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詩歌を書くことについて

なんとなく詩歌を書くことを恥ずかしいことと捉える風習が世の中にはあります。
鍵付きのノートに書かれたポエムや酔った勢いで投稿したSNS等はいわゆる「痛い」と言われることが多い。

ところで私は趣味で短歌を書いたりしています。

短歌という五七五七七の定型詩の理由としてはひとつに長い散文詩であると始点と終点を決めかねたあげく迷子になってしまうから。
そして五七五の俳句形式だとすっごいセンスを問われちゃうから。
定型に落とし込まない自由律俳句も同じでセンス問われるじゃないですか。怖すぎ。

咳をしても1人
って自由律俳句があって、これって誰でも書けちゃうけど、誰も書こうとしない瞬間を詩に落とし込もうとしたからこそ評価されていると思うんです。

瞬間を言葉として凍結するのが詩歌です。
ただ言葉ではない瞬間を凍結し表現できる媒体は詩歌だけではなく、写真や音楽もその類であり、良い写真というのは物体だけでなく、それを取り巻く空間ごとを永遠として残せるものですし、音楽も言葉にできないものをメロディーとして音に落とし込み記録して残し永遠にできる媒体です。

私が他の媒体があるその中で詩歌が好きなのは読者が好きに解釈できる文脈があることです。

五七五七七では自分が美しいと感じ残したいと思った瞬間全てを凍結することは叶いませんが、ただその短さがその瞬間の美しさを厳選し研ぎ澄ますことができます。
短歌を残せば作り手はそれを見返した時に美しかった瞬間を思い出すことができる。
そういったインデックスのような役割を持つことができると思っています。
読み手は書かれていない文脈に想像を馳せて短歌の解釈を拡大させることができる。

私は古文が苦手でクラシックな古典文学の短歌はわからないんですが、現代短歌というジャンルの口語文で書かれた比較的自由な短歌をよく読んでいます。

その中でも千種創一という歌人が好きで、手元にある歌集から抜粋すると、

昼過ぎのあなたの寝癖を濡らすとき
指にはくろい炎の絡む

という一つの歌があります。

正直この文章だけではなんのこっちゃって感じです。だから何?で片付いてしまう。

でも深読みすると、昼過ぎに寝癖を直す光景を見ているってことは、同居か恋人か夫婦か恋人かはわからないけど一緒に寝ていたことは確か。しかも昼過ぎに直しているってことは昨日は夜更かししたのか、もしくはそれとも起きたけど昼過ぎまで布団から出なかった。
そういう状況になる2人は少なくとも親密な関係であるという解釈ができます。
寝癖を直す時に指に絡む濡れた髪をくろい炎と表現するところも作り手の世界の見方がわかる面白いポイントですし、その仕草を文学的に表現できるほど観察してるって結構相手のこと好きですよね。

私の解釈する情景は、休日に恋人と布団から出ない気怠い朝を過ごし、空腹のためせっかくの休みだし昼食は外で摂ろうと決め、出掛ける前の恋人の身支度を洗面台に並んで見てるというシチュエーションです。

どきどきするし、幸せそうだし、なんだかほんのり色気がある。えっち。

こういう美しい瞬間を凍結させてお守りみたいに持って生きていけたら、辛いことがあっても美しい瞬間のためまた良く生きようと思えそうな気がします。月並みな感想ですが。

誰が為に包む花だけ少しでも
長く咲くよう祈って包む

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