁か階段の角に後頭部を打つ。うまくすれば、そのまま黙らせることができる。チャンスは、今しかない。
「なにをするつもりだ」
 背後から、声がした。
「な、なんだそいつはっ!?」、取り乱した父が喚きだす。
 私のすぐ後ろに、陣羽織姿の桃太郎が立っていた。髷も結っている。
「鬼退治」
 答えた私を、桃太郎が見据える。
「先制攻撃は戦いの基本。そうでしょ?」
 桃太郎の腕が上がり、背中に見える柄へと手が伸びた。
「……鬼は、お前だ」
 刀が鞘から抜かれ、勢いよく振り下ろされる。
 私は、桃太郎に斬られた。
「コレハ見事ナ鬼退治ッ」
「サスガデス、桃太郎サンッ、日本一ーッ」
「ニャーッ」
 薄れる意識の中、猿と雉子とネコの声が聞こえた。犬が、倒れた私の頬をぺろぺろと舐めては、耳元で、わんわん吠える。
 ……あぁ、うるさい。

 昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。
 おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきます。毎日その繰り返しです。ところがある日、奇妙なことが起こりました。おばあさんが川で洗濯していると、川上から大きな桃がどんぶらこっこ、どんぶらこっこと流れてきたのです。おばあさんは驚き、その桃を拾い上げ、家に持ち帰りました。
 二人に子はなく、家にはおじいさんがいるだけです。そのおじいさんに「じいさんや、見ろこの桃をっ」おばあさんは嬉しそうに言い、二人で桃を食べることにしました。
 おじいさんが鉈を使って桃を半分に切り分けます。中身はただの桃でした。二人はその桃を分けあって食べました。酸っぱくて、あまり美味しくはありませんでした。
 その晩、おじいさんとおばあさんはセックスをしました。別に桃を食べて若返ったせいではありません。二人は愛し合っていたからです。
 けれど二人はもうおうじいさんとおばあさんなので、子供ができたりはしませんでした。
 また不思議なことが起きました。庭に植えた桃の種が芽を出し、たった一晩で巨大な樹木に成長したのです。家よりも大きく、小山ほどの大きさのあるその木に、おじいさんもおばあさんもびっくりしました。
 その桃は毎日、夜になると花を咲かせ、朝になるとたくさんの実をつけます。人々はこの桃の木に驚き、おじいさんとおばあさんに「食べさせてくださいな」とお願いにやって来ます。桃の実はたくさんなっていましたから、二人は「どうぞどうぞ、お好きなだけ」と皆にすすめました。
 桃の実はあまり美味しくありませんでした。酸っぱいものや、苦いものまであります。食べた人は、がっかりすることの方が多かったようです。けれどいつまでも、桃を求めてやって来る人は後を絶ちませんでした。
 味は今一つでしたが、その桃はとても美しい木でした。ですから、おじいさんとおばあさんは水をやったり虫をとったりと、なんとなく世話を続けながら、桃の木と共に暮らしていきましたとさ。
 おしまい

 意識を失っている間に、そんな夢を見た。

 6

 後から聞いて知ったのだが、私が桃太郎に斬られたのとほぼ同じ時に、不思議なことが起こっていたそうだ。
「美女よ美女、お姫様がいたのっ」
 と興奮した様子で話してくれたのは、将臣の四十九日で帰札した春香だ。
「パフスリーブのお姫様ドレス着た青い目の金髪美女! 頭にはティアラまで乗ってたの。びっくりし過ぎて顎外れるかと思ったわ」
 その日、春香は男の家を見に行ったそうだ。家族と暮らすマンションだった。
「将臣が死んじゃってから、なんか落ち込んじゃってね」
 物陰に隠れて彼の部屋を見上げていると、玄関から妻と二人の子供を連れた男が出てきた。その時、春香は「この人達の前に出ていって全部ぶちまけてやる。家庭さえ壊れれば、あの人は私の方に来てくれるはず」、そう思ったと言う。
「その時よ。突然、現れたお姫様が私に声かけてきたの。そのお姫様、なんて言ったと思う?」
 眠り姫は、
「もう、待つのは止めにしましょうか」と、にっこり笑ったそうだ。
「お姫様にそんなこと言われたもんだから、毒気抜かれちゃって。その日は帰って、次に会った時にあいつの金玉蹴り上げて、別れてやった」
 あはは、と明るく声を上げて春香は笑う。私もつられて笑いながら「うん」と頷き、その肩を叩いた。二人で涙を流しながら、長い間、笑いあった。
 もう一つは、依子ちゃんから聞いた話だ。
 会社を辞めた将臣の後輩、梶田という名の男の元に、ハードディスクが届けられたという。将臣のものだ。中には現場所長の指示で水増し請求する前の正しい明細が残されていた。後輩はこれをマスコミにリークし、ビルの工事はストップ。その後、事業主による点検で施工不良と虚偽報告が次々に見つかり、大きなニュースとなった。現場所長は辞任し、会社には捜査の手が入っている。
 名前こそ伏せられていたが、死を賭して会社の不正を暴いたとして、将臣がマスコミや世間からヒーロー扱いされていたのがなんだか不思議だった。生きていれば、将臣だって罪に問われていたかもしれないのに。
「そのハードディスク、依子ちゃんが梶田さんに渡したの?」
 四十九日の法要が終わり、将臣の自宅で久しぶりに顔を合わせた依子ちゃんに尋ねると、少し申し訳なさそうに頭を振った。「私ではないんです。おかしな話なんですけど――」、依子ちゃんが、話の途中でぷっと吹き出す。将臣が死んで以来、始めて見る笑顔だった。
 梶田にハードディスクを届けたのは、ツバメだった。
「僕、頭がおかしくなったかと思ったんですけど、本当のことなんですっ」
 梶田は額に汗をかきながら、必死の形相で依子ちゃんに説明したという。
 あの日、梶田の部屋に黒い外付けハードディスクをくわえたツバメが飛び込んできた。梶田曰く、「首にネクタイを巻いた変な鳥」だった。ツバメは梶田の目の前にハードディスクを置くと、
「この中には、この街でなによりも尊いものが入っております。秘密の鍵を解き、中身を世間に知らしめるのです」
 そう言い残し、飛び去ったという。
「喋るツバメなんて。そんなの、ねぇ」と、依子ちゃんはまた少し笑った。
 無職中でとくにやることもなかった梶田は、ツバメの言葉に従い、知り合いの業者を使ってそのハードディスクのパスワードを解除したそうだ。その後の顛末は、先の通り。
「もしかすると、梶田さんがうちに泥棒に入ったんじゃないかって。そんなことまで考えて、最初は怖かったんです。でも、そうじゃないって思えてきました」
 依子ちゃんが顔を上げる。
「ツバメは本当にいたんですよ、きっと」

 あの日、目を覚ますと息子が傍にいて、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。「お母さん、お母さん」と身体を揺すられた。私は二階の階段ホールで仰向けに倒れていて、父はいなかった。
「じじは、どこにいったの」
「あのお兄ちゃんが追い出してくれた」
 身体を起こして周りを確認する。桃太郎達の姿はなかった。
 ――カーン、カーン、カン、カン
「東西、東西ーーッ」
 拍子木の音と、舌っ足らずで甲高い叫び声が聞こえた。大きな目を丸くして、こちらを見る息子と一緒に階段を下りる。
 一階の廊下は、果実の匂いでいっぱいだった。爽やかで、とろりと濃厚な甘い香りがする。見ると玄関横、あるはずの壁がなく、フローリングが途切れたその先に書割のような風景が広がっていた。空は青く澄んでいて、遠く横たわる緑の稜線を太陽が照らしている。まっすぐに伸びた畦道を中心に、両側には青々とした稲穂が揺れる水田が広がっていた。
 畦道の端に、巨大な樹木が根を張っている。枝が見えなくなるほどたくさんの実をつけた、桃の木だ。
 袴に鎧、肩からは陣羽織、背中に刀を斜め掛けし、腰に巾着袋を下げた桃太郎が廊下に立っていた。階段の途中で立ち止まった私と息子を、横目で見る。後ろには、拍子木を打つ猿、雉子、犬を従えていた。
 桃太郎が書割へと進むと、猿、雉子がついていく。ところが犬は私を見上げ、くぅーんと鳴いたまま動かない。代わりに、仕事部屋から飛び出てきたネコが、猿、雉子に続いた。
 振り返った桃太郎がネコを見下ろし、「来るか」と尋ねる。ネコが「にゃー」と鳴き、猿、雉子の後ろに連なった。
 呆気にとられる私と息子に、桃太郎がばっと右腕を振り上げる。日の丸模様の扇子を見せつけ、口を開く。
「物語はアップデートされる。生き残るために」
 再び前を向いた桃太郎が、猿、雉子、ネコを従え歩きだす。
 ――カーン、カーン、カン、カン
「東西、東西ーーッ」
 桃太郎一行が、書割の中に消えた。
「ネコが行っちゃったよっ」
 息子が駆け出しネコを追う。しかしそこはもう、いつも通りの廊下だった。

 桃太郎は消えてしまった。姫もツバメももういない。私はやっぱり部屋で一人仕事の毎日で、父も相変わらず感じが悪い。
 変わったことと言えば、うちにいたはずのネコがいなくなり、犬が残ったということくらい。犬はもう喋ることはなくなったけど、いつも私の傍にいる。
 驚いたのは、息子の部屋にあった「桃太郎」の絵本まで、家来が猿、雉子、猫に変わっていたことだ。図書館や本屋でほかの絵本も確認してみたが、「桃太郎」の物語に登場する家来は、すべて猿、雉子、猫になっていた。旦那や春香に聞いてみても「桃太郎の家来は猿、雉子、猫に決まってるだろ」と言う。
 ほんの少しだけ、世界は変わった。桃太郎の家来に猫が加わった。もしかするとこの先、眠り姫は一人で目を覚まし、ツバメはネクタイを締めるのかもしれない。
 その世界で私は、久しぶりに小説を書いてみたくなった。だからいま、パソコンを開き一行目を書こうとしている。

 書き始めた瞬間、音がしたので手を止めた。
「なに書いてんだ?」
 振り返ると、優しく笑う懐かしい友達が、そこにいた。
(了)
 
 

参考文献・Webサイト

「新・桃太郎の誕生」野村純一 吉川弘文館
「図説 日本の昔話」石井正巳 河出書房新社
「桃太郎の誕生」柳田國男 角川ソフィア文庫
「幸福の王子」オスカー・ワイルド 曽根綾子訳 バジリコ

 桃太郎には桃から生まれた「果生型」と、おばあさんが若返る「回春型」の2パターンある Japaaan
https://mag.japaaan.com/archives/108911
「眠る森のお姫さま」ペロー 楠山正雄訳 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001134/files/43119_21539.html

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